また8月12日が巡ってきた。今年はあれからちょうど25年目になる。はや四半世紀もの歳月が過ぎたというわけだ。その時間がとても長かったのか,それともあっという間のことだったのか,すっかり年老いてしまった今の私には全てがまるで酔生夢死のごときで何やら判然としない。最近,いわゆる「自分史」を軸とした歴史理解力が急速に衰えている。過去と現在との「位置関係」が自分のなかでズンズン曖昧になってきて,過去のさまざまな出来事が,大事なものも取るに足らないものも等しく他人事といったテイタラク,それらに確たる意味を見出せなくなっている。どちらかといえば気持ちはほとんど姥捨山の方角を向いているのかも知らん。
ま,そげんな生物学的消長についての個人的感慨なんぞは例によってドーデモイイことでありまして,私がここで一寸記録しておこうと思うのは,あの悲惨な事故が起きた日,私は福島県から宮城県にかけての山中で川の生物調査を行っていたという自分史的なヒトコマ,ならびに交通事故にまつわる若干のヨシナシゴトである。
当時はまだ環境コンサルタント系の零細企業に所属する一介の給与生活者であり,私は主として川や湖の水生生物調査を担当し,フィールドワークにデスクワークに,すこぶる忙しい日々を過ごしていた。そのとき調査を行った河川は一級河川の阿武隈川で,中流部から河口部までの区間に計9地点の調査地点が設定され,各地点において底生動物(川底に生息する水生昆虫などの微小無脊椎動物)および付着藻類(河床の礫に付着する,いわゆる水垢とよばれる下等藻類)を採取するという業務であった。若い相棒と二人だけでの小規模な調査で,調査工程は移動を含めて三日間,お盆の時期に東京からあわただしく車で往復した。連れは大学を出てまもない男で,フィールドワークの経験はまだまだ乏しかったが,仕事に対しては非常に熱心に取り組む生真面目な性格であったがゆえ,調査の方も比較的順調に進んだ。
真夏の暑い日差しが照りつけるなかで汗水たらして終日続けた作業を一段落させたのち,夕方,地方都市の小さなビジネスホテルに投宿した。食堂で夕食を済ませた後はとくにすることもなく,粗末で殺風景なシングルルームで一人くつろいで,テレビなどをぼんやり眺めながら昼間の疲れを癒していた。そんなとき,TVの臨時ニュースで羽田発大阪行きの日航機が行方不明になっていることを知ったのだ。それは500人以上の乗客を乗せたジャンボジェット機だという。テレビ各局の慌ただしくも深刻な報道ぶりから,その事件ないし事故の重大さがうかがえた。リアルタイムに刻々と流される報道内容はかなり混乱し錯綜しており,当のジャンボ機が現在どこにいるのか,もう墜落してしまったのか,とすれば墜落場所はどこなのか,はっきりした情報を伝えられないまま徒に時が過ぎていった。やがて,長野県だか群馬県だかの山中に墜落したらしいことが明らかになるが,真夜中のことゆえ,それ以上の詳細な情報はなかなか上がってこない。その間,気まずい時間を保たせるためなのか,乗客名簿が延々と,まるでお経を唱えるように繰り返し繰り返し読み上げられてゆく。。。。 結局,深夜かなり遅い時間までテレビのニュースに釘付けになってしまった。
翌朝,寝不足の重い身体を引きずりながら1Fの食堂に下りてゆくと,相棒も私以上に寝ぼけた顔をしており,聞けばやはり日航機墜落のニュースを深更まで見続けていたとのことだった。ヲイヲイ,我らにとっては,当面,昨日の事故より今日の調査が第一だ。とにかく,コッチも事故を起こさぬように十分注意して,残りの調査をツツガナク済ませることにしようや,と互いに気合いを入れたものだった。けれどもやはり,昼間調査を行っている最中にも事故の顛末がどうしても気になってしまい,調査地点の移動途中にはカーラジオのヴォリュームを大にして流れるニュースに耳をそばだてた。そして数名の生存者が確認されたことを知った。おお,何という数奇な運命のヒトビトであろうか! それはまったく他人事とは思われず,悲惨な墜落事故から彼女らが生還できたことを心から祝福した。そんなことが25年前の自分史の一断面として今なお記憶の底に残されている。
