いい年をして恥をさらすようであるが,わたしは漢字を知らない。より正確に言えば,漢字をマトモに書けない。老残にまかせて開き直るわけでもないが,かろうじて書ける漢字にしたところが,その筆順や書体はかなりテキトウだ(少なからず間違っているだろうと思う)。のみならず,書かれた字そのもの(筆跡)も大変キタナイので,他人からすれば,わたしの書く漢字はまるで象形文字のように映じるのではないか知らん。
幸か不幸か,と申すべきか,最近の日常生活においては公私を問わず「直筆で」文字や文章を書く機会が非常に少なくなってきているものだから,一応ソレナリニ助かっている。現状における私の漢字書き取り能力は,冷静かつ客観的に自らを診断すれば,そうさな,せいぜいのところ中学三年生レベルではないかと思う。あぁ,そうそう,今から三,四年前のことになるだろうか,ニンテンドーDSの「漢検ソフト」の問題を割と真剣に解いてみたことがあった。確かそのときは三級程度までは何とか合格できたが,準二級については少々怪しく,さらに二級ともなればもう完全に不合格であった。今では三級ですら怪しいかも知れない。なお,チョットだけ言い添えておけば,わたしがダメなのは「書き取り」に関してであって,「読み」の方は何とかひととおりこなせる。漢検でいうと準一級くらいまではまずダイジョウブ,一級でも多分合格点をもらえるような気がする(我ながら苦しい言い訳です)。いずれにしろ,かくのごときテイタラクは,漢字文化圏に生きる者として,また,三十有余年の長きにわたってモノを調べ,モノを書くことを生業としてきた者として,まことに忸怩たるものがある。
ところで,以上のことは長年のワープロ使用による影響が甚だ大きいと思われる。とにかくここ数十年の間は書くことのほとんど全てをワープロに頼ってきたのである。直筆により書かれるモノといえば,とても人様には見せられないフィールドノート(野帳)や,出先での原稿書き(草稿)や,それから日常的にはグチャグチャに書き散らしたメモ書き(備忘録)くらいだろうか。その書きぶりときたら,いずれも「速記」ないし「暗号」のようなものである,と申せば多少は聞こえがいいのだろうか? いや,やはり言い訳にしかなるまい。そうだ,若年の一時期,速記者に憧れたことがあった。自らの字のキタナサを逆手にとって,よし,これを速記に応用してやろう!というわけで早稲田式速記の勉強をはじめた。もっとも,1ヶ月ほどですぐに挫折してしまいましたが。。。 なお,再びチョットだけ言い添えておけば,これでも小・中学校の頃は現在よりもよっぽどまともに漢字の書ける,きちんとした子供だったのであり,中学二年のときにはペン習字コンテストのクラス代表に推挙されたこともあったのデス(あぁ,恥ずべき思い出よ!)
それで話はワープロの問題になる。私が初めて日本語ワードプロセッサ(=ワープロ)なるものを直接使用したのは,今から約30年前,1982年のことである。当時勤めていた会社に,出入りの事務用品機器販売業者が東芝のJW-1という新しく出たばかりのワープロを売り込みにきた。将来的に非常に有望なビジネス・ツールですよ。取りあえず3日間ほど試用して,気に入ったら是非とも導入を御検討下さい! などといって,会社にデモ機をポンと置いていった。
勤め先は環境コンサルティング関係の小さな会社で,恒常的に多量の調査報告書を作成することを業とする職種だった。ただし,その当時は やっと世間に出始めた日本語ワープロが一式で数百万円もしたため,大手コンサルタントなどは別として,社員10人にも満たない零細コンサルにとってはまさに高嶺の花,それはとても導入できる価格ではなかった。それが,新製品のJW-1は何と約50万円という,当時としては画期的低価格(!)の機種であった。で,この手のビジネス・ツールに元々関心のあった私は,さっそくそのデモ機に飛びついて,仕事を一段落させた夜遅くの時間帯に,それこそ三日三晩いじくりまくり使い倒しましたね。あぁ,これはスゴイ機械だなぁ,すこぶる魅力的なマシンだなぁ,是非とも欲しいなぁ。などと,時代が確実に変わりつつあることを そうやって身をもって実感したような次第である。
