東ユーラシア研究会

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KJ法「砂糖」+東南アジアでの追加情報

2007-05-10 21:21:44 | 砂糖からみる東ユーラシア
4月27日の授業でKJ法に従い作った図の文章化
ペンネーム:姐

<グループ紹介>
 ・砂糖の化学的性質に関するグループ
   このグループには、「ショ糖の二十倍の甘さがブドウ糖に相当する」「砂糖の甘味は満腹時でも別腹」「人間が一日に必要な砂糖の摂取量はどのくらいか?」「そもそも人間が生命を維持するのに砂糖は不可欠なのか?」「動物はどの様に等分を摂取しているのか?」などのカードがあった。

 ・砂糖の原料に関するグループ
   このグループには「砂糖以外の甘味の原料には何があったのか?」「砂糖の原料はサトウキビ、サトウダイコン、サトウヤシ、サトウカエデがある」「日本の甘味料としてあまちゃづる、あまづら、かんぞう等が挙げられる」などのカードがあった。

 ・砂糖原料の原産地に関するグループ
   このグループには「サトウキビの原産地はニューギニアである」「サトウキビの原産地はインドである」「砂糖の原産地はインドである」「語源はサンスクリット語」「原産地からどのように世界へ広がったのか?」などのカードがあった。

 ・砂糖原料生産に関するグループ
   このグループには「水田をサトウキビ畑に変える農法があったのか?」「砂糖生産には大量の労働力が必要」「プランテーションによる栽培が16世紀から始まった」「東南アジアの砂糖業には華僑が大きく関わっていた」「サトウキビは株分けで増やす」「砂糖原料の主要生産地はどこか?」「サトウキビを植える時は、枝を斜めに土に刺すか寝かせて発芽させる」などのカードがあった。

 ・サトウキビの品種に関するグループ
   このグループには「どの位の品種があるのか?」「サトウキビには観光客用のやわらかい品種と工業用の硬い品種がある」などのカードがあった。

 ・精糖に関するグループ
   このグループには「どんな精糖方法があるのか?→骨炭法、炭酸法など」「砂糖業の商業戦略はどういったものか?」「精糖技術の改良によって大量生産が可能になった」「砂糖が支配者と被支配者という関係を生んだ」などのカードがあった。

 ・砂糖消費に関するフループ
   このグループには「地域別にどのような使用法があるのか?」「砂糖消費地図のようなものはないのか?」などのカードがあった。

 ・砂糖貿易に関するグループ
   このグループには「砂糖を運搬する際のリスクにはどのようなものがあるか?」「輸出入の方法にはどのようなものがあるか?」「船底に積んで船がバランスを取るために使われた」などのカードがあった。

 ・日本史の中の砂糖
   このグループには「日本には8世紀頃沖縄から入ってきた」「日本での砂糖の一般庶民への普及は日清戦争以降」「砂糖は長崎貿易の主要品目であった」「九州は砂糖王国」などのカードがあった。

 ・中国史の中の砂糖
   このグループには「中国には伝統的な甘味がある」「山地のほうではサトウキビ生産が行われていた」などのカードがあった。

 ・その他
   「ヨーロッパ人は大航海時代に砂糖の美味しさに気付いた」「砂糖は富の象徴だった」というカードは、交易が始まって砂糖を知り(←前者)砂糖交易による利益から富の象徴とされるようになった(←後者)と位置づけた。

<各グループの関係性>
出発点としては、科学的性質と原料と原産地が並ぶ。この三つは全てが密接に繋がりを持っているので、グループは別だが大きく一つの塊として捉えたい。
そして、この大きな塊から生じるのが品種と原料生産である。そして、原料を生産したら続いて製糖、そして消費へと流れていく。
この流れは、生産(原料生産と製糖)と消費という相関関係でもあるので、原料生産と消費の結びつきも加える。
更に、製糖から貿易へと発展して日本と中国に流れ、この流れの中に上記その他が入る。

<追加項目>
  ・カードの中に、「水田をサトウキビ畑に変える農法があったのか?」というものがあった。これについて文献を調べることは出来なかったが、実際にジャワ島のスマランで行われていた。砂糖需要に応えるために水田をサトウキビ畑に変え、需要が落ちると再びサトウキビ畑は水田に戻されていた。
  ・砂糖を絞ったサトウキビの利用法だが、日本のラーメン屋のおしぼりに使用されている。私が見つけたのは「福しん」というチェーンのラーメン屋のおしぼりである。その包装には「福しんの紙おしぼりはクリールという名称でバガス(さとうきびの搾りかす)繊維を使用した環境に優しい最高級のおしぼりです。」と書かれている。

<着眼点>
  今回出されたカードの中に、東南アジアのプランテーションによる砂糖生産についてのものがあったので、19世紀前半に東南アジアの主要な砂糖輸出国であったフィリピンとタイのプランテーションによる砂糖生産について調べてみたい。

~フィリピン~
 フィリピンにおいて、砂糖はスペイン植民地時代にもアメリカ植民地時代にも、マニラ麻と並んで常に主要輸出商品の一つであった。マニラ開港直後の1840年代から50年代までの主要な産地はマニラ周辺諸州であったが、70年代以降はネグロス島が重要な砂糖生産地域として台頭して80~90年代にはフィリピン最大の砂糖生産地帯となった。
フィリピンで生産されていた砂糖の種類は大きく分けて二つあり、19世紀半ばから第一次世界大戦前後まではムスコバド(muscovado)糖で、第一次世界大戦から第二次世界大戦までの時期は分蜜糖が生産されていた。ムスコバド糖とは、フィリピンで生産される含蜜糖の一種で、小さな精糖所でサトウキビを圧搾して生産され、糖蜜を多く含み糖度の低い砂糖である。分蜜糖は、大型圧搾機や真空結晶缶、遠心分離機を設備した近代的製糖工場で生産されると糖度の高い原料糖である。
  19世紀後半のマニラ周辺諸州で砂糖が生産される場合、その殆どはスペイン人やスペイン系または中国系メスティーソの所有地、もしくはカトリック修道会のアシエンダの一部で行われた。荒蕪地の一部をサトウキビ作用農地として開墾されるケースも一般的であった。
こうした農業経営の担い手は地主と契約を結んだ小作農であった。地主達は水牛、圧搾機(水牛に圧搾機を回転させて搾る)、倉庫などに加え、苗や人件費を負担した。小作農は農具自弁で作付け、栽培、刈り取り、運搬までの農作業を行った。
こうしたシステムの中に、1860年代初頭にイギリスから鉄製圧搾機や蒸気動力圧搾機などが輸入された結果、精糖設備の拡大と賃労働雇用に基づく経営形態が出来上がっていった。地主の代理人としての管理人が経営管理を行う管理制(賃労働制)、物納契約や定額借地契約(前者が殆ど)による借地契約制、地主が数等の役畜と土地、時に労働者を小作農に提供して高利で現金をも貸し付ける刈分け小作制、などがあった。
1900年代に入りアメリカ系資本の開発が始まると、多くの既開発砂糖生産地帯で製糖工場の設立ラッシュが起こった。1920年代に入るとこうしたアメリカ系資本による工場設立が頭打ちとなり、フィリピン系工場の設立が盛んになる。こうして作られた製糖工場の殆どはサトウキビ生産プランターと契約を結んでサトウキビの定期的供給を受けて操業していた。
こうした砂糖生産地帯での精糖行の寡占的生産構造や地主への土地集中は、所得分配の不均衡を促進する結果となった。ごく一握りの有名家族が「砂糖貴族」としてピラミッドの頂点に君臨する一方で、その底辺には膨大な数の小作農層や工業・農業労働者が居た。

~タイ~
 輸出産業としてのタイ砂糖産業は1810年前後に勃興したとされる。1840年頃にかけて増大し、その頃からタイによる交易独占が始まった。これにより輸出量は減少傾向へ転じる。
 タイ人が自家消費用に使用していた砂糖はサトウヤシの樹液を煮詰めたナムターンと呼ばれるものであった。しかし、タイから輸出されていたのはタイ人には馴染みの薄いサトウキビから作られる砂糖であった。タイが輸出した砂糖は黒糖と白糖で、後者は骨炭による脱色技術や真空結晶缶、遠心分離機などが必要で、これらが導入されて近代精糖業が確立するのは1850年代であった。
 タイの砂糖生産業を担っていたのは華人であった。これは、タイがサトウキビを使用した砂糖生産技術を中国に依存していたことと、多くの労働力を必要とする製糖業にタイ人を裂くには賦役による勢力基盤を築いていたタイ社会上層部には出来ない相談であったこととによる。しかし、サトウキビ栽培の担い手については華人かタイ人か意見の分かれるところとなっている。
 こうして作られたタイの砂糖は主に中国に輸出されることが多かった。次いで、東南アジア域内への輸出が多い。西欧植民地の影響力が高まってくると、イギリス植民地を中心に西欧植民地へも輸出するようになる。
 タイ国王は砂糖が輸出品として重要になると造船所を建設してジャンク船を作って輸出した。また、ジャンク交易を営んでいた貴族階層は、歌人と共同経営者として協力関係を持って砂糖産業と関わった。他に、民間の華人経営者も居たが、資本不足から小規模の工場経営であった。
 しかし、1885年前後に砂糖輸出国から純輸入国へと変容する(輸出産業のみ壊滅し、自給産業は続く)。衰退の原因は、産業革命を経て糖業に次第に応用されるようになった西欧の機械制大工業としての近代砂糖産業のアジアへの参入に対し、アジア在来糖業が対抗できないというアジア在来技術の劣位があった。特に、香港で精糖業を営んだイギリス系の商社やジャワで砂糖産業を展開したオランダ資本が東アジア地域の在来糖業に与えた影響は甚大であった。


 フィリピンとタイの二カ国の砂糖産業の推移を見て、植民地化された地域とされていない地域とで違いはあるものの、どちらの場合も砂糖産業が国の動きに強くリンクしていることが分かる。こうした砂糖産業の源である人々の砂糖需要がどこから来るのか、という点にも注目したいが、それは科学的な分野になるので今回は言及しない。しかし、人々の砂糖への欲求が歴史を動かしたことは間違いないのである。




○参考文献:『岩波講座 東南アジア史 第6巻 植民地経済の繁栄と凋落』
永野善子「フィリピン―マニラ麻と砂糖」p.89-113
山本博史「タイ砂糖産業」p.115-141

砂糖の歴史

2007-05-10 18:53:29 | 砂糖からみる東ユーラシア
日本では中世以前からあまずら(蔦の樹液を煮詰めたもの)や蜂蜜などが甘味として用いられてきた。
現在世界全体を通して見るとこれらの他にも甘味の原料として、サトウキビ、甜菜、サトウカエデ、サトウヤシが知られている。これらの中で砂糖の大量生産が可能な原料であるのが、サトウキビと甜菜である。このうち、甜菜は19世紀にヨーロッパで作り出されたものである。17世紀初めにはフランス人のオリブ・イエド・セールが、甜菜の中に糖分が存在していることを記していたものの、甜菜の品種改良や砂糖を製造する方法の研究を完成させたのは、プロイセンのK・F・アッハルトであった(1799年)。よって、それ以前に砂糖を大量生産する原料としてはサトウキビしかなかったと言える。
サトウキビの原産地は、かつてはインドのガンジス川流域と考えられていたが、近年はインドネシアだとされている。そこから交雑や突然変異などによって数多くの種類がうまれた。大きくは5種に分類される。①Saccharum officinarum(栽培起源種)、②Saccharum barberi(栽培種)、③Saccharum sinense(栽培種)、④Saccharum robustum(栽培起源祖先種)、⑤Saccharum spontaneum(野生種)である。このうち、甘味料として用いられるのは①~③であるが、②・③が細茎なのに対し、①は大茎で硬いため、木製の圧搾機による搾汁に困難が生じたとされている。④は大茎で糖分が少ないため建築材料として用いられ、⑤は細く、糖分も少ないために特に材料にされることがない。なお、砂糖そのものの始まりはインドであるとされている。これは、砂糖の英語名「Sugar」の語源がサンスクリット語の「Sarkara」(砂粒の意味)に由来すると言われること、また紀元前5~10世紀のインドの仏教典に砂糖やさとうきびに関する記述があることから言われていることである。
 さて、サトウキビから砂糖を得るまでには、よりよい気候条件・社会的条件を満たす必要がある。サトウキビの栽培には、適度な雨量と温度が必要なうえ、栽培によって土壌の養分が消耗して土地が荒れるため、つぎつぎに新しい耕地を求めて移動する必要もあった。また、サトウキビは収穫されると酸化が進み、甘みが落ちてしまうため、収穫から短時間のうちにサトウキビをくだき、原液となるジュースを搾り出す作業を行わなければならない。これには、できるだけ命令の行き届きやすい、大量の労働力が必要である。このため、世界商品とよばれ、国や人種などの違いをこえて、世界で広く取引することのできる砂糖を得るために、ヨーロッパ諸国は栽培・製糖条件を満たす地を求めて、大航海を行うようになった。15世紀末には、中心は地中海からマデイラ島、カナリア諸島など大西洋沖の島々に移り、16世紀にはポルトガルの植民地であるブラジル、17世紀にはイギリス領バルバドス、フランス領マルテイニーク等、カリブ海地域に広がった。ブラジルやカリブ海では、アフリカから獲得した奴隷を労働力とし、プランテーションの経営が行われるようになった。
 この結果として、ヨーロッパの奴隷貿易船がアフリカの黒人王国が求める鉄砲やガラス玉、綿織物を西アフリカにもたらし、その代わりに奴隷を獲得する。その奴隷を南北アメリカやカリブ海域で売って、代わりに砂糖(まれに綿花)を得てヨーロッパに戻る、という三角貿易が行われるようになった。また、カリブ海では少数の白人と大量の黒人奴隷という社会がうまれ、プランターたちは王をしのぐほどの富を得ることになる。イギリスのリヴァプールやロンドン、オランダのアムステルダム、フランスのナントなどヨーロッパの港町では、プランテーションで作り出された茶色の原糖(圧搾したサトウキビのジュースを煮詰め、精製したもの)をさらに精製して純白の砂糖にするための工場が建てられるようになった。
 このような砂糖の大量生産により、砂糖の消費にも変化が生じた。砂糖が貴重品であったころは、薬品やデコレーション(権威の象徴)として用いられていたが、大量生産によって香料、甘味料、保存料としての用法も拡大したのである。
 日本への砂糖の伝来は、少なくとも8世紀にはなされていた。754年に来日した唐僧鑑真の積載貨物中には「石蜜、蔗糖等五〇〇余斤、甘蔗八〇束」があったことが『唐大和上東征伝』に伝えられている。しかし、その後もずっと砂糖は貴重な輸入品であり、この輸入のために、近世初期から貿易決済手段としての金銀が激しく国外流出することとなった。この貴金属の流出をおさえるために、1696年には砂糖を国産化して輸入を減らすべきだという意見が唱えられている。なお、輸入黒砂糖の主な生産地は福建、台湾、シャム、カンボジア、琉球、奄美諸島などで、白砂糖は福建、台湾、南京、寧波、ジャワなどから輸入されていた。なお、実際に製糖する技術の情報源は2つ考えられている。1つは奄美や琉球の製糖技術が薩摩藩を通して伝わるルート、もう1つはオランダ・中国の製糖技術が長崎のオランダ人・中国人、そして長崎の通詞を通して伝わるルートである。植村正治氏は中国の製糖技術が国内にもたらされ、医学上の人的ネットワーク・幕府を中心としたネットワークを通して移転と開発が進んだとされている。


参考文献:志村勇作編著『日本の砂糖の歩み』糖業調査新報社、1974年
     川北稔『砂糖の世界史』岩波書店、1996年
植村正治『日本精糖技術史1700~1900』清文堂出版、1998年

糖業協会編『糖業技術史―原初より近代まで-』丸善プラネット、2003年
     名嘉正八郎『沖縄・奄美の文献から見た黒砂糖の歴史』ボーダーインク、2003年
     真栄平房昭「琉球貿易の構造と流通ネットワーク」『琉球・沖縄史の世界』吉川弘文館、2003年


なお、個人的には、近世の日朝間でやりとりされた書簡を管掌していた以酊庵輪番僧について勉強しています。現在は対馬藩の日記「毎日記」を読んでいますが、少しずつ禅僧についても勉強をしたいと思っています。そこで、もし禅寺関係の方がお知り合いにいる方はご連絡いただければと思います。
     

砂糖について ――KJ法の叙述化

2007-05-10 14:58:23 | 砂糖からみる東ユーラシア
砂糖について ――KJ法の叙述化
ペンネーム:やぶ

一般に「砂糖」と呼ばれているのはショ糖(蔗糖、スクロース)のことである。糖質系甘味料の中では非常に高い甘味度を示す。ショ糖は人体にとって必ずしも摂取が必要というわけではなく、小腸内の酵素によりグルコ-ス・フラクトースに分解され、吸収される。しかし、やはり糖分は生物の生存に必要な物質である。ヒトを含む霊長類の乳児の実験では、生まれつき甘味は欲しがるけれども苦みは拒否するという結果が出ている。その中でも、砂糖の甘味に人間は惹きつけられ、生産・需要・消費が世界に広まっていった。
 はじめに、砂糖の原料にはどのようなものがあるだろうか。主要な原料はサトウキビ(甘蔗/Saccharum officinarum L.)と サトウダイコン(甜菜、ビート/Beta vulgaris L. var. Rapa Dumort)であるが、その他にサトウヤシやサトウカエデも原料となる。また、砂糖以外にも古くから甘味はあった。例えば、日本や中国においては甘蔓・甘草・柿などである。しかし、砂糖の国際的な生産と貿易の拡大により、各地域の伝統文化の上に砂糖文化が流入してきたと考えられる。
 サトウキビは最も古くからある砂糖の原料である。砂糖が初めて作られたのはインドであるといわれ、Sugarの語源も古代サンスクリット語のSarkaraといわれている。このインドでの砂糖の原料もサトウキビであった。まずはサトウキビの伝播について見ていきたい。サトウキビの原産地は、以前はインドと考えられていたが、現在ではニューギニアとされている。BC15000~BC8000年頃に作物化され、熱帯太平洋の島々や東南アジアに栽培が広がった。BC20世紀にインドに伝わり、ここが第二次原産地として世界各地に広まり、各地で野生種などとの種間雑種が生じ、現在の栽培サトウキビNoble Caneがつくり出され、現在では全世界の熱帯で広く栽培されるようになったと推定される。中国では、大陸南部で古くからチクシャ(竹蔗)が栽培されていた。雲南省では山の上でもサトウキビが栽培されていたという。日本への伝来は、8世紀に沖縄へインド人により砂糖の製法とともに伝えられたといわれるが、本格的には16世紀からで、1609年に奄美大島に栽培されて以来、南九州や四国地方などでも各藩の保護のもとに栽培が行われた。企業的なプランテーションは16世紀から、南米・カリブ海地域・インド・東南アジア各地・ハワイなどで始められた。現在はさらに品種改良がなされており、早熟性・晩熟性のものや、し(・)がん(・・)で(・)甘みを楽しむ観光客用のもの、固くて機械の圧搾にかける工業用のものなどがあるようだ。
 次に、サトウキビの栽培法を見てみよう。サトウキビは高温多湿を好む熱帯性植物で、生育には年平均20℃以上の気温と多量の水が必要となる。成熟までの期間は品種や栽培地域によって異なるが、赤道に近い地域では約13ヶ月、熱帯から亜熱帯に向かうにつれて18~24ヶ月かかる。収穫期は北半球で11~12月、南半球では6~7月に始まる。作型には、茎を2~3節の長さに切り取ったものを苗として植え付ける新植栽培と、収穫後の古株から再び出る芽から育てる株出し栽培がある。栽培地域はアジア・アフリカ・オーストラリア・中南米の発展途上国が多く、最大の生産国はブラジルである。近年ではバイオエタノールの原料としての生産も重要視されている。
 サトウキビから作られる砂糖は甘蔗糖と呼ばれる。ふつう生産地で原料糖の形に作られてから、消費地に運ばれて精製され、グラニュ糖や上白糖などの精製糖になる。製糖工程を簡単に説明すると、まずサトウキビを裁断し、さらにシュレッダーで細胞を破壊するように細裂させ、圧搾する。絞った圧搾汁から加熱・沈殿により清浄汁を作り、これを濃縮して濃厚汁にする。そして濃厚汁に白下・分蜜という処理を加えて結晶化させるのである。甘蔗糖の生産量は2004/05年度において世界全体で約1億4百万トンである。
 ところで、これまでサトウキビに関して多くの事例が取り上げられていたが、砂糖の生産においてはサトウダイコンから作る甜菜糖も重要な位置を占める。甜菜糖の世界全体での生産量は2004/05年度において約3千7百万トンで、甘蔗糖と合わせると世界の砂糖生産量の約75%を占める。そのため、ここではサトウダイコンの栽培や製糖についても述べたい。
サトウダイコンは中緯度から高緯度の冷涼地で栽培される。原産地は西アジア地域とされているが、現在では温帯から亜寒帯を中心に栽培地域が広がっている。生育期間は6ヶ月で、ふつう春先に植え付けられ、秋に収穫される。発芽に要する温度は25℃が最適とされ、根の生育には日中25℃、夜間20℃の穏和な条件が適するが、生育期間の後期には冷涼な気温が根中糖分を上昇させる。生産地としては、製糖法を確立したドイツやナポレオンの奨励のもと製糖工場の建設が進められたフランスはじめとし、ヨーロッパが圧倒的に多い。日本ではもっぱら北海道で栽培されている。
 もともとは飼料として栽培されていたが、18世紀にドイツの化学者マルクグラーフとその弟によって製糖法が確立された。この甜菜糖の製法にも簡単ではあるが触れたいと思う。まずサトウダイコンを裁断し、温水を加えながらロージュースと呼ばれるショ糖抽出液を作る。この液に石灰を添加して濾過し、濃縮してシックジュースと呼ばれる状態となる。これを白下・結晶化させて砂糖を作る。ショ糖液を抽出した後のかすはビートパルプと呼ばれ、家畜の飼料として利用される。また、サトウダイコンを収穫したときに切り捨てられた茎や葉も肥料となる。
 以上のような砂糖の生産は、ヨーロッパにおける砂糖の需要・消費と密接に結びついている。砂糖のヨーロッパへの伝播には十字軍が大きな役割を果たした。11~13世紀にエルサレムに送られた十字軍は、その帰路にコーヒーなどとともに砂糖を持ち帰ったという。その当時、砂糖は薬品として用いられることが多かったが、後にコーヒーや紅茶の文化が広まるにつれ、砂糖の需要も上昇していった。砂糖をふんだんに使ってデコレーションを施した菓子はステータスシンボルともなった。さらに、ヨーロッパ各国は新大陸やカリブ海などにおいて植民地政策を展開し、大規模なプランテーションを行った。そこでのサトウキビ栽培と製糖には多くの労働力が必要であり、現地住民やアフリカから奴隷が駆り出された。やがて、労働者たちのティーブレイクにも砂糖が用いられるようになった。
これに対して日本や中国では茶に砂糖を入れる習慣がなく、ヨーロッパに比べれば砂糖の消費は少なかったと考えられる。中国では6世紀に砂糖が製造されたという記述がある。日本では、奈良時代に遣唐使や留学僧が中国から砂糖を持ち帰ったとされる。日本で砂糖が庶民のものとなるのは日清戦争以降だったようで、砂糖は長い間交易品として扱われ、限られた人物しか手に入れることのできない高級品だった。

以上に砂糖についてのKJ法による議論をまとめた。日常生活の中で当たり前のように使っている砂糖だが、調べてみると世界中を巡る歴史的背景に触れることができた。ヨーロッパでの需要の高まりから砂糖の生産と消費が大規模に拡大していき、栽培方法も製糖技術も改変され、砂糖は国際的に重要な品目となった。このような需要と供給の根源には、一番はじめに述べたように、人間の甘さに対する本能的な欲求がきっとあるのだろう。
 

参考文献
橋本仁・高橋明和編『シリーズ<食品の科学> 砂糖の科学』朝倉書店 , 2006
シドニー・W・ミンツ(川北稔・和田光弘訳)『甘さと権力 砂糖が語る近代史』平凡社 , 1988
堀田満他編『世界有用植物事典』平凡社 , 1989

砂糖について(ST)

2007-05-10 14:53:57 | 砂糖からみる東ユーラシア
〈砂糖とは〉 STより
砂糖とは蔗糖(ブドウ糖の20倍の甘さ)を主成分とする甘味料であり、主にサトウキビから作られる甘蔗料とサトウダイコンから作られる甜菜糖とがあるが、そのほかにも原料として、サトウヤシ、サトウカエデなどがある。製法により含蜜糖・分蜜糖、製法の程度により粗糖・精製糖、色により白砂糖・赤砂糖・黒砂糖、加工形態により粉糖・角砂糖・グラニュー糖・氷砂糖などに分類される。
〈サトウキビについて〉
サトウキビの原産はニューギニアであると考えられているが、インドという説もあり、‘Suger‘の語源はサンスクリット語の‘Sarkara‘からきていると考えられる。サトウキビには観光客用と工業用があり、前者が軟らかく食べやすい(齧りやすい)のに対し、後者は非常に固い。
〈砂糖の歴史〉
現在は技術の発達により大量生産が可能であるが、昔はサトウキビを生産(栽培)するのに大量の労働力が必要であったため、熱帯地方ではプランテーションによって16世紀ごろからそれが行われてきた。当初はせいぜい西洋の一部の上流階級の間でしか消費されなかったが、17世紀中頃以降、ココア、コーヒー、お茶の導入が契機となり、砂糖の需要がぱっと拡大した。茶が国民的飲料として定着した18世紀初め以降のイギリスでは、茶と砂糖の輸入(=消費量)をグラフに描いたとき、二本の線は実に見事な右上がりの平行線になったという。
日本では奈良時代(天平勝宝六年)に唐僧鑑真が来日の際に唐黒(黒砂糖)をもたらしたのが最初とされ、当時のものは黒い不定形あるいは飴状のものであったと考えられている。「沙糖」「砂糖」という呼び名は平安時代初期には現れるが、安土桃山時代は一種の高貴薬としての地位を保っており、甘味料としては甘葛(あまずら)・飴などが使われるのみであった。日本で砂糖が注目され始めるのは室町時代から近世初期であり、かなり大量に輸入していたと考えられるが、当時国際政治に疎かった日本は、大変高い値で砂糖を取り引きしていたようである。そのこともあり、日本では享保年間(1716~1736 吉宗の時代)に砂糖を生産するようになるのだが、大量生産とまではいっておらず、その後も長崎での貿易において砂糖を輸入していた。取り引きされた砂糖は、大坂の唐薬問屋に送られ、そこで砂糖仲買商人に売却されることになるのだが、この過程で、他国へ流通を目的に砂糖の横流しが行われており、処罰された者もいたという史実は興味深い。
〈西洋と日本の砂糖の利用方法〉
 先ほども述べたように、西洋の砂糖は、これをコーヒー、茶に入れて飲むという消費の仕方が一般的に広まるのだが、日本では砂糖を直接茶に入れずに、これを分離して点心、茶子、お茶うけと称する菓子のかたちにして消費していた。なぜこのような違いが生まれたかを理解することは簡単ではないが、ひとつの要因として、日本人にとって砂糖は「高級品」であるという意識があったため、また実際に高級であったため、気軽に飲み物に入れる文化が形成されなかったということがあると思う。またこれに関連して、授業中に上田先生がおっしゃられていた「産業革命によってイギリスの砂糖文化は大衆に広がった」というお話は大変興味深かった。

[参考文献]
・ 『日本国語大辞典』(小学館)
・ 『中央公論昭和60年10月特大号』(中央公論社)
・ 『国史大辞典』(岩波書店)
・ 『九州史学 第121号』八百啓介著「18世紀後半の長崎貿易における盈物砂糖の流通  
     について」(九州史学研究会 1998)
・    『季刊 糖業資報 2005年度第1号 通巻第165号』江後迪子著「江戸時代の砂糖」(製     糖工業会 2005)

ハラスメントは連鎖する

2007-05-02 16:23:01 | 史的システム論の射程
安富歩さんから、一冊の自著をいただいた。
『ハラスメントは連鎖する:「しつけ」「教育」という呪縛』光文社新書299。
ちょうど、私は史的システム論のなかで、これまで手を付けてこなかった「人格流」の問題に取り組もうとしていたやさきだったので、大きなインパクトを受け、一気に読み終えた。

安富さんから教えていただいたベイトソンの議論を、思い起こしつつ読む。いままでの複雑系の話が、一層、深化している。

メッセージのやりとりを、サイバネティクスにさかのぼりつつ、フィードバックから説き起こす。史的システム論でも、フィードバックは最も重要な考え方。安富さんたちの議論で、「魂」と呼ばれてているもの、これは、私の議論では、「体感」と呼んでいるものに近いのかもしれない。
安富さんたちがいう「魂」、「人間が生まれたときから持っている本来的な運動状態のこと」(p.92)。「身体という構造に、魂という機能ぎ備わっており、その魂とい機能があってこそ、身体という構造が生きた状態のまま維持されている」。

史的システム論における人間像は、渦。そしてその渦は、三層をなす。
もっとも基底にあるものが、物質流に依存した、身体のレベル。ここでは意識は対象化されず、「快←→不快」という形をとる。
次のレベルが、人格流に依存した、感情のレベル。ここでは意識は対象はあるものの、言語化されず、「好き←→嫌い」という形をとる。
そして、その二つの層の上に、理性のレベルが位置づけられる。ここでは意識は言語化され、意識は「正しい←→間違っている」という形をとる。

対応をはかると、史的システム論で言う基層は、まさに「魂」と呼ばれているものである。

しかし、魂をハラスメントとの関連で、私は考えたことはなかった。歴史のなかで人格を扱うとても大切な手がかりを、この本は与えてくれた。



人格流

2007-05-02 15:37:34 | 史的システム論の射程


2005年、14世紀から19世紀までの中国を中心とした通史を『海と帝国』(講談社)として出したのですが、
その続編を書けないかと、いま構想をめぐらせているところです。
2005年に書いたものは、もっぱらモノの動き、つまり交易を中心にして歴史を書いたのですが、
続編はヒトを中心とした列伝のようなものを考えています。

ここでは、ヒトが造り上げるシステムから説き起こそうと考えているのですが、
歴史学でしばしば用いられる、組織・集団・役割・階級・身分・民族……などの概念を前提とせず、
ヒトがどのように他者との関係を造っていくのか、という初発段階から議論を立ち上げたいと思っています。

ヒトが造り上げるシステムの要素は、「人格」だとします。
人格が成り立つ条件は、identify 、中国語では「認同」となります。
つまり、今日の「私」が昨日の「私」と同じであると、私自身が認めること、
あるいは、今日の「あなた」は、明日も同じ「あなた」であるであろうと認めること、
さらに、ある史料に出てきたAという人物と、ある碑文に出てきたAという人物が同一であると認めること、
これが、人格という要素が成立する条件となります。

あるヒトを同一であると認めるために、ヒトは、さまざまなヒトに付随するタグ(標識)を利用します。
顔つき、身なりなど眼に見える標識、
名前や呼称、肩書き、など言語化された標識、
などが、そのタグとなります。
このタグの編成の仕方には、文化に応じた特色がある。

といった流れで、議論を進めていきたいと考えています。

いままで文化人類学や心理学などで、上記のような議論を誰かしていないでしょうか。

1人で考えると、視野が狭くなりますので。

砂糖について

2007-05-02 15:00:51 | 砂糖からみる東ユーラシア
1.砂糖とは
 サトウキビ(甘藷)、サトウダイコン(甜菜)枯らせ精算される甘味料のこと

 その他の甘いもの…メープルシロップ(カエデ)、ハチミツ、サトウヤシなど

2.特性
 植物としての砂糖→栽培技術→精糖、製糖技術→気候風土
 栄養価という面で

 砂糖に関する科学的知識

3.人間と砂糖
 砂糖の必要性と需要
 人間の甘いものに対する欲求→マウスなどに通じる生理的欲求、「甘いものは別腹」

a.技術
 1.栽培技術
 砂糖の栽培の西漸、インド原産、オリエント、ヨーロッパへの伝播
 日本や中国への移入→いつごろ?

 お土産のサトウキビ→品種、工業生産、生食用の差→関東での栽培は可能か

 2.砂糖精製の技術
 古い技術
 近現代の化学的精製法
 インドからの絞り器の伝播

 3.製品としての砂糖の品種
 中国の紅糖など

b.食品としての砂糖
 その料理、飲料への応用、
 「砂糖以前」→類似の甘味料、たとえば果物、蜂蜜、甘葛など
 甘い料理
 砂糖の生産量と消費量
 19世紀の食文化
 ラム酒

 保存食としての砂糖漬け

4.歴史と砂糖
a.西洋と砂糖
 食文化にイスラムの影響、地中海、ベネチアとスペイン
 食文化…砂糖菓子、茶とコーヒー等々
 貴族文化としての砂糖、
 近代国家と砂糖…植民地、三角貿易、奴隷、プランテーション
 紅茶と砂糖
 
b.日本と砂糖
 古代の砂糖文化…甘葛、甘茶蔓、干し柿など
 江戸時代の砂糖…和三盆など
 近代の砂糖→沖縄、台湾
 
 麦芽糖、アメ

c.中国と砂糖
 中国の甘いもの、南と北で違うのか
 砂糖の種類、その製法
 『養生録』、補食

■参考文献

支那の砂糖貿易 木村増太郎 糖業研究会 1913
図解 砂糖工業 台湾製糖株式会社 科学知識普及会 1929
砂糖と製糖業 久保田富三 非売品 1937
支那の製糖工業 大塚令三 中支建設資料整備委員会 1941
糖業より見たる広域経済の研究 編:宇野弘蔵 
財団法人日本貿易振興協会日本貿易研究所 1944
世界糖業文化史 関野唯一 邦光書房 1955
中国甘藷糖業の展開 戴国キ(火+軍) アジア経済研究所 1967
世界の商品Ⅰ―砂糖― 平野哲郎 アジア経済研究所 1968
甘さと権力 著:シドニー・W・ミンツ 訳:川北稔、和田光弘 平凡社 1988
砂糖百科 高田明和、橋本仁、伊東汎 社団法人糖業協会、製糖工業会 2003
糖業技術史―原初より近代まで― 編:社団法人糖業協会 丸善プラネット 2003

サトウキビとは

2007-04-27 12:47:30 | 砂糖からみる東ユーラシア
イネ科サトウキビ属の種と分布 
                  
(堀田満他編『世界有用植物事典』平凡社 , 1989)
・ Saccharum officinarum L.
日:サトウキビ(砂糖黍、甘蔗) 英:Sugar Cane , Noble Sugar Cane 
染色体数 2n=60,80,80-122+
  以前はインドのガンジス川沿岸原産と考えられていたが、現在ではニューギニア原産とされる。BC15000~BC8000年頃に作物化され、古代に熱帯太平洋の島々や東南アジアに栽培が広がった。BC20世紀にインドに伝わり、ここが第二次原産地として世界各地に広まり、各地でチクシャや野生種との種間雑種が生じ、現在の栽培サトウキビNoble Caneがつくり出され、現在では全世界の熱帯で広く栽培されるようになったと推定される。企業的なプランテーションは16世紀から、南米、カリブ海地域、インド、東南アジア各地、ハワイなどで始められた。日本への伝来は、8世紀に沖縄へインド人により砂糖の製法とともに伝えられたといわれるが、本格的には16世紀からで、1609年には奄美大島に栽培され、以来、南九州や四国地方などでも各藩の保護のもとに栽培が行われた。
・ Saccharum robustum Brandes et Jews. ex Grassl
染色体数2n=60-144
サトウキビの野生種。ボルネオからニューギニア、ニューヘブリデスに分布。マレーシアからポリネシアに栽培されていたサトウキビの原種。
・ Saccharum sinense Roxb. 
日:チクシャ(竹蔗) 中:甘蔗 英:Chinese Sugar Cane
染色体数2n=81-124
インドから中国大陸南部で古くから栽培されていた。S. spontaneumが親となってインドで栽培化された系統群であるが、その後S. officinarum (Noble Can群)が東南アジア地域にまで栽培が広がったときに、両者が交雑し、より良質の品種群が生まれた。1609年に福建省から奄美大島に初めて渡来したサトウキビはこのチクシャ系統のものであったし、現在でもインドの北東部や東南アジアの一部では栽培されている。
・ Saccharum spontaneum L.
英:Wild Sugar Cane , Thatch Grass
染色体数2n=40-128
アフリカからインド、東南アジア、南西太平洋諸島にまで広く分布する野生種。インドから中国大陸や東南アジアの一部で栽培されていたサトウキビ(竹蔗)のもとになった種である。スマトラやアフリカに高い倍数性の系統がみられ、それらは雑種が生じた結果だといわれている。

※ 栽培品種はもっとあるようです。

砂糖をテーマに

2007-04-27 12:43:04 | このブログについて
東ユーラシアのブログを再開します。


立教大学大学院文学研究科で開講されている「東洋史演習」のメンバーとのあいだで、東ユーラシアの動向を、「砂糖」でみてみよう、というプロジェクトを開始しました。

参加者は、実名ではなく、ニックネームで登場します。



環球、あるいは「そこも地球の真ん中」

2005-09-29 13:21:08 | 史的システム論の射程
講談社の「本」という宣伝誌に載った文章です。
上田信『海と帝国』の宣伝もかねています。

史料調査の旅先での朝、目覚まし代わりにセットしたラジオの音で眼が覚めた。流れてきたのは、永六輔氏の独特の声。ぼんやりと聞いていたら、「ここが地球の真ん中です」という言葉が耳に飛び込んだ。
 永氏がその師とあおぐ「歩く民俗学者」の宮本常一氏に、ラジオの仕事では電波の届く先のことを考えなさい、とアドバイスされた、地球は丸い、だからどこであっても地球の真ん中になりうる、電波の届いている「あなたがいるところが、地球の真ん中です」。そんな内容だった。この言葉が私の寝ぼけた頭脳を揺さぶった。
「そうか、ここが地球の真ん中なのか、東京が日本の真ん中でも、ワシントンが世界の中心でもないのか」。旅先にいることもあったのだろう、イメージが脳裏で膨張する。ぐったりと寝ているベッドを中心に、半径千キロの円、半径五千キロの円と球体の地表をなめるように円が広がり、地球の半径である六千数百キロメートルにまで拡大したところで、その円は地球の反対側に回りこみ、しだいに収縮しながら、ちょうど地球の裏側の一点に結ぶ。それはどこだろう、南大西洋の海原か南アメリカの山中か。私の想念は宇宙に飛び、地球をはるか足元に見下ろしていた。
 旅を終えて戻った大学で、さっそくこの「発見」を学生に伝えようと、地球儀をかたどった透明なビーチボールを手にして教室に立った。「地球の真ん中はどこか示してください」とボールを渡すと、その学生は「このボールの中心でしょう」と、ボールに指を立てていう。しまった、そりゃそうだ、地球の中心は地核にあることになる。学生にどういった言葉で伝えたらいいのだろう。
 球体としての地表をイメージさせることば、英語で言えばグローブ、だけど「地球の真ん中」のメッセージをグローバリゼーションだといったら、永氏はたぶん「それは違うぞ」と首を横に振るだろう。日本語ではアースとグローブとを区別することはできない。そんなわけで、私の言葉探しの旅が始まった。
 石垣島に遊びに行ったときのこと、強い日差しのもと、海からの風を楽しみながら歩いていると、公会堂の前に一つの地図が掲げられているのに気がついた。立ち寄って眺めて見ると、石垣島を中心とする同心円が描かれたアジアの地図である。沖縄県庁のある那覇よりも台湾の台北が近く、九州の鹿児島よりも大陸の福州が近い。日本の本州よりもフィリピンのルソン島が近いことが一目で分かるその地図を見たとき、私の脳裏のなかで、豪快な音を立てながら世界認識の座標軸が大きくずれた。そのとき口を突いて出てきた言葉は、「そこも地球の真ん中です」というものだった。
「ここが地球の真ん中」というメッセージを一歩進めれば、ほかのところに住んでいる人に向かって、「そこも地球の真ん中ですね」と語りかけることが可能となる。自分が中心であると押し付けるのではなく、他者も同時に中心であることを認められれば、世界はもっと楽しく、人はもっと楽に生きられるはずだ。
 それから数年後、中国での調査を終えて農村から大都会に出たときのこと、街角で「環球電脳培訓中心(ホアンチウデイエンナオペイシユンチヨンシン)」という看板を見かけた。これだ、これが探していた言葉かもしれないと、心中で雀躍した。中国語辞典で「環球」をひくとグローブとあり、逆にグローブをひくと、全球(チユエンチウ)・寰球(ホアンチウ)という熟語に並んで「環球」という言葉が眼に飛び込んでくる。看板を直訳すれば、グローバル・コンピュータ・トレーニング・センターということだ。
「全球」はグローブをすべて一体化しようとする主義・主張を想起させるので、ボツ。「寰球」という言葉は日本であまり用いられない漢字が邪魔をするから、やはりボツ。「環球」には自分がいるところを中心に地表に広がる「環」というイメージを含んでおり、「ここが地球の真ん中、そして、そこも地球の真ん中」というメッセージにもっともふさわしい。そうだこれにしよう。そうした経緯で、私はグローブの訳語を環球(かんきゆう)とすることに勝手に決めたのである。
 日本人が欧米の言語に訳語を与えず、そのままカタカナで用いるようになったのはいつのころからだろう。映画のタイトルも、安易な意味不明の言葉の羅列となり果てた。英語の頭文字を連ねた言葉にいたっては、怠慢を超えて、知的な荒廃であろう。中国人はいまでも律儀に漢字に置き換える。これがときに知的な衝撃を与えることもある。私は中国語を経由して、日本の訳語として「環球」を用いることにした。
 環球という言葉は、会議や報告の席で口にしたことは何度かあったが、しかし、このほど「中国の歴史」第九巻として刊行された『海と帝国』のなかで、初めて文字としてこの言葉を用いた。
 この著作は明朝と清朝という二つの帝国を、「海」という対立項を立てることで、動態的に描き出そうとするものであった。江南の巨商の沈万三(しんまんさん)、倭寇の棟梁の王直(おうちよく)、日本と中国の政権を手玉に取った芝竜(ていしりゆう)、そして台湾に拠って海の政権を構想した成功(ていせいこう)など、彼らは帝国が支配する領域の外に、広大無限の大海が広がることを知っていたはずである。海を生きた人々にとって、世界の真ん中は自分が乗り組んでいる船であり、こうした世界は複数あると感じていたに違いない。
 もちろんマテオ=リッチと交流したわずかな知識人を除き、明代と清代の中国を生きたほとんどの人が、大地が球体であるとは知らず、環球という認識は持っていなかった。アヘン戦争に敗れ欧米主導の世界システムに組み入れられてから、はじめて中国人は環球の全体を覆うネットワークを張り巡らせ、中国は環球の時代へと突入するのである。
 執筆もほぼ終わりかけた今年の三月、主要な登場人物の一人である和(ていわ)の郷里を私は訪ねた。雲南省の省都・昆明(こんめい)から滇池(てんち)という大きな湖に沿って車で一時間あまり、晋城(しんじよう)という町に着く。いまは和公園と呼ばれている丘陵に登ると、眼下に海のような湖を望むことができる。この地で和は馬和(まわ)という名で少年時代を過ごし、明朝の雲南攻略の戦乱のなかで捕虜となり、去勢させられたのである。その後、朱棣(しゆてい)(永楽帝)に宦官として仕え、ちょうど六百年前の一四○五年に南シナ海からインド洋をめぐる大航海を始めた。
 和が仕える明朝皇帝の命令を受けて旅立ったときは、あるいは皇帝の所在する明朝の首都を世界の中心であると思っていたかもしれない。しかし、彼はムスリムの家に生まれた。少年のころは、メッカの方角に向かい、定められた礼拝を行っていたに違いない。球体をなす大海原を西へと向かう航海で、彼はメッカへと向かう巡礼者の船と行き違ったこともあったであろう。皇帝も世界の中心であるかもしれないが、これから赴こうとする「そこも環球の真ん中」だという意識を、和は抱いていたのかもしれない。丘の上で和が父親のために立てさせた墓碑の前に立ったとき、私はそんな空想に浸った。
 墓碑には、メッカに巡礼したことのあるムスリムを父にもったことを誇るように、「父の字(あざな)は哈只(ハツジ)(メッカ巡礼を成し遂げたムスリムへの尊称)」と記されていた。
(うえだ・まこと 立教大学教授)