事故の犠牲者のなかには歌手の坂本九Kyuu Sakamotoがいた。私が9才から17才までの若年期を過ごした神奈川県川崎市の同じ下町出身の超有名人だ。その街の空はいつだってドンヨリ霞んだ感じの煤煙に覆われていて,家並みや建造物はどれもこれもみすぼらしいが主要幹線道路だけはやけに立派でだだっ広く,産業道路をひっきりなしに往来するトラックがまき散らす排ガスの煙,大小さまざまな工場から発せられる騒音,振動そして臭気など,街の風景は一見ガサツで殺風景でゴミゴミしていた。けれどもそんな混沌(カオス)のなかに住み暮らす人々には不思議と活気があって,元気で陽気で明るい雰囲気が表通りにも路地裏にも満ちあふれていた。きっと未来が信じられていたからだろう(♪明日があるさ!)。そのような当時の日本経済発展の先端を突っ走る工業都市川崎において,彼は地元の輝けるヒーロー,そして言うまでもなく時代のヒーローであった。九ちゃんはオレらの近所のヒトなんだゼ! と,ヨソの人たちに十分に自慢できる存在であった。正確に申せば,彼の実家は私どもの家からは少し離れており,昔の東海道宿場町の街道沿いの東側と西側,それぞれの付近にかつて存在した遊郭エリアでいえば彼は南町,私は堀之内の界隈に住まっていた。小学校の学区は隣同士で,アチラは川崎小学校(伝統校!),コチラは宮前小学校(進学校?)だった。それから,私の家のすぐ向いにあった市立病院には彼の兄が薬剤師として勤務しているとのことで,あぁ,九ちゃんはキラビヤカな芸能界なのに,お兄さんの方は地味で堅気でカシコイんだねぇ,などと近所のオトナたちは噂しあったものだ。ともかく,そういう親近感はいつも抱いていた。その彼が飛行機事故でアッサリと死んでしまった。まだ40代だったという。これを無念と言わずして何と言おう。
また別に,500余名の犠牲者のなかには私の中学時代の2年上の先輩が含まれていたことを,こちらは少し後になって知るところとなり,やはり大変驚いたものだった。5年前に死んだウチの兄貴と同学年の人で,ちょっと不良っぽい影のあるその容姿や風貌は学校の内外でよく見知っていた。中学を出たのちに彼がどのような人生を歩んだのかは承知しないが,それにしても30代での突然の事故死である。無念極まる思いであったことだろう。
とまれ,そんな風にして,知った人・見知らぬ人,有名な人・無名な人,仕合せな人・不仕合せな人が,一瞬のうちにジッパヒトカラゲに死んでしまった大事故なのであった。なんと言うこともない夏の平凡な一日が,突然暗転して悲劇の一日へと変わる。これはもう運命論者になるか虚無主義者になるか,あるいは宗教に帰依するしかないデハナイカ!
そもそも,飛行機だろうが電車だろうが船舶だろうがクルマだろうが,交通事故というのは悲惨なものだ。日航機123便事故のように五百人が死のうが,国鉄横須賀線の鶴見事故のように百数十人が死のうが,青函連絡船の洞爺丸事故のように千数百人が死のうが,あるいは私の父や兄がかつて巻き込まれた自動車事故のように単独の死であろうが,交通事故の悲惨さは規模の大小を問わない。同じく悲劇的な死であっても,例えば自然災害による死,戦争による死などとはまったく異なる「空虚さ」がそこには常につきまとう。自然災害については,いわば「神の思し召し」的なところがある。何ともやり切れないけれども,それはこの地球という惑星に生きる者として悠久の地史的存在のなかで甘受せねばならないものだ,といった諦念がある。また,戦争による死というものは,そもそも生物種としてのラジカルな自然淘汰,ホモ・サピエンスのDNAのなかにあらかじめ組み込まれているプロセスの一環に過ぎない,といった,いわば自然哲学的認識が演繹される。
それに対して,たかだかこの百年ばかりの間に,近代機械文明社会の急速な発展とともに発生・成立し,助長・拡大を続けてきたこれら交通事故という名の人為災害,というか,むしろ人工的災害ないしメカニカル・トラジェディといった方が適切だろうか,それらは結局のところ機械文明のもたらした利便性の代償,自然制覇のシッペ返しでしかないのだ。極めて単純な悲劇の生成である。人は便利さと引き替えに多くのものを失う,とはよく言われることだ。交通事故により死んでいった人の無念さ,残された人の悲しみ,それらを一切胸に抱えながら,我々はただただ天を仰いで涙を流すのみなのである(♪見上げてごらん,夜の星を!)。間違っても天に唾してはならない。 Ne crache jamais au ciel!
あれから25年。その間も悲惨な交通事故は絶えることがない。あぁ,今日も今日とてウチの近所のバカ高校生が,恐らくは親のスネを目一杯カジッて調達したと思われる立派な大型スクーターにまたがって,ヘルメットを頭の後ろにチョコンとぶら下げただけの格好で,アクセルを思い切り吹かして大音響でブイブイ言わせながらどこかに向かって出撃してゆく。彼らにどんな未来が待ち受けているのか。それは知るよしもない。ただ,彼らの日々の行為がすなわちこの国の未来を今更ながら暗示している,それだけは確かなことだ。無駄に死ぬんじゃないゾ。少なくとも,死ぬときは他人を巻き込むんじゃないゾ! と陰ながら祈るばかりである。
ま,そげんな生物学的消長についての個人的感慨なんぞは例によってドーデモイイことでありまして,私がここで一寸記録しておこうと思うのは,あの悲惨な事故が起きた日,私は福島県から宮城県にかけての山中で川の生物調査を行っていたという自分史的なヒトコマ,ならびに交通事故にまつわる若干のヨシナシゴトである。
当時はまだ環境コンサルタント系の零細企業に所属する一介の給与生活者であり,私は主として川や湖の水生生物調査を担当し,フィールドワークにデスクワークに,すこぶる忙しい日々を過ごしていた。そのとき調査を行った河川は一級河川の阿武隈川で,中流部から河口部までの区間に計9地点の調査地点が設定され,各地点において底生動物(川底に生息する水生昆虫などの微小無脊椎動物)および付着藻類(河床の礫に付着する,いわゆる水垢とよばれる下等藻類)を採取するという業務であった。若い相棒と二人だけでの小規模な調査で,調査工程は移動を含めて三日間,お盆の時期に東京からあわただしく車で往復した。連れは大学を出てまもない男で,フィールドワークの経験はまだまだ乏しかったが,仕事に対しては非常に熱心に取り組む生真面目な性格であったがゆえ,調査の方も比較的順調に進んだ。
真夏の暑い日差しが照りつけるなかで汗水たらして終日続けた作業を一段落させたのち,夕方,地方都市の小さなビジネスホテルに投宿した。食堂で夕食を済ませた後はとくにすることもなく,粗末で殺風景なシングルルームで一人くつろいで,テレビなどをぼんやり眺めながら昼間の疲れを癒していた。そんなとき,TVの臨時ニュースで羽田発大阪行きの日航機が行方不明になっていることを知ったのだ。それは500人以上の乗客を乗せたジャンボジェット機だという。テレビ各局の慌ただしくも深刻な報道ぶりから,その事件ないし事故の重大さがうかがえた。リアルタイムに刻々と流される報道内容はかなり混乱し錯綜しており,当のジャンボ機が現在どこにいるのか,もう墜落してしまったのか,とすれば墜落場所はどこなのか,はっきりした情報を伝えられないまま徒に時が過ぎていった。やがて,長野県だか群馬県だかの山中に墜落したらしいことが明らかになるが,真夜中のことゆえ,それ以上の詳細な情報はなかなか上がってこない。その間,気まずい時間を保たせるためなのか,乗客名簿が延々と,まるでお経を唱えるように繰り返し繰り返し読み上げられてゆく。。。。 結局,深夜かなり遅い時間までテレビのニュースに釘付けになってしまった。
翌朝,寝不足の重い身体を引きずりながら1Fの食堂に下りてゆくと,相棒も私以上に寝ぼけた顔をしており,聞けばやはり日航機墜落のニュースを深更まで見続けていたとのことだった。ヲイヲイ,我らにとっては,当面,昨日の事故より今日の調査が第一だ。とにかく,コッチも事故を起こさぬように十分注意して,残りの調査をツツガナク済ませることにしようや,と互いに気合いを入れたものだった。けれどもやはり,昼間調査を行っている最中にも事故の顛末がどうしても気になってしまい,調査地点の移動途中にはカーラジオのヴォリュームを大にして流れるニュースに耳をそばだてた。そして数名の生存者が確認されたことを知った。おお,何という数奇な運命のヒトビトであろうか! それはまったく他人事とは思われず,悲惨な墜落事故から彼女らが生還できたことを心から祝福した。そんなことが25年前の自分史の一断面として今なお記憶の底に残されている。
事故の犠牲者のなかには歌手の坂本九Kyuu Sakamotoがいた。私が9才から17才までの若年期を過ごした神奈川県川崎市の同じ下町出身の超有名人だ。その街の空はいつだってドンヨリ霞んだ感じの煤煙に覆われていて,家並みや建造物はどれもこれもみすぼらしいが主要幹線道路だけはやけに立派でだだっ広く,産業道路をひっきりなしに往来するトラックがまき散らす排ガスの煙,大小さまざまな工場から発せられる騒音,振動そして臭気など,街の風景は一見ガサツで殺風景でゴミゴミしていた。けれどもそんな混沌(カオス)のなかに住み暮らす人々には不思議と活気があって,元気で陽気で明るい雰囲気が表通りにも路地裏にも満ちあふれていた。きっと未来が信じられていたからだろう(♪明日があるさ!)。そのような当時の日本経済発展の先端を突っ走る工業都市川崎において,彼は地元の輝けるヒーロー,そして言うまでもなく時代のヒーローであった。九ちゃんはオレらの近所のヒトなんだゼ! と,ヨソの人たちに十分に自慢できる存在であった。正確に申せば,彼の実家は私どもの家からは少し離れており,昔の東海道宿場町の街道沿いの東側と西側,それぞれの付近にかつて存在した遊郭エリアでいえば彼は南町,私は堀之内の界隈に住まっていた。小学校の学区は隣同士で,アチラは川崎小学校(伝統校!),コチラは宮前小学校(進学校?)だった。それから,私の家のすぐ向いにあった市立病院には彼の兄が薬剤師として勤務しているとのことで,あぁ,九ちゃんはキラビヤカな芸能界なのに,お兄さんの方は地味で堅気でカシコイんだねぇ,などと近所のオトナたちは噂しあったものだ。ともかく,そういう親近感はいつも抱いていた。その彼が飛行機事故でアッサリと死んでしまった。まだ40代だったという。これを無念と言わずして何と言おう。
また別に,500余名の犠牲者のなかには私の中学時代の2年上の先輩が含まれていたことを,こちらは少し後になって知るところとなり,やはり大変驚いたものだった。5年前に死んだウチの兄貴と同学年の人で,ちょっと不良っぽい影のあるその容姿や風貌は学校の内外でよく見知っていた。中学を出たのちに彼がどのような人生を歩んだのかは承知しないが,それにしても30代での突然の事故死である。無念極まる思いであったことだろう。
とまれ,そんな風にして,知った人・見知らぬ人,有名な人・無名な人,仕合せな人・不仕合せな人が,一瞬のうちにジッパヒトカラゲに死んでしまった大事故なのであった。なんと言うこともない夏の平凡な一日が,突然暗転して悲劇の一日へと変わる。これはもう運命論者になるか虚無主義者になるか,あるいは宗教に帰依するしかないデハナイカ!
そもそも,飛行機だろうが電車だろうが船舶だろうがクルマだろうが,交通事故というのは悲惨なものだ。日航機123便事故のように五百人が死のうが,国鉄横須賀線の鶴見事故のように百数十人が死のうが,青函連絡船の洞爺丸事故のように千数百人が死のうが,あるいは私の父や兄がかつて巻き込まれた自動車事故のように単独の死であろうが,交通事故の悲惨さは規模の大小を問わない。同じく悲劇的な死であっても,例えば自然災害による死,戦争による死などとはまったく異なる「空虚さ」がそこには常につきまとう。自然災害については,いわば「神の思し召し」的なところがある。何ともやり切れないけれども,それはこの地球という惑星に生きる者として悠久の地史的存在のなかで甘受せねばならないものだ,といった諦念がある。また,戦争による死というものは,そもそも生物種としてのラジカルな自然淘汰,ホモ・サピエンスのDNAのなかにあらかじめ組み込まれているプロセスの一環に過ぎない,といった,いわば自然哲学的認識が演繹される。
それに対して,たかだかこの百年ばかりの間に,近代機械文明社会の急速な発展とともに発生・成立し,助長・拡大を続けてきたこれら交通事故という名の人為災害,というか,むしろ人工的災害ないしメカニカル・トラジェディといった方が適切だろうか,それらは結局のところ機械文明のもたらした利便性の代償,自然制覇のシッペ返しでしかないのだ。極めて単純な悲劇の生成である。人は便利さと引き替えに多くのものを失う,とはよく言われることだ。交通事故により死んでいった人の無念さ,残された人の悲しみ,それらを一切胸に抱えながら,我々はただただ天を仰いで涙を流すのみなのである(♪見上げてごらん,夜の星を!)。間違っても天に唾してはならない。 Ne crache jamais au ciel!
あれから25年。その間も悲惨な交通事故は絶えることがない。あぁ,今日も今日とてウチの近所のバカ高校生が,恐らくは親のスネを目一杯カジッて調達したと思われる立派な大型スクーターにまたがって,ヘルメットを頭の後ろにチョコンとぶら下げただけの格好で,アクセルを思い切り吹かして大音響でブイブイ言わせながらどこかに向かって出撃してゆく。彼らにどんな未来が待ち受けているのか。それは知るよしもない。ただ,彼らの日々の行為がすなわちこの国の未来を今更ながら暗示している,それだけは確かなことだ。無駄に死ぬんじゃないゾ。少なくとも,死ぬときは他人を巻き込むんじゃないゾ! と陰ながら祈るばかりである。