その当時 私どもが係わっていた業務において,成果品たる調査報告書の作成は,原稿を写植印刷に出して印刷された報告書とするか,あるいは,手書き清書コピーによる報告書とするかのどちらかだった。実際には,主として発注予算の関係で,手書き報告書を求められることの方がむしろ多かった。そのため,字のきれいな女性アルバイトを何人か雇って,私らの書いたキタナイ原稿を彼女らに清書してもらっていた。ただし,その内容には専門用語が随所に含まれるため清書の段階でしばしば誤字や写し間違いが生じ,それらを校正するのがまた一手間だった。加えて,あとから加筆・修正すべき箇所が生じることも度々あったものだから,納期が押している場合などは私自身が苦心惨憺して清書せざるを得なかった。
業務の主たる発注者は国,地方自治体等の役所機関で,私の属していた零細会社は元請業者である大手コンサルからの下請をもっぱら行っていた。そして,業務の種類・内容によっては元請会社から当方に調査・分析・取りまとめを全て「丸投げ」されることもあり,その場合,役所に納入する最終報告書としての体裁をほぼ整えた形での成果品を元請に対して提出することを求められた。そんなとき,元請側の担当者とのやりとりではこちらからの納品を受諾されても,彼の上司たる部長あたりから,この部分の字がキタナイから書き直させるように! などとダメ出しをされて,提出した調査報告書を再びこちらに突っ返されることもあった。要するに当のウルサガタ部長にあっては「内容よりもまず見てくれ」なのである。そしてその指摘された部分が ほかならぬ私が清書した箇所であったりして,これにはさすがにメゲたものである。ちなみにそのときの部長は現在ではコンサル業界の「大立て者」といわれる存在になっているようだ。ま,それは余談でありますが。
話をJW-1に戻すと,結局のところ,会社のワンマン・ボスがOKを出してくれなかったので,ワープロ導入の案件は儚くも立ち消えとなり,相も変わらず手書き清書により報告書を作成するといった作業状態が継続したのであった。いつの時代にあっても新たなステージ(次世代)へと向かう道程は前途多難なものでアリマス。
その翌年,1983年にPC98用のワープロソフト「松」が管理工学研究所から発売された。それはビジネスの世界,とくに私が係わっていたスモール・コンサル・ビジネスの世界においては記念すべき年といって良いかと思う。それまでパソコン用アプリケーションソフトとして供されていたワープロソフトなるものはワープロ専用機に比べると全くオソマツなものばかりで,本格的な仕事にはまず使えなかったのだが,それが この「松」は,発売されるやいなや,その画期的な操作性,すぐれた入力・編集機能,素早い動作性等々により専用機と比べても遜色がないPC用ワープロソフトであると業界内外で広く喧伝され,絶賛されて迎えられたのであった。あるパソコンソフト情報雑誌の詳細評価では,総合的に100点満点で100点+αが付けられたくらいだ。その価格は9万8千円(すなわち必要経費で落とせる!)。これなら何とか無知なワンマン・ボスを説得できるかも知らん,というわけで,その有用性・必要性を懇切丁寧に説明した甲斐あって目出度く会社にワープロソフト「松」を導入することができた。
それ以後,私の仕事のスタイルは,全く変わった。調査報告書の成果品を,アルバイト清書に頼ることなく,最後の仕上げまでを含めて自らの手で作成できるようになったのだ。のみならず,プロポーザル,打ち合わせ資料,通信文書,社内文書などなど,仕事におけるぺーパー文書は全面的にワープロ「松」を用いて作成するようになった。その依存度は,それこそハンパではなかった。
いま改めてWikipediaで調べてみると,ワープロソフトの「松」は以下のようなバージョン・アップの変遷を辿っているようだ。
松(1983)/松85(1985)/松86(1986)/新松(1987)/松ver.5(1991)/松ver.6(1992)
当然のように,これらのバージョンアップを律儀にも忠実にも追いかけ続けた。すなわち,1980年代から90年代にかけての10数年間,私の仕事は常に「松」とともにあったのである。もちろん仕事のみならず,私的な諸々の文書作成においても松は欠かせなかった。松は我が自己表現と一体化していた。それは単に自己表現のアウトプットを行うツールであるというのみならず,アウトプット以前の雑多で混沌とした文章を,ファイルとして一時保管し,それらに適宜修正を加え,あるいはしばし熟成させるといった累積的・多層的な役割を担う意味においても すこぶる有益なツールであった。ちなみに その時期,パソコン用ワープロソフトの大勢としては,ジャストシステム社の「一太郎」が徐々に勢力を強めてきて,やがては販売シェアにおいて「松」を逆転してしまうことになる。そのような流れのなかで,発注者によっては一太郎による文書の作成,一太郎ファイルの提出を要求するところも出てきて,そのため,会社としては一太郎のソフト自体は導入せざるを得なかった。ただし,私自身の文書作成スタイルにかんしては,松から一太郎に移行することはなく,あくまで「松」を使い続けた。「一太郎」については最初期のjX-WORD太郎の頃から見てはいたが,その操作系全体に係わるセンスのなさが受け入れ難かった。加えて,これは個人的嗜好の問題になるが,何よりもそのネーミング自体カンベンしてほしかった。
しかしながら,時代は否応なしに変わってゆく。時を経てパソコンのプラットフォームがMS-DOSからWindows95に変更されるのが必定となるとともに,アプリケーションソフトもWindows対応のものを使用する必要にせまられた。表計算ソフトはMultiplanからLotus 1-2-3を経てMS Excelへ,そしてワープロソフトについては,松はWindows版が出されなかったため,やむを得ずMS-Wordに変更することとなった。それとともに約10余年におよぶ私の「松の時代」は終わりをつげた。時代の流れとはいえ,いささか悲しい終焉であった。それ以後はずっと惰性でMS-Wordを使い続け,度々のバージョンアップを重ねながら現在に至っている。そう,まさに身に染み付いた「ワープロ惰性」としか言いようがない。
以上が私のワープロ遍歴である。おおざっぱに言えば「松」が15年「Word」が15年ということで,我が人生における文字・文章のアウトプット履歴は,かれこれ30年もの間ワープロに強く依存し,ワープロのバージョンアップを追いかけ続け,というか,それに引き摺られ続けてきたというわけだ(これから先はどうか知らんけれども)。入力装置たるキーボードは ここ10年来はずっと東プレのREALFORCEを使用している。たまに鉛筆を握っても それこそ5分も保たないように思う。 左様,漢字を書けなくなるはずですよ!
幸か不幸か,と申すべきか,最近の日常生活においては公私を問わず「直筆で」文字や文章を書く機会が非常に少なくなってきているものだから,一応ソレナリニ助かっている。現状における私の漢字書き取り能力は,冷静かつ客観的に自らを診断すれば,そうさな,せいぜいのところ中学三年生レベルではないかと思う。あぁ,そうそう,今から三,四年前のことになるだろうか,ニンテンドーDSの「漢検ソフト」の問題を割と真剣に解いてみたことがあった。確かそのときは三級程度までは何とか合格できたが,準二級については少々怪しく,さらに二級ともなればもう完全に不合格であった。今では三級ですら怪しいかも知れない。なお,チョットだけ言い添えておけば,わたしがダメなのは「書き取り」に関してであって,「読み」の方は何とかひととおりこなせる。漢検でいうと準一級くらいまではまずダイジョウブ,一級でも多分合格点をもらえるような気がする(我ながら苦しい言い訳です)。いずれにしろ,かくのごときテイタラクは,漢字文化圏に生きる者として,また,三十有余年の長きにわたってモノを調べ,モノを書くことを生業としてきた者として,まことに忸怩たるものがある。
ところで,以上のことは長年のワープロ使用による影響が甚だ大きいと思われる。とにかくここ数十年の間は書くことのほとんど全てをワープロに頼ってきたのである。直筆により書かれるモノといえば,とても人様には見せられないフィールドノート(野帳)や,出先での原稿書き(草稿)や,それから日常的にはグチャグチャに書き散らしたメモ書き(備忘録)くらいだろうか。その書きぶりときたら,いずれも「速記」ないし「暗号」のようなものである,と申せば多少は聞こえがいいのだろうか? いや,やはり言い訳にしかなるまい。そうだ,若年の一時期,速記者に憧れたことがあった。自らの字のキタナサを逆手にとって,よし,これを速記に応用してやろう!というわけで早稲田式速記の勉強をはじめた。もっとも,1ヶ月ほどですぐに挫折してしまいましたが。。。 なお,再びチョットだけ言い添えておけば,これでも小・中学校の頃は現在よりもよっぽどまともに漢字の書ける,きちんとした子供だったのであり,中学二年のときにはペン習字コンテストのクラス代表に推挙されたこともあったのデス(あぁ,恥ずべき思い出よ!)
それで話はワープロの問題になる。私が初めて日本語ワードプロセッサ(=ワープロ)なるものを直接使用したのは,今から約30年前,1982年のことである。当時勤めていた会社に,出入りの事務用品機器販売業者が東芝のJW-1という新しく出たばかりのワープロを売り込みにきた。将来的に非常に有望なビジネス・ツールですよ。取りあえず3日間ほど試用して,気に入ったら是非とも導入を御検討下さい! などといって,会社にデモ機をポンと置いていった。
勤め先は環境コンサルティング関係の小さな会社で,恒常的に多量の調査報告書を作成することを業とする職種だった。ただし,その当時は やっと世間に出始めた日本語ワープロが一式で数百万円もしたため,大手コンサルタントなどは別として,社員10人にも満たない零細コンサルにとってはまさに高嶺の花,それはとても導入できる価格ではなかった。それが,新製品のJW-1は何と約50万円という,当時としては画期的低価格(!)の機種であった。で,この手のビジネス・ツールに元々関心のあった私は,さっそくそのデモ機に飛びついて,仕事を一段落させた夜遅くの時間帯に,それこそ三日三晩いじくりまくり使い倒しましたね。あぁ,これはスゴイ機械だなぁ,すこぶる魅力的なマシンだなぁ,是非とも欲しいなぁ。などと,時代が確実に変わりつつあることを そうやって身をもって実感したような次第である。
その当時 私どもが係わっていた業務において,成果品たる調査報告書の作成は,原稿を写植印刷に出して印刷された報告書とするか,あるいは,手書き清書コピーによる報告書とするかのどちらかだった。実際には,主として発注予算の関係で,手書き報告書を求められることの方がむしろ多かった。そのため,字のきれいな女性アルバイトを何人か雇って,私らの書いたキタナイ原稿を彼女らに清書してもらっていた。ただし,その内容には専門用語が随所に含まれるため清書の段階でしばしば誤字や写し間違いが生じ,それらを校正するのがまた一手間だった。加えて,あとから加筆・修正すべき箇所が生じることも度々あったものだから,納期が押している場合などは私自身が苦心惨憺して清書せざるを得なかった。
業務の主たる発注者は国,地方自治体等の役所機関で,私の属していた零細会社は元請業者である大手コンサルからの下請をもっぱら行っていた。そして,業務の種類・内容によっては元請会社から当方に調査・分析・取りまとめを全て「丸投げ」されることもあり,その場合,役所に納入する最終報告書としての体裁をほぼ整えた形での成果品を元請に対して提出することを求められた。そんなとき,元請側の担当者とのやりとりではこちらからの納品を受諾されても,彼の上司たる部長あたりから,この部分の字がキタナイから書き直させるように! などとダメ出しをされて,提出した調査報告書を再びこちらに突っ返されることもあった。要するに当のウルサガタ部長にあっては「内容よりもまず見てくれ」なのである。そしてその指摘された部分が ほかならぬ私が清書した箇所であったりして,これにはさすがにメゲたものである。ちなみにそのときの部長は現在ではコンサル業界の「大立て者」といわれる存在になっているようだ。ま,それは余談でありますが。
話をJW-1に戻すと,結局のところ,会社のワンマン・ボスがOKを出してくれなかったので,ワープロ導入の案件は儚くも立ち消えとなり,相も変わらず手書き清書により報告書を作成するといった作業状態が継続したのであった。いつの時代にあっても新たなステージ(次世代)へと向かう道程は前途多難なものでアリマス。
その翌年,1983年にPC98用のワープロソフト「松」が管理工学研究所から発売された。それはビジネスの世界,とくに私が係わっていたスモール・コンサル・ビジネスの世界においては記念すべき年といって良いかと思う。それまでパソコン用アプリケーションソフトとして供されていたワープロソフトなるものはワープロ専用機に比べると全くオソマツなものばかりで,本格的な仕事にはまず使えなかったのだが,それが この「松」は,発売されるやいなや,その画期的な操作性,すぐれた入力・編集機能,素早い動作性等々により専用機と比べても遜色がないPC用ワープロソフトであると業界内外で広く喧伝され,絶賛されて迎えられたのであった。あるパソコンソフト情報雑誌の詳細評価では,総合的に100点満点で100点+αが付けられたくらいだ。その価格は9万8千円(すなわち必要経費で落とせる!)。これなら何とか無知なワンマン・ボスを説得できるかも知らん,というわけで,その有用性・必要性を懇切丁寧に説明した甲斐あって目出度く会社にワープロソフト「松」を導入することができた。
それ以後,私の仕事のスタイルは,全く変わった。調査報告書の成果品を,アルバイト清書に頼ることなく,最後の仕上げまでを含めて自らの手で作成できるようになったのだ。のみならず,プロポーザル,打ち合わせ資料,通信文書,社内文書などなど,仕事におけるぺーパー文書は全面的にワープロ「松」を用いて作成するようになった。その依存度は,それこそハンパではなかった。
いま改めてWikipediaで調べてみると,ワープロソフトの「松」は以下のようなバージョン・アップの変遷を辿っているようだ。
松(1983)/松85(1985)/松86(1986)/新松(1987)/松ver.5(1991)/松ver.6(1992)
当然のように,これらのバージョンアップを律儀にも忠実にも追いかけ続けた。すなわち,1980年代から90年代にかけての10数年間,私の仕事は常に「松」とともにあったのである。もちろん仕事のみならず,私的な諸々の文書作成においても松は欠かせなかった。松は我が自己表現と一体化していた。それは単に自己表現のアウトプットを行うツールであるというのみならず,アウトプット以前の雑多で混沌とした文章を,ファイルとして一時保管し,それらに適宜修正を加え,あるいはしばし熟成させるといった累積的・多層的な役割を担う意味においても すこぶる有益なツールであった。ちなみに その時期,パソコン用ワープロソフトの大勢としては,ジャストシステム社の「一太郎」が徐々に勢力を強めてきて,やがては販売シェアにおいて「松」を逆転してしまうことになる。そのような流れのなかで,発注者によっては一太郎による文書の作成,一太郎ファイルの提出を要求するところも出てきて,そのため,会社としては一太郎のソフト自体は導入せざるを得なかった。ただし,私自身の文書作成スタイルにかんしては,松から一太郎に移行することはなく,あくまで「松」を使い続けた。「一太郎」については最初期のjX-WORD太郎の頃から見てはいたが,その操作系全体に係わるセンスのなさが受け入れ難かった。加えて,これは個人的嗜好の問題になるが,何よりもそのネーミング自体カンベンしてほしかった。
しかしながら,時代は否応なしに変わってゆく。時を経てパソコンのプラットフォームがMS-DOSからWindows95に変更されるのが必定となるとともに,アプリケーションソフトもWindows対応のものを使用する必要にせまられた。表計算ソフトはMultiplanからLotus 1-2-3を経てMS Excelへ,そしてワープロソフトについては,松はWindows版が出されなかったため,やむを得ずMS-Wordに変更することとなった。それとともに約10余年におよぶ私の「松の時代」は終わりをつげた。時代の流れとはいえ,いささか悲しい終焉であった。それ以後はずっと惰性でMS-Wordを使い続け,度々のバージョンアップを重ねながら現在に至っている。そう,まさに身に染み付いた「ワープロ惰性」としか言いようがない。
以上が私のワープロ遍歴である。おおざっぱに言えば「松」が15年「Word」が15年ということで,我が人生における文字・文章のアウトプット履歴は,かれこれ30年もの間ワープロに強く依存し,ワープロのバージョンアップを追いかけ続け,というか,それに引き摺られ続けてきたというわけだ(これから先はどうか知らんけれども)。入力装置たるキーボードは ここ10年来はずっと東プレのREALFORCEを使用している。たまに鉛筆を握っても それこそ5分も保たないように思う。 左様,漢字を書けなくなるはずですよ!