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高座丘陵を,ただひたすらにテクテク歩く

2008年11月11日 | 日々のアブク
 久しぶりに徒歩で長い距離を移動した。 一昨日の午後,神奈川県藤沢市方面に所用で出掛けた折りのことで,大和市から藤沢市,高座郡寒川町にかけての地域をテクテク歩き巡った。最初は自転車で行こうと思ったのだが,その日は小雨がちの曇天で気温もかなり低かったため,たまにはシャカシャカと歩いてみようか,レインジャケットを着て,雨が強く降ってきたら傘をさせばいいか,という風に考えを改めた次第です。

 歩いた土地は,地形区分上は相模野台地の南部に位置し,高座台地ないし高座丘陵と呼ばれる一帯である。これを地質学的に見ると,この高座面という堆積層は,私が10代後半から約10年間を過ごした横浜市鶴見区の下末吉台地と同時代の地層であるらしい。そのせいか,初めて歩く場所にもかかわらず何となく 「この道は いつか来た道」 のような気がして,我が記憶の奥底に滲み付いているであろう《地形的親和性》といったものがそこはかとなく感じられた。

 途中,慶応義塾大学湘南キャンパスなどにも立ち寄った。10数年前に藤沢市郊外の山林・畑地を切り開いて新たに建設されたことは以前より承知しているが,そこを実際に訪問するのは私にとって今回が初めてのことである。緩やかな起伏をなす丘陵地の一角に広大な敷地を囲い込むようにして作られた大層立派な大学施設だ。私の住まいに比較的近い東海大学や神奈川大学など同様の郊外型キャンパスと比べても一味違う,いかにも金をかけているなぁといった雰囲気がうかがえる。さすがケイオー,さすがユキチさん。ああ,こんな大学でじっくりとガクモンしてみたいものだ,と,一種憧れみたいなものすら感じてしまう。何しろ私が遥かな昔に在籍した大学ときたら,海っぺりにあって旧海軍兵舎の一部を転用したとかの古ぼけたこぢんまりとした学舎で,特に文系の研究棟などはそれ以前に通った小学校よりも中学校よりも高等学校よりもさらにオンボロであり,また敷地はスポーツグウランドのように平坦で面積もさほど広くなく,総じて質素・地味をくすんだキャンバスcamvasに描いたような灰色キャンパスcampusであったのだから。ただし,教授陣たちの名誉のために付け加えておくと,非常に立派で優れた先生が多かったことだけは確かです。 ま,それはともかくとして。

 街路樹が色鮮やかに紅葉する大学構内の静かな舗道を別にどこに行くわけでもなくのんびり気ままに散策しながら,ついついいろんなことを考えてしまう。この落ち着いたキャンパスの佇まいを見ていると,まるで瞬時ヨーロッパはイングランドあたりにワープしてケンブリッジ大学にでも迷い込んだような気になってくるなぁ(行ったことありませんけど)。あるいはまた,北米はカリフォルニアにワープしてシリコンヴァレー先端技術研究所のガーデンフィールドなどをうろうろしているような気にもなってくるゾ(やはり行ったことありませんですけど)。学問するにふさわしい環境,優れた環境が学問を後押しするといえば聞こえはいいが,要するにこれは「殿様学問」の系譜に過ぎないのではなかろうか。それにしてもこげん立派なキャンパスが農村地帯のどまんなかに或る日突然ドドーンと出現したことにより,それ以前からこの大学付近に存在していた古い農村集落やら,都市周辺エリアにはお馴染み産廃処理業者の廃材ヤードや運送屋のトラックヤード,街道沿いのパチンコ屋,ビデオ屋,ラーメン屋やら,あるいは近年各地で増え続けている郊外型ショートケーキハウス住宅群やら,それら雑多な集落から構成された旧来の混沌とした郊外(banlieue)というものの立場・独自性はどうなるのか,新・旧の《立地的親和性》はどのように折り合いがつけられるのだろうか? それとも,大学関係者におかれては地域のなかで孤立した「城砦」たることを敢えて望まれたのであろうか? しかし現実にはケイオーというブランド力が土地の資産価値を高めたことは確かであって,周辺地域のインフラ整備もそれなりに進んだに違いないし,地域全体としては高度経済成長期のイケイケ企業城下町のように活性化したわけだろうし,これはこれで結果オーライだったノデアロウカ? などなど,ツマラヌ妄想が勝手に広がってゆく。 ったく,余計なお世話でしょうけれども。

 そうこうしているうち,正門ではなく別の場所から外に抜けられる出口などないかいナと,それっぽい脇道に入り込んで建物の背後に回ってウロウロしていたら,少し離れた場所にいた事務員らしき年配の男に誰何された。どうやら不審人物とみなされたらしい。いえ,ほんの通りすがりの一市民です。決してアヤシイ者じゃございません。ただちょっと出口を探していただけでして。。。。

 石もて追わるるがごとく慶応大学を出たのち(いやそんな言い方はないか),本来の農村景観のなかに戻って高座台地の道をさらに歩き続けた。用田から寒川付近までは中原街道(県道45号線)に沿って距離にして約5kmほどの道程を歩いた。この中原街道は,その歴史を辿れば古く鎌倉時代から開かれた由緒ある道らしいのだが,現在では,少なくとも歩行者にとっては実に味気ない道路となりおおせている。道の両側には幅1mかそこらの,それこそとってつけたような歩道が設けられている。車道との段差はあるが,ガードレールはない。車道側に誤って落ちないよう,あまりキョロキョロとよそ見をしないで気をつけて歩かねばならぬ。もっとも,沿道の景観としては植木屋,造園屋のたぐいが比較的多いのが目に付く程度で,それ以外は,ところどころに会社の社屋があったりクルマ屋があったり食堂があったりお団子屋があったりの,何ということもない凡庸で単調な街道風景である。キョロキョロしようもないものだ。狭い歩道の上をとにかく律儀に真っ直ぐに,決して気持ちがいいとは申せぬ早足歩行を続けながら,目的地に向けてただひたすら歩くのみである(ただし私の場合,目的地は特にないのですが)。 恐らく江戸時代から明治・大正・昭和の初め頃にかけては,相模一宮である寒川神社へと向かう人々が賑やかに往来する活気のある街道だったに違いない。それが戦後,モータリゼーションの進展とともに,人々はこのような主要地方道を歩く楽しみを奪われてしまったのだろう。現代ニッポンにおいて,とりわけ本県やサイタマ,チバなど首都圏地域にあってはお定まりの,悲しき街道物語である。

 約5kmの道を小一時間歩いたあいだに人とすれ違ったのが,そうさな,都合5名ほどに過ぎなかっただろうか。小雨がちの日曜日の午後遅い時間,という条件を考慮しても,いかにも人寂しいと言わざるをえない。また,自転車が行き交うのに出会ったのも約10台かそこらと淋しいものであり,それらのいずれもが歩道をフラフラと危なっかしげに走行していて,車道を走る自転車には全くお目にかかれなかった。だいたい路側帯がほとんどない『ほぼ自転車排除道路』だし,近隣住民の多くは自転車で走るときは恐らく裏道を選んでいるのだろう。一方,クルマの方はどうかといえば,日曜日だというのに,あるいは日曜日のゆえか,渋滞というほどではないにしてもかなりの台数が往来していた。片側1車線の車道はほとんど勾配のない平坦路で,またカーブもあまりなく直線に近い道路であることもあって,とにかくひっきりなしにビュンビュンビュンビュンとスピードを出して走り過ぎる。5km歩行の間に優に数千台はすれ違っただろう(数えてはいませんけど)。これを『ほぼ自動車専用道路』と言わずして何といおう。 

 JR相模線の寒川駅のすぐ近くまで来たあたりで,日が暮れて暗くなるわ寒さが一層増してくるわで,もういいかげんに歩く体力・気力が失せてしまった。実は,こちらに来るときは自宅から伊勢原までは約10kmを自転車で走り,小田急小田原線の伊勢原駅前駐輪場に自転車を置いて電車に乗り,小田急江ノ島線の高座渋谷駅で電車を降りて,そこから歩行を開始したのである。そのため,出来れば帰りは伊勢原駅まで歩こうと思っていたのだが,さすがに久しぶりの長距離歩行で少々疲れてしまいました(あとで計測したら,約16kmを歩いたことになる)。 それで,JR寒川駅から海老名方面に向かう電車に乗ってしまった。車内でホッと一息ついていると,なぜだか急に右脚に違和感を覚えて筋が痙ってしまい,少々あわてた。長指伸筋の痙攣だと思う。しばし車内のひと目もはばからずに身体を屈めて屈伸およびマッサージを繰り返した。嗚呼,老いたる哉。こんなことじゃ四国八十八ヶ所の「歩き遍路」なんてとてもできないゾ。やっぱり「自転車遍路」にすべきなのかなぁ,などと溜息をついてしまった次第であります(でもしかし,実際に四国に行けるのはいつの話になることやら)。

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