数日前の夕方,平塚市の郊外を自転車でノンビリと走っていた。そこは金目川水系の支川,鈴川および渋田川により形成された沖積低地である。付近一帯は平坦な土地に田畑が広がり,牛小屋,果樹園,家庭菜園なども散在し,また北の方角には小さな丘陵地が河道に沿うように迫り,その山裾に通じる旧道沿いには古くからの集落が帯状に分布するといった,関東ローム層に広く覆われた首都圏の辺縁地域においてはどこにでもありそうな馴染み深い郊外風景だ。
遙か西の彼方を望めば,黄昏の夕陽に映える富士山のシルエットが大変美しい。あくまでも優雅でありながら冷たくシャキッとして弧高でキリッとしたその立派な姿をボンヤリ眺めていると,『日暮れてまだ道遠し。畏きかな,有難きかな』などという言葉が思わず口をついて出たりする。我ながら,ワケワカンナ~イ,の世界である。そして雄大な富士の左手には,箱根連山の矢倉岳と金時山の特徴ある盛り上がりがそれぞれ控えめに自己主張をしているように小さく聳えており,大地の年功序列,地形地貌のヒエラルキーなんてことを感じて,思わず心が和んでしまう。
付近には,今年の春に新規オープンした『花菜ガーデン』なる県立の施設がある。「花と緑のふれあいセンター」というシロモノらしい。カレル・チャペックのようなライフスタイルを発信する場所でもあるらしい。無粋な私ごときには一寸理解し難いコンセプトである。売店などの無料エリアの方はトイレを借りるためにこれまでに何度か立ち寄っているが,肝心の「ガーデン本体」については一度も入場したことはない。入園料が500円,加えてクルマで出掛けると駐車料金が500円かかるという(自転車の駐輪は無料デスガ)。んなわけで,こちらとしては中には入らずに外周道路に沿ってゆっくりと自転車を走らせている次第であるが,走りながら洒落た柵越しに園内をのぞいてみれば,平日の午後などまったく閑散としている。せいぜいジジ・ババ連,とくにババのほうが三々五々キレイな園内をノロノロと散策しているくらいだ。何で無料にしないのか? 無料だったら私とて園内を拝見させていただきますのに。施設の維持管理費を捻出するという建前のもと1回につき1,000円(500+500)もの利用者負担を強いているのか? しかしながら現状から察するに入園料収入なぞ微々たるものではないか。それとも何か。花というのは,ガーデニングというのは,そんなに閉鎖的かつ特権的なシュミドーラク(趣味道楽)の類なのか? いや,それ以前の問題として,そもそも昨今の地方自治体における緊縮財政の折も折り,県は何のために誰のために,こんなリッパでゴーカな施設を作っちまったのか? ま,個人的なヒガミ・ヘンケンと受け取っていただいて結構ですが,少なくとも我らが税金はもちっと有効に使っていただきたいと願っているものであります。
おっと,ヘンテコリンなところへ寄り道してドーデモイイことをグダグダと述べてしまった。面目ない。気を取り直して標題話の方へと進もう。
その日,畑に沿った細道を走っているときのこと。部活帰りと見られる女子中学生が4,5人,道端の土手にしゃがんで楽しそうに話し込んでいた。おそらくは近所のコンビニで買ったのだろう。発泡スチロール容器に入ったオデン?など食べながら,ペチャクチャペチャクチャと早口で,まぁ,それは楽しそうなこと。夕暮れ時のムクドリのかしましい囀りにも負けないくらいの元気のいいオシャベリが続いていた。彼女らの脇をゆっくりと通り過ぎるときに耳にしたその話しぶりは,快活でガサツで無知でジュンボクで,あるいは躍動的で迷走的でノーテンキでアッケラカンとして,まるで「現代の青春群像」の陽の部分を鮮やかに切り取ったかのように思われた。川面を遡る未熟な若魚を見るような,高山の岩場越しに巣立ち前の若鳥を眺めるような,それは不思議と心地よい感覚だった。そう,この子たちの存在こそが,私からすれば「花ガーデン」そのものではないか。ああ,こんなところにも「花」と「アリス」がいるんだナ,とシミジミと嬉しく感じたのである。
そんなことを思っていたら,鈴木杏と蒼井優の演じたその映画が急にまた見たくなって,家に戻ってから取りあえずYouTubeで探してみた。まとまった映像としては,雨中の二人の会話のシーンと最後のアリスのバレエシーンくらいしかなかったけれども,それはそれで十分に満足した。6年ぶりの再会があっというまに実現する。インターネットというものは実に便利で有難いものだ。でもやはりそれだけじゃぁ物足りないので,さっそく翌日TSUTAYAでDVDをレンタルしてきて,昼下がりのムービー・タイムとあいなりました。どこにでもありそうな日常の断片と,やや過飾なまでに美しく描写された風景の数々と,優しくときに切ない音楽とを背景にして,流れるように疾走するように,ミドルティーンの真摯でオチャメで不器用でトンチンカンな日々が展開されてゆく。それをして臆面もなく「青春」と呼べるのは,実のところ年老いた私のような者のみに許されていることかも知れない。ハズカシナガラ,途中で何度も涙腺を潤ませたことを白状せねばならない。 ったく,あいかわらずのメソメソ老人じゃん!
いま改めて,16才のアリスのことをまるで自分の娘のように愛おしく感じている。その娘のために,私はこれまで一体何をしてあげられたのか,そしてこの先わずかばかりのあいだに何を伝えられるのだろうかと思うと,苦しいほどに心が痛む。身の程知らずの感情移入であることは重々承知してオリマス。けれどもされども,夢と現実とのはざまで遠く過ぎ去った昔をアレコレと思い遣ることに腐心せざるをえないのは,今現在置かれた現実から知らず目を背けようとしているからなのだろう。あるいは,わたしの脳内のアチコチに刻印されたさまざまな記憶の数々が既にして徐々にメルトダウンを始めているからなのだろう。 『人生足別離』 ああ,やっぱダメダメ老人じゃんか!
そうか,あのときのアリスは今のアキラと同い年ではないか。ウチのアリスは,最近,どんな風に「青春」してるんだろ?
遙か西の彼方を望めば,黄昏の夕陽に映える富士山のシルエットが大変美しい。あくまでも優雅でありながら冷たくシャキッとして弧高でキリッとしたその立派な姿をボンヤリ眺めていると,『日暮れてまだ道遠し。畏きかな,有難きかな』などという言葉が思わず口をついて出たりする。我ながら,ワケワカンナ~イ,の世界である。そして雄大な富士の左手には,箱根連山の矢倉岳と金時山の特徴ある盛り上がりがそれぞれ控えめに自己主張をしているように小さく聳えており,大地の年功序列,地形地貌のヒエラルキーなんてことを感じて,思わず心が和んでしまう。
付近には,今年の春に新規オープンした『花菜ガーデン』なる県立の施設がある。「花と緑のふれあいセンター」というシロモノらしい。カレル・チャペックのようなライフスタイルを発信する場所でもあるらしい。無粋な私ごときには一寸理解し難いコンセプトである。売店などの無料エリアの方はトイレを借りるためにこれまでに何度か立ち寄っているが,肝心の「ガーデン本体」については一度も入場したことはない。入園料が500円,加えてクルマで出掛けると駐車料金が500円かかるという(自転車の駐輪は無料デスガ)。んなわけで,こちらとしては中には入らずに外周道路に沿ってゆっくりと自転車を走らせている次第であるが,走りながら洒落た柵越しに園内をのぞいてみれば,平日の午後などまったく閑散としている。せいぜいジジ・ババ連,とくにババのほうが三々五々キレイな園内をノロノロと散策しているくらいだ。何で無料にしないのか? 無料だったら私とて園内を拝見させていただきますのに。施設の維持管理費を捻出するという建前のもと1回につき1,000円(500+500)もの利用者負担を強いているのか? しかしながら現状から察するに入園料収入なぞ微々たるものではないか。それとも何か。花というのは,ガーデニングというのは,そんなに閉鎖的かつ特権的なシュミドーラク(趣味道楽)の類なのか? いや,それ以前の問題として,そもそも昨今の地方自治体における緊縮財政の折も折り,県は何のために誰のために,こんなリッパでゴーカな施設を作っちまったのか? ま,個人的なヒガミ・ヘンケンと受け取っていただいて結構ですが,少なくとも我らが税金はもちっと有効に使っていただきたいと願っているものであります。
おっと,ヘンテコリンなところへ寄り道してドーデモイイことをグダグダと述べてしまった。面目ない。気を取り直して標題話の方へと進もう。
その日,畑に沿った細道を走っているときのこと。部活帰りと見られる女子中学生が4,5人,道端の土手にしゃがんで楽しそうに話し込んでいた。おそらくは近所のコンビニで買ったのだろう。発泡スチロール容器に入ったオデン?など食べながら,ペチャクチャペチャクチャと早口で,まぁ,それは楽しそうなこと。夕暮れ時のムクドリのかしましい囀りにも負けないくらいの元気のいいオシャベリが続いていた。彼女らの脇をゆっくりと通り過ぎるときに耳にしたその話しぶりは,快活でガサツで無知でジュンボクで,あるいは躍動的で迷走的でノーテンキでアッケラカンとして,まるで「現代の青春群像」の陽の部分を鮮やかに切り取ったかのように思われた。川面を遡る未熟な若魚を見るような,高山の岩場越しに巣立ち前の若鳥を眺めるような,それは不思議と心地よい感覚だった。そう,この子たちの存在こそが,私からすれば「花ガーデン」そのものではないか。ああ,こんなところにも「花」と「アリス」がいるんだナ,とシミジミと嬉しく感じたのである。
そんなことを思っていたら,鈴木杏と蒼井優の演じたその映画が急にまた見たくなって,家に戻ってから取りあえずYouTubeで探してみた。まとまった映像としては,雨中の二人の会話のシーンと最後のアリスのバレエシーンくらいしかなかったけれども,それはそれで十分に満足した。6年ぶりの再会があっというまに実現する。インターネットというものは実に便利で有難いものだ。でもやはりそれだけじゃぁ物足りないので,さっそく翌日TSUTAYAでDVDをレンタルしてきて,昼下がりのムービー・タイムとあいなりました。どこにでもありそうな日常の断片と,やや過飾なまでに美しく描写された風景の数々と,優しくときに切ない音楽とを背景にして,流れるように疾走するように,ミドルティーンの真摯でオチャメで不器用でトンチンカンな日々が展開されてゆく。それをして臆面もなく「青春」と呼べるのは,実のところ年老いた私のような者のみに許されていることかも知れない。ハズカシナガラ,途中で何度も涙腺を潤ませたことを白状せねばならない。 ったく,あいかわらずのメソメソ老人じゃん!
いま改めて,16才のアリスのことをまるで自分の娘のように愛おしく感じている。その娘のために,私はこれまで一体何をしてあげられたのか,そしてこの先わずかばかりのあいだに何を伝えられるのだろうかと思うと,苦しいほどに心が痛む。身の程知らずの感情移入であることは重々承知してオリマス。けれどもされども,夢と現実とのはざまで遠く過ぎ去った昔をアレコレと思い遣ることに腐心せざるをえないのは,今現在置かれた現実から知らず目を背けようとしているからなのだろう。あるいは,わたしの脳内のアチコチに刻印されたさまざまな記憶の数々が既にして徐々にメルトダウンを始めているからなのだろう。 『人生足別離』 ああ,やっぱダメダメ老人じゃんか!
そうか,あのときのアリスは今のアキラと同い年ではないか。ウチのアリスは,最近,どんな風に「青春」してるんだろ?