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職人としての聖なる連帯 (ジーサン達のライブ)

2002年10月25日 | 歌っているのは?
 ここ最近は顕微鏡を覗く仕事が比較的多い。これは一種「体力勝負」のルーチン・ワークであり,この年になると,午前中に2時間・午後に2時間,せいぜいその程度しか作業を行うことができない。根気が保たない,というよりも,眼の方がまず先に悲鳴をあげてしまう。眼球は脳髄に最も近い身体器官であるがゆえ,ある臨界点を超えると,コレコレそれ以上無理しちゃいかんよ,といった脳からの有難い直接指令が即座に送られてくるのだろう。ハイハイ判りました,というわけで,そそくさと検鏡を一時中断して近所の散歩に出掛けたりする。

 厳しいノルマがなければそれなりに楽しみ多き仕事なんだけれども,現実はそんなに甘いものではなく,何というか,黄昏迫る逼迫した家内制手工業者の世界のごとく,常に何者かに背中を押されるようにして日々単調な作業をコツコツと少しずつこなしている。

 仕事中,作業場の澱んだ雰囲気を少しでも変えるため,あるいは単調な時間の流れに多少なりともメリハリをつけるために,お気に入りの歌手のライブ録音などをBGMとして流すことがある。最近よく聞いているものといえば,例えばセルジュ・レジアニSerge Reggianiのパレ・デ・コングレ公演(1993年)とか,ジルベール・ベコーGilbert Becaudのオランピア公演(1991年)とか,ジョルジュ・ブラッサンスGeorges Brassensの英国公演(1973年)とか,ジャン・ロジェ・コシモンJean-Roger Caussimonのオランピア公演(1974年)とかで,おっと,こう並べてみるとジーサンばっかりで,ますます黄昏てゆきそうだなぁ。


  海の馬たちが見えた
  首を立てて襲いかかり
  そのたてがみを打ち砕いていた
  人影のないカジノの前で.....

  ウェイトレスは18歳
  冬さながらに年老いたこの私は
  グラスのなかに溺れるかわりに 
  アーモンドの形をした彼女の眼に漂う春のなかを
  ぶらつき歩いた

  その眼は灰色でも緑色でもない
  オステンドでも どこでも同じ
  街に雨が降るとき ふと思う
  何の役に立つのか
  そしてとりわけ
  何の価値があるのか
  人生の日々を生きることに!


 今から約30年近くも前,すでに初老の面影を色濃く漂わせた50代半ばのジャン・ロジェ・コシモンが,1台のピアノだけを伴奏にして,まるで一人芝居のようなシンプルで訥々としたステージを演じている。冒頭,フランシス・レイのメロディーがしみじみ美しい《綱渡り曲芸師》に始まり,上に引用したような「オステンド風」のさまざまな歌物語が延々と24曲も続く。喜怒哀楽の「哀」が少々強調されすぎたきらいはあるが,もともとそういうヒトなのだろう(よく知らないけど)。三文役者として生き,三文役者として死ぬ。そこに何の価値があるのか? って言われても返答に窮してしまうが,ま,単なる遺伝子の川でしょう。誰しも,スズメよりは猛禽になりたいだろうし,ハタラキバチよりは女王蜂に,ダンゴムシよりは黄金虫になりたいんだろうし。

 アカネトンボ属幼虫の下唇腮の刺毛数を検鏡下でチマチマと数えたりしながら,そういった先人の独白についつい聴き入ってしまう昨今である。しかし,こんな地味な毎日を過ごしていてちっとも気が滅入らないのは,多分,ワタクシもそれなりに悟りを開きかけているのだろうか?(嘘ばっか!)

 ちなみに,こんなの以外にも,時にはパコ・イバニェス Paco Ibanezの若かりし頃のオランピア公演(1969年)などを聴いたりもしているのですよ。つかのま「元気の素」をもらうために。そしてまた明日も同じように仕事を続けられるのだろう。ブラッサンス流に申せば《職人としての聖なる連帯》って感じですかネ。
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