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コンペイトウ・ハウスただいま増殖中

2006年09月27日 | 日々のアブク
 先日の自転車ネタの補足(or蛇足)をチョットダケ記しておく。ショッピングセンターから住宅街の裏道をとおって自転車で家に戻るときに感じたことである。

 私ども一家が当市に移住してから早いもので既に12年以上が経過した。当時はまだアマエンボの2才児だったタカシは,今では来春の高校受験を控える田舎中学生になってしまった。また,アキラはここに来てから生まれたので,いわば純粋の土地っ子(山家の猿),こちらの方も来春には中学校に進学する予定である。まことにク・ル・タン・パッス・ヴィット(光陰矢ノ如シ!) 10年なんてあっという間の出来事だ。

 それはさておき,当地に10数年住み暮らしている間に,この首都圏辺縁部に位置する小都市のたたずまい,特に住宅地の街並み景観が,気が付けばいつのまにやらドラスティックに変貌している。そういったことを自転車で街中を回っているとつくづく感じるのである。そこが旧市街であれ或いは町外れであれ,宅地の細分化,小規模新築住宅(ショートケーキ・ハウス)の建設ラッシュが年を追うごとに目立っている。いや,建設ラッシュといっては少々言い過ぎか。せいぜいのところ,それはモザイク状に虫食い的にジワリジワリと進行しているといった方が適当かも知れぬ。具体的に述べれば,数100坪の敷地面積を有する古い家屋敷が,ある日突然取り壊され,いったん更地となったのち,少ししてその跡地に精々30坪程度(ギリギリ100㎡超基準)のチマチマした建売住宅が数軒並ぶようになったり。また別のところでは,かなり広い土地に余裕をもって建てられていた会社の家族寮ないし独身寮とみられる低層住宅群が,やはりある日突然取り壊されて,その後には同じくチマチマ建売住宅がゴチャゴチャと十数軒も林立することになったり。あるいはまた,二世帯,三世帯からなる大家族の旧家において,恐らく若い世代が強く望んだのであろう,敷地の一部に瀟洒で小綺麗な家を建てて親から半独立し,新旧併存する住居形式となったり。等々の事例が随所で観察される。商業地域(旧来の地域商店街)や工業地域(大規模工場ないし中小企業工場団地)ないしは市街化調整区域(農耕地ないし山林)などの景観が10年1日のごとく変わり映えしないのに比べると,それは都市的土地利用における顕著な構造的変化であると思われる。

 恐らくこの現象は決して当市だけのことではなく,大都市圏全体に共通する傾向なのだろう。近年の核家族化および少子化の進行に連動した商品経済の複雑多様化ないし偏在特化,初等公教育の明らかなレベルダウンと高等教育の成果主義がもたらした文化の均一化ならびに逆差別化,過度の人口集積と情報の過剰供給に便乗したマスメディアによる巧妙な世論操作,そういった数々の矛盾を同時多発的に孕んでいる「日本の歴史にはかつてなかった飽食と物の洪水の時代」(by鶴見俊輔)のなかにあって,一般大衆がケナゲにもシタタカにも選択した生活様式(ライフスタイル),それがこのような土地利用変化に反映されているのだろう。いやしくも農耕民族の末裔たる我々,その拠り所となる根っこ(ホームポジション)は結局のところ住居なのであるからして。

 加えて,バブル経済華やかなりし頃には全くの高嶺の花であった個人住宅の取得が,バブル末期からその終焉,さらには長い低成長期へと続く不確実性の時代に突入するとともに,低金利を後ろ盾として,再び一般大衆の手の届くところに引き寄せられたこともその傾向を助長したのかも知れない。賃貸住宅の月々の家賃よりも住宅ローン月返済額の方が安いんですよアナタ,とか何とかタブラカサレタ人も多かろう(ああ耳が痛い)。卑近な例を挙げて恐縮であるが,私どもが当地に住居を求めるに際しては某都市銀行において25年の住宅ローンを組んだのだが,その1993年暮れには長期プライムレートの変動金利は年3.80%であった。その後,半年ごとの見直しのたびに金利はやや上昇し,1994年には年4.90%までになったが,その時点をピークとして以後は下降に転じ,1995年が3.20%,1996年が3.00%,1997年が2.50%,1998年が2.35%,2002年が2.25%となり,そして2005年には年2.15%まで低下して現在に至っている。今になって振り返れば確かに結果オーライの楽々返済プランとなっている。もっとも,当方の収入のほうも1998年あたりをピークとして漸減傾向にあり,その流れを食い止める有効な術を持たないまま,逆に子供らの成長とともに必要不可欠とされる養育費というか教育費というか,それらの占める割合がグングン増大し続けている。どっちにしろ綱渡りの人生である(おっと,つまらん愚痴を晒してしまった)。

 ヨタ話のついでに更に余計を言わせてもらえば,この現代日本社会においては,インターネットや携帯電話などのIT産業を主体とする商品経済の発展と「ショートケーキ・ハウス」の隆盛とは密接不可分のものであるように思われる。それはちょうど,今から約半世紀近く前の高度経済成長期に関西圏において「文化住宅」なる珍妙な住居群が盛んに建設されたときの状況とよく似ている。ともに,ある地域集団における「家」に対する欲求がとりわけ強くなった時期だ。ハイティーンの頃,何度か西日本方面に出掛ける機会があったが,京都から大阪に向かう鉄道やバスの車中から望見される文化住宅の整然とした配列ぶり,画然とした陳列ぶり,傲然とした羅列ぶりにビックリした記憶がある。当方,生まれも育ちも関東のイナカモノにつき,かつその当時はごく若輩者であったがゆえ,あのような文化住宅を生みだした関西人たちのメンタリティ(価値観)が一向に理解できず,まるで異常発生したある種の社会性昆虫の巣群のごとき不思議なモノの集合体としてあれらを眺めていたものだ。それが今,いくぶん形を変えながら我家の周囲に,のみならず首都圏全般に広く蔓延している。関西人の先見性にただ感心するばかりである。

 将来的なことを少し真面目に想像するに,IT産業至上主義ともいうべき新たなる消費社会がもたらす従来の生活様式の変貌,それらは核家族化の加速度的な進行を促し,やがては家族解体をもたらすことにもなるだろう。ケータイ社会が導く未来とは,つまりはそういったものだ。「家」について言えば,いずれ一人一人が一軒の「家持ち」になることを強く望む日が来るような気がする。キャンプ場のバンガローみたいに,あるいはダンボールハウスの主みたいにネ。かくして現代ニッポン社会において宅地がひたすら細分化されてゆくことは歴史的必然なのである。種としての生物進化の一過程だもの,それは致し方ない。アフリカはタンガニーカ湖におけるシクリッド科魚類の種分化にも擬せられるだろうか(何のこっちゃい)。

 なんだか話がずんずんアホラシクなってゆくゾ。自転車での帰り道の風景に戻ろう。

 で,そういった新しい家々,特にショートケーキ・ハウスの方に共通する傾向として,狭い敷地のなかにクルマの駐車スペースを何とか2台分は確保したいなどと欲張るものだから,建物と道路の敷地境界との間にはオープンな駐車場,というか単にクルマを置くためのコの字型のスクエアな空間があるだけで,かつその場所は塀や柵や生垣などで囲われていないことが多い。すなわち,前を通る一般道路からすぐ手の届くところまで建物が接近している。不用心といえば不用心である。下町の長屋じゃあるまいし。さらに加えて,そのようなコンペイトウ・ハウス(疑似洋風建物)にあっては,1階の道路に面した部分にリビングorリビングダイニングをしつらえるのが一般的であり,かつそのリビングの造作は概して開放的で,上下左右に大きく開かれた,いわゆる「掃き出し窓」が屋外からの採光をより多く取り入れるよう設計されている。そのため,夜間,住宅地内を自転車でゆっくりと走っていると,特に夏場などは道路から家の中の様子が否応なしに垣間見えてしまうお宅が少なくない。昨今の社会情勢をオモンバカルにつけ,それは実に不用心だ。繰り返すが下町の棟割長屋じゃないんだからネ!

 ああ,ようやく本来言いたかったところに辿り着いた。

 それらの家々の前を通るとき,1階居間の掃き出し窓のレースのカーテン越しに,部屋の壁面近くに置かれたテレビがボンヤリと映し出されているのが見えたりする。青白く光るそのテレビはほとんどが30~40インチ,あるいは50インチを超えようかという大画面のプラズマだか液晶だかの,ハイビジョンだかデジタルだかの薄型テレビだ。夜目にも美しい光を放つその最先端IT家電製品は,まるで家の中心に祭られた神棚のようだ。大画面テレビジョンを拠り所とする生活様式ないし家族形態,それもまたショートケーキ・ハウスの属性なのである。これがもし古き良き時代の質素でつましい日本家屋であったなら,あるいはモンゴル高原のパオであったなら,アメリカン・インディアンのティーピーであったなら,リビングの中心には囲炉裏foyerがしつらえてあるのだろうが,現代ニッポンシャカイにおいてはそんなものとうの昔に寓話(=幻想)になってしまった。

 大型テレビの前で気持ち良さげに寛いでいるヒトビトは,例えば「クローズアップ現代」を見ているわけでも「イタリア語講座」を見ているわけでも,あるいは「きょうの健康」を見ているわけでもなかろう。多分は「お笑い・バラエティ系」か「トレンディ・ドラマ系」か「サッカー・プロ野球系」か,そんな類の番組で一日の疲れをアハハ・ケラケラと癒しているといった公算が極めて大である。デカルト風にいえば,それは機械仕掛けの人形が単に外部からの刺激に反応しているに過ぎないのだ。いつの頃からこんな暮らしがアタリマエになってしまったのだろうか。長田弘に指摘されるまでもなく,下等動物に未来はないというに! (あれれ下等動物ですか)

 いや,それにしても我ながらヒネクレタ脳だ。性分とはいえ相不変ドーデモイイことにブツブツブツブツと,精神衛生上まことによろしくない。はいはい。人の好みは十人十色。TVで何を見ようが,TVにどんな救いを求めようが, TVによってミイラ取りがミイラになろうが,ワタクシは一向に構いませんデス。しょせんはアナタもワタシもシクリッド・フィッシュなんですから(ただし,出来ますれば,通りに面した窓のカーテンくらいはきちんと閉めていただけると有リ難イノデスガ...)

 どうも抑えが効かなくなってしまったゾ。とまれ,そういった夜の住宅地のなかを自転車でゆっくりと通り過ぎて行くと,様々な妄想が無限ループのように湧き上がってくるのを止めることが出来ない。秋の夜風が少しばかりヒンヤリ身に沁みる今日この頃である。そしてそのうちに,まるで今の自分が,かつて中島みゆき姉御が唄ったところの「エレーン」になったような気がしてくるのだ。


  今夜雨は冷たい
  行く先もなしにオマエがいつまでも
  灯りの暖かに点ったにぎやかな窓を
  ひとつずつ覗いてる
  今夜雨は冷たい...


 ヲイヲイ。こりゃまるで,店の売り場の冷蔵棚に陳列してある缶ビールをその場で飲んじまったジーサンと一緒ではないか。生きていてもいいですか? と,ワタクシは一体誰に問えばよいのだろうか。ダロウカ?
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