4月27日の授業でKJ法に従い作った図の文章化
ペンネーム:姐
<グループ紹介>
・砂糖の化学的性質に関するグループ
このグループには、「ショ糖の二十倍の甘さがブドウ糖に相当する」「砂糖の甘味は満腹時でも別腹」「人間が一日に必要な砂糖の摂取量はどのくらいか?」「そもそも人間が生命を維持するのに砂糖は不可欠なのか?」「動物はどの様に等分を摂取しているのか?」などのカードがあった。
・砂糖の原料に関するグループ
このグループには「砂糖以外の甘味の原料には何があったのか?」「砂糖の原料はサトウキビ、サトウダイコン、サトウヤシ、サトウカエデがある」「日本の甘味料としてあまちゃづる、あまづら、かんぞう等が挙げられる」などのカードがあった。
・砂糖原料の原産地に関するグループ
このグループには「サトウキビの原産地はニューギニアである」「サトウキビの原産地はインドである」「砂糖の原産地はインドである」「語源はサンスクリット語」「原産地からどのように世界へ広がったのか?」などのカードがあった。
・砂糖原料生産に関するグループ
このグループには「水田をサトウキビ畑に変える農法があったのか?」「砂糖生産には大量の労働力が必要」「プランテーションによる栽培が16世紀から始まった」「東南アジアの砂糖業には華僑が大きく関わっていた」「サトウキビは株分けで増やす」「砂糖原料の主要生産地はどこか?」「サトウキビを植える時は、枝を斜めに土に刺すか寝かせて発芽させる」などのカードがあった。
・サトウキビの品種に関するグループ
このグループには「どの位の品種があるのか?」「サトウキビには観光客用のやわらかい品種と工業用の硬い品種がある」などのカードがあった。
・精糖に関するグループ
このグループには「どんな精糖方法があるのか?→骨炭法、炭酸法など」「砂糖業の商業戦略はどういったものか?」「精糖技術の改良によって大量生産が可能になった」「砂糖が支配者と被支配者という関係を生んだ」などのカードがあった。
・砂糖消費に関するフループ
このグループには「地域別にどのような使用法があるのか?」「砂糖消費地図のようなものはないのか?」などのカードがあった。
・砂糖貿易に関するグループ
このグループには「砂糖を運搬する際のリスクにはどのようなものがあるか?」「輸出入の方法にはどのようなものがあるか?」「船底に積んで船がバランスを取るために使われた」などのカードがあった。
・日本史の中の砂糖
このグループには「日本には8世紀頃沖縄から入ってきた」「日本での砂糖の一般庶民への普及は日清戦争以降」「砂糖は長崎貿易の主要品目であった」「九州は砂糖王国」などのカードがあった。
・中国史の中の砂糖
このグループには「中国には伝統的な甘味がある」「山地のほうではサトウキビ生産が行われていた」などのカードがあった。
・その他
「ヨーロッパ人は大航海時代に砂糖の美味しさに気付いた」「砂糖は富の象徴だった」というカードは、交易が始まって砂糖を知り(←前者)砂糖交易による利益から富の象徴とされるようになった(←後者)と位置づけた。
<各グループの関係性>
出発点としては、科学的性質と原料と原産地が並ぶ。この三つは全てが密接に繋がりを持っているので、グループは別だが大きく一つの塊として捉えたい。
そして、この大きな塊から生じるのが品種と原料生産である。そして、原料を生産したら続いて製糖、そして消費へと流れていく。
この流れは、生産(原料生産と製糖)と消費という相関関係でもあるので、原料生産と消費の結びつきも加える。
更に、製糖から貿易へと発展して日本と中国に流れ、この流れの中に上記その他が入る。
<追加項目>
・カードの中に、「水田をサトウキビ畑に変える農法があったのか?」というものがあった。これについて文献を調べることは出来なかったが、実際にジャワ島のスマランで行われていた。砂糖需要に応えるために水田をサトウキビ畑に変え、需要が落ちると再びサトウキビ畑は水田に戻されていた。
・砂糖を絞ったサトウキビの利用法だが、日本のラーメン屋のおしぼりに使用されている。私が見つけたのは「福しん」というチェーンのラーメン屋のおしぼりである。その包装には「福しんの紙おしぼりはクリールという名称でバガス(さとうきびの搾りかす)繊維を使用した環境に優しい最高級のおしぼりです。」と書かれている。
<着眼点>
今回出されたカードの中に、東南アジアのプランテーションによる砂糖生産についてのものがあったので、19世紀前半に東南アジアの主要な砂糖輸出国であったフィリピンとタイのプランテーションによる砂糖生産について調べてみたい。
~フィリピン~
フィリピンにおいて、砂糖はスペイン植民地時代にもアメリカ植民地時代にも、マニラ麻と並んで常に主要輸出商品の一つであった。マニラ開港直後の1840年代から50年代までの主要な産地はマニラ周辺諸州であったが、70年代以降はネグロス島が重要な砂糖生産地域として台頭して80~90年代にはフィリピン最大の砂糖生産地帯となった。
フィリピンで生産されていた砂糖の種類は大きく分けて二つあり、19世紀半ばから第一次世界大戦前後まではムスコバド(muscovado)糖で、第一次世界大戦から第二次世界大戦までの時期は分蜜糖が生産されていた。ムスコバド糖とは、フィリピンで生産される含蜜糖の一種で、小さな精糖所でサトウキビを圧搾して生産され、糖蜜を多く含み糖度の低い砂糖である。分蜜糖は、大型圧搾機や真空結晶缶、遠心分離機を設備した近代的製糖工場で生産されると糖度の高い原料糖である。
19世紀後半のマニラ周辺諸州で砂糖が生産される場合、その殆どはスペイン人やスペイン系または中国系メスティーソの所有地、もしくはカトリック修道会のアシエンダの一部で行われた。荒蕪地の一部をサトウキビ作用農地として開墾されるケースも一般的であった。
こうした農業経営の担い手は地主と契約を結んだ小作農であった。地主達は水牛、圧搾機(水牛に圧搾機を回転させて搾る)、倉庫などに加え、苗や人件費を負担した。小作農は農具自弁で作付け、栽培、刈り取り、運搬までの農作業を行った。
こうしたシステムの中に、1860年代初頭にイギリスから鉄製圧搾機や蒸気動力圧搾機などが輸入された結果、精糖設備の拡大と賃労働雇用に基づく経営形態が出来上がっていった。地主の代理人としての管理人が経営管理を行う管理制(賃労働制)、物納契約や定額借地契約(前者が殆ど)による借地契約制、地主が数等の役畜と土地、時に労働者を小作農に提供して高利で現金をも貸し付ける刈分け小作制、などがあった。
1900年代に入りアメリカ系資本の開発が始まると、多くの既開発砂糖生産地帯で製糖工場の設立ラッシュが起こった。1920年代に入るとこうしたアメリカ系資本による工場設立が頭打ちとなり、フィリピン系工場の設立が盛んになる。こうして作られた製糖工場の殆どはサトウキビ生産プランターと契約を結んでサトウキビの定期的供給を受けて操業していた。
こうした砂糖生産地帯での精糖行の寡占的生産構造や地主への土地集中は、所得分配の不均衡を促進する結果となった。ごく一握りの有名家族が「砂糖貴族」としてピラミッドの頂点に君臨する一方で、その底辺には膨大な数の小作農層や工業・農業労働者が居た。
~タイ~
輸出産業としてのタイ砂糖産業は1810年前後に勃興したとされる。1840年頃にかけて増大し、その頃からタイによる交易独占が始まった。これにより輸出量は減少傾向へ転じる。
タイ人が自家消費用に使用していた砂糖はサトウヤシの樹液を煮詰めたナムターンと呼ばれるものであった。しかし、タイから輸出されていたのはタイ人には馴染みの薄いサトウキビから作られる砂糖であった。タイが輸出した砂糖は黒糖と白糖で、後者は骨炭による脱色技術や真空結晶缶、遠心分離機などが必要で、これらが導入されて近代精糖業が確立するのは1850年代であった。
タイの砂糖生産業を担っていたのは華人であった。これは、タイがサトウキビを使用した砂糖生産技術を中国に依存していたことと、多くの労働力を必要とする製糖業にタイ人を裂くには賦役による勢力基盤を築いていたタイ社会上層部には出来ない相談であったこととによる。しかし、サトウキビ栽培の担い手については華人かタイ人か意見の分かれるところとなっている。
こうして作られたタイの砂糖は主に中国に輸出されることが多かった。次いで、東南アジア域内への輸出が多い。西欧植民地の影響力が高まってくると、イギリス植民地を中心に西欧植民地へも輸出するようになる。
タイ国王は砂糖が輸出品として重要になると造船所を建設してジャンク船を作って輸出した。また、ジャンク交易を営んでいた貴族階層は、歌人と共同経営者として協力関係を持って砂糖産業と関わった。他に、民間の華人経営者も居たが、資本不足から小規模の工場経営であった。
しかし、1885年前後に砂糖輸出国から純輸入国へと変容する(輸出産業のみ壊滅し、自給産業は続く)。衰退の原因は、産業革命を経て糖業に次第に応用されるようになった西欧の機械制大工業としての近代砂糖産業のアジアへの参入に対し、アジア在来糖業が対抗できないというアジア在来技術の劣位があった。特に、香港で精糖業を営んだイギリス系の商社やジャワで砂糖産業を展開したオランダ資本が東アジア地域の在来糖業に与えた影響は甚大であった。
フィリピンとタイの二カ国の砂糖産業の推移を見て、植民地化された地域とされていない地域とで違いはあるものの、どちらの場合も砂糖産業が国の動きに強くリンクしていることが分かる。こうした砂糖産業の源である人々の砂糖需要がどこから来るのか、という点にも注目したいが、それは科学的な分野になるので今回は言及しない。しかし、人々の砂糖への欲求が歴史を動かしたことは間違いないのである。
○参考文献:『岩波講座 東南アジア史 第6巻 植民地経済の繁栄と凋落』
永野善子「フィリピン―マニラ麻と砂糖」p.89-113
山本博史「タイ砂糖産業」p.115-141
ペンネーム:姐
<グループ紹介>
・砂糖の化学的性質に関するグループ
このグループには、「ショ糖の二十倍の甘さがブドウ糖に相当する」「砂糖の甘味は満腹時でも別腹」「人間が一日に必要な砂糖の摂取量はどのくらいか?」「そもそも人間が生命を維持するのに砂糖は不可欠なのか?」「動物はどの様に等分を摂取しているのか?」などのカードがあった。
・砂糖の原料に関するグループ
このグループには「砂糖以外の甘味の原料には何があったのか?」「砂糖の原料はサトウキビ、サトウダイコン、サトウヤシ、サトウカエデがある」「日本の甘味料としてあまちゃづる、あまづら、かんぞう等が挙げられる」などのカードがあった。
・砂糖原料の原産地に関するグループ
このグループには「サトウキビの原産地はニューギニアである」「サトウキビの原産地はインドである」「砂糖の原産地はインドである」「語源はサンスクリット語」「原産地からどのように世界へ広がったのか?」などのカードがあった。
・砂糖原料生産に関するグループ
このグループには「水田をサトウキビ畑に変える農法があったのか?」「砂糖生産には大量の労働力が必要」「プランテーションによる栽培が16世紀から始まった」「東南アジアの砂糖業には華僑が大きく関わっていた」「サトウキビは株分けで増やす」「砂糖原料の主要生産地はどこか?」「サトウキビを植える時は、枝を斜めに土に刺すか寝かせて発芽させる」などのカードがあった。
・サトウキビの品種に関するグループ
このグループには「どの位の品種があるのか?」「サトウキビには観光客用のやわらかい品種と工業用の硬い品種がある」などのカードがあった。
・精糖に関するグループ
このグループには「どんな精糖方法があるのか?→骨炭法、炭酸法など」「砂糖業の商業戦略はどういったものか?」「精糖技術の改良によって大量生産が可能になった」「砂糖が支配者と被支配者という関係を生んだ」などのカードがあった。
・砂糖消費に関するフループ
このグループには「地域別にどのような使用法があるのか?」「砂糖消費地図のようなものはないのか?」などのカードがあった。
・砂糖貿易に関するグループ
このグループには「砂糖を運搬する際のリスクにはどのようなものがあるか?」「輸出入の方法にはどのようなものがあるか?」「船底に積んで船がバランスを取るために使われた」などのカードがあった。
・日本史の中の砂糖
このグループには「日本には8世紀頃沖縄から入ってきた」「日本での砂糖の一般庶民への普及は日清戦争以降」「砂糖は長崎貿易の主要品目であった」「九州は砂糖王国」などのカードがあった。
・中国史の中の砂糖
このグループには「中国には伝統的な甘味がある」「山地のほうではサトウキビ生産が行われていた」などのカードがあった。
・その他
「ヨーロッパ人は大航海時代に砂糖の美味しさに気付いた」「砂糖は富の象徴だった」というカードは、交易が始まって砂糖を知り(←前者)砂糖交易による利益から富の象徴とされるようになった(←後者)と位置づけた。
<各グループの関係性>
出発点としては、科学的性質と原料と原産地が並ぶ。この三つは全てが密接に繋がりを持っているので、グループは別だが大きく一つの塊として捉えたい。
そして、この大きな塊から生じるのが品種と原料生産である。そして、原料を生産したら続いて製糖、そして消費へと流れていく。
この流れは、生産(原料生産と製糖)と消費という相関関係でもあるので、原料生産と消費の結びつきも加える。
更に、製糖から貿易へと発展して日本と中国に流れ、この流れの中に上記その他が入る。
<追加項目>
・カードの中に、「水田をサトウキビ畑に変える農法があったのか?」というものがあった。これについて文献を調べることは出来なかったが、実際にジャワ島のスマランで行われていた。砂糖需要に応えるために水田をサトウキビ畑に変え、需要が落ちると再びサトウキビ畑は水田に戻されていた。
・砂糖を絞ったサトウキビの利用法だが、日本のラーメン屋のおしぼりに使用されている。私が見つけたのは「福しん」というチェーンのラーメン屋のおしぼりである。その包装には「福しんの紙おしぼりはクリールという名称でバガス(さとうきびの搾りかす)繊維を使用した環境に優しい最高級のおしぼりです。」と書かれている。
<着眼点>
今回出されたカードの中に、東南アジアのプランテーションによる砂糖生産についてのものがあったので、19世紀前半に東南アジアの主要な砂糖輸出国であったフィリピンとタイのプランテーションによる砂糖生産について調べてみたい。
~フィリピン~
フィリピンにおいて、砂糖はスペイン植民地時代にもアメリカ植民地時代にも、マニラ麻と並んで常に主要輸出商品の一つであった。マニラ開港直後の1840年代から50年代までの主要な産地はマニラ周辺諸州であったが、70年代以降はネグロス島が重要な砂糖生産地域として台頭して80~90年代にはフィリピン最大の砂糖生産地帯となった。
フィリピンで生産されていた砂糖の種類は大きく分けて二つあり、19世紀半ばから第一次世界大戦前後まではムスコバド(muscovado)糖で、第一次世界大戦から第二次世界大戦までの時期は分蜜糖が生産されていた。ムスコバド糖とは、フィリピンで生産される含蜜糖の一種で、小さな精糖所でサトウキビを圧搾して生産され、糖蜜を多く含み糖度の低い砂糖である。分蜜糖は、大型圧搾機や真空結晶缶、遠心分離機を設備した近代的製糖工場で生産されると糖度の高い原料糖である。
19世紀後半のマニラ周辺諸州で砂糖が生産される場合、その殆どはスペイン人やスペイン系または中国系メスティーソの所有地、もしくはカトリック修道会のアシエンダの一部で行われた。荒蕪地の一部をサトウキビ作用農地として開墾されるケースも一般的であった。
こうした農業経営の担い手は地主と契約を結んだ小作農であった。地主達は水牛、圧搾機(水牛に圧搾機を回転させて搾る)、倉庫などに加え、苗や人件費を負担した。小作農は農具自弁で作付け、栽培、刈り取り、運搬までの農作業を行った。
こうしたシステムの中に、1860年代初頭にイギリスから鉄製圧搾機や蒸気動力圧搾機などが輸入された結果、精糖設備の拡大と賃労働雇用に基づく経営形態が出来上がっていった。地主の代理人としての管理人が経営管理を行う管理制(賃労働制)、物納契約や定額借地契約(前者が殆ど)による借地契約制、地主が数等の役畜と土地、時に労働者を小作農に提供して高利で現金をも貸し付ける刈分け小作制、などがあった。
1900年代に入りアメリカ系資本の開発が始まると、多くの既開発砂糖生産地帯で製糖工場の設立ラッシュが起こった。1920年代に入るとこうしたアメリカ系資本による工場設立が頭打ちとなり、フィリピン系工場の設立が盛んになる。こうして作られた製糖工場の殆どはサトウキビ生産プランターと契約を結んでサトウキビの定期的供給を受けて操業していた。
こうした砂糖生産地帯での精糖行の寡占的生産構造や地主への土地集中は、所得分配の不均衡を促進する結果となった。ごく一握りの有名家族が「砂糖貴族」としてピラミッドの頂点に君臨する一方で、その底辺には膨大な数の小作農層や工業・農業労働者が居た。
~タイ~
輸出産業としてのタイ砂糖産業は1810年前後に勃興したとされる。1840年頃にかけて増大し、その頃からタイによる交易独占が始まった。これにより輸出量は減少傾向へ転じる。
タイ人が自家消費用に使用していた砂糖はサトウヤシの樹液を煮詰めたナムターンと呼ばれるものであった。しかし、タイから輸出されていたのはタイ人には馴染みの薄いサトウキビから作られる砂糖であった。タイが輸出した砂糖は黒糖と白糖で、後者は骨炭による脱色技術や真空結晶缶、遠心分離機などが必要で、これらが導入されて近代精糖業が確立するのは1850年代であった。
タイの砂糖生産業を担っていたのは華人であった。これは、タイがサトウキビを使用した砂糖生産技術を中国に依存していたことと、多くの労働力を必要とする製糖業にタイ人を裂くには賦役による勢力基盤を築いていたタイ社会上層部には出来ない相談であったこととによる。しかし、サトウキビ栽培の担い手については華人かタイ人か意見の分かれるところとなっている。
こうして作られたタイの砂糖は主に中国に輸出されることが多かった。次いで、東南アジア域内への輸出が多い。西欧植民地の影響力が高まってくると、イギリス植民地を中心に西欧植民地へも輸出するようになる。
タイ国王は砂糖が輸出品として重要になると造船所を建設してジャンク船を作って輸出した。また、ジャンク交易を営んでいた貴族階層は、歌人と共同経営者として協力関係を持って砂糖産業と関わった。他に、民間の華人経営者も居たが、資本不足から小規模の工場経営であった。
しかし、1885年前後に砂糖輸出国から純輸入国へと変容する(輸出産業のみ壊滅し、自給産業は続く)。衰退の原因は、産業革命を経て糖業に次第に応用されるようになった西欧の機械制大工業としての近代砂糖産業のアジアへの参入に対し、アジア在来糖業が対抗できないというアジア在来技術の劣位があった。特に、香港で精糖業を営んだイギリス系の商社やジャワで砂糖産業を展開したオランダ資本が東アジア地域の在来糖業に与えた影響は甚大であった。
フィリピンとタイの二カ国の砂糖産業の推移を見て、植民地化された地域とされていない地域とで違いはあるものの、どちらの場合も砂糖産業が国の動きに強くリンクしていることが分かる。こうした砂糖産業の源である人々の砂糖需要がどこから来るのか、という点にも注目したいが、それは科学的な分野になるので今回は言及しない。しかし、人々の砂糖への欲求が歴史を動かしたことは間違いないのである。
○参考文献:『岩波講座 東南アジア史 第6巻 植民地経済の繁栄と凋落』
永野善子「フィリピン―マニラ麻と砂糖」p.89-113
山本博史「タイ砂糖産業」p.115-141