東ユーラシア研究会

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犯科帳のなかの砂糖密売事件

2007-07-07 14:56:13 | 砂糖からみる東ユーラシア
                                      文責:甘いすもも
7月6日のゼミにおいて、「犯科帳」(長崎奉行所の判決記録)の中から砂糖密売の一例を追った。ここでは、その概要をのべることにする。
取り上げる事例は1757年10月に起き、翌年9月23日に判決が出されたものである。これは、八百啓介氏が「一八世紀後半の長崎貿易における盈物砂糖の流通について」において盈物の初見であるとして紹介されている。この時期をふくむ18世紀以降は、盈物の量が増加しており、10年後の1767年には盈物の砂糖・薬種は販売が禁止される。この時点では、まだ日雇による処分が黙認されていた。

事件の流れ(1757年9月下旬)
・仁助がオランダ人との間で密売の相談をする。
 →仁助が江戸町のりんの家を訪ね、密売の話を持ちかけた所、その量を尋ねられる。
 →仁助が翌日オランダ人に確認、200斤を金2両2分で売りわたすとりんに伝える。
 →りんは値段が高いとする。仁助はオランダ人に相談し、値段が2両1分となる。
 →再びりん宅にて値段を伝えると、りんはお金がないが、そこへやってきた長右衛門が買い取ると伝えた。

(10月2日)
・仁助がりん宅にて、砂糖が30斤増えたので2両2分で買い取るよう偽りを伝え、手付金金1分を受け取る。
→仁助がオランダ人の手印をりん宅へ持参する。
→長右衛門が銭15貫文・りんが2貫文出し、りん宅にいた六助が2両1分に両替する。
→夜五ツ(およそ20時頃)長右衛門と六助が出島に赴き、砂糖の密売を行う。
→夜四ツ過ぎ(およそ22時過ぎ)砂糖を江戸町のりん宅へ運び入れる。

(10月3日)
・りん宅にて、砂糖の量を確認(182斤)
→りん・長右衛門の指示で、忠左衛門が喜平次のもとに口入を頼みにいく。
→砂糖屋重吉のもとで砂糖を売る。

(10月6日)
・密売一件にかかわりのあったものが預かりになる。

以上が事件の概要である(仁助が手付金を使って鉄槌を購入した岡村屋の手代や主人も「犯科帳」には挙げられているが、砂糖の密売とは話がそれるため省略した)。およその流れはつかんだつもりだが、疑問点も残った。各人物がどのような生業(地位)の者であるのか、この砂糖はこの後どのように消費されていったのか、などである。若松正志氏は「近世中期における貿易都市長崎の特質」の中で1793年に唐船から一艘から日雇や日雇頭などに配分された砂糖の内訳を出されている。これによると、1人あたり1.45斤から30.530斤まで幅があるものの、今回密売された182斤よりはだいぶ少ない。よって、盈物砂糖として182斤の砂糖を砂糖屋に運んだ場合、砂糖屋は本当に「犯科帳」の記す通り「密売之品とは毛頭不心附」のまま買い取るのか疑問がわく。砂糖屋の入荷状況を知る資料があれば、盈物として200斤近い量が1度に持ち込まれているかわかるかもしれない。また、密売砂糖の出資者である出嶋町の長右衛門が、それだけの盈物砂糖を集められる立場だったのか分かれば、もう少し事件の背景から盈物の流通にせまれるように思う。もし、ブログを読んで、資料や文献にお心当たりがあれば、ぜひご教示いただきたい。

<参考文献>
八百啓介「近世長崎における輸入砂糖とその流通」『和菓子』第9号、2002年
八百啓介氏が「一八世紀後半の長崎貿易における盈物砂糖の流通について」『九州史学』第121号、1998年
若松正志「近世中期における貿易都市長崎の特質」『日本史研究』第415号、1997年
西和夫『長崎出島 オランダ異国事情』2004年、角川書店

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華僑について(姐)

2007-06-04 14:42:06 | 砂糖からみる東ユーラシア
先週のゼミにて中国人が作った砂糖に関する言及があったので、東南アジアや台湾などの華僑について調べてみた。
 鄭和の遠征により朝貢貿易が広く行われるようになるが、実際中国が経済的に潤うわけではなかったので15~16世紀にかけて中国の海軍力は衰えていく。それにしたがって、私貿易が活発に行われるようになった。しかし、これは違法行為であり、外国貿易は事実上大規模な密輸であった。更に、こうして海外に出て行った商人達の多くは同時に略奪も行っていた。海外に中国人が移住するようになった一番最初は、こうした略奪者達のