すべては皇室に繋がっている

次男の薨去・葬儀にも帰国せず 単身で7年間も留学した皇女の夫 東久邇宮稔彦王

明治天皇の4人の娘はいずれも宮家に嫁いだ。

皇女の相手は、

竹田宮恒久王

北白川宮成久王

朝香宮鳩彦王

東久邇宮稔彦王


そして、皇女の夫達は複数子供に恵まれ宮家の繁栄と継続が約束された後、早死にした竹田宮を除き、全員が単身で留学している。

北白川宮と結婚した房子内親王は、後から渡仏し夫と合流して現地の有力者と親交を深めた。

留学は軍事と社交が目的と言われている。

時は大正時代。

男性皇族は基本的に軍に属し、軍の幹部になっていた時代である。


7年に及ぶ長期留学は東久邇宮稔彦王のみであり、その理由として「留学先で愛人を作り自由な生活を謳歌、帰国を拒否していた」という話が世間一般に流されている。

しかし、東久邇稔彦王は留学先のフランスで士官学校を卒業後に世界的に有名な高等教育研究機関のエコール・ポリテクニークに入学していた。

正規の入学では卒業までに士官学校は3年、高等教育研究機関は4年を要する。

また、エコール「・ポリテクニークは、理工系の専門技術を学ぶエリートコースで、軍の技術者や幹部を養成する機関だった。

他の婿達は2年の予定で士官学校に留学しており、当初から東久邇宮については異例の長期留学が計画されていたと考えられる。


留学は、

東久邇宮 大正    9年〜

北白川宮 大正10年〜

朝香宮  大正11年〜

と微妙にずらしている。


学業を終えた昭和天皇は、摂政宮となる前に欧州を訪問し見聞を広めた。

皇室史上初の皇太子の欧州5カ国(英、仏、伊、蘭、白)訪問。

大正10年3月3日〜9月3日の半年間だった。

東久邇宮の留学は甥にあたる皇太子の欧州訪問の半年以上前からである。

皇族という同じ身分で身内の彼が最終的な現地調査や根回しを担う事で「前例の無い皇太子の欧州訪問」を成功に導いたのだろうか。

現地の人達との親睦は、日本の皇太子の訪問前後がより効果的なのだろうか。


大正12年9月1日に関東大震災が発生、

東久邇宮家の第2王子が被災し命を落とした。

結婚5年目で留学し長い別居生活。

稔彦王が、子どもを失った辛い時期に妻子を放ったらかして留学先で愛人と自由な生活を満喫し、帰国の命令にも従わずにいたなら、昭和天皇が信頼する筈がない。

ところが、昭和天皇が長女の結婚相手に選んだのは稔彦王の長男で東久邇家の後継ぎ。

稔彦王は皇女の夫に選ばれただけでなく、皇女の義理の父親にも選ばれた。

そして、敗戦後には総理大臣に任命されて敗戦処理を行った。






Wikipediaより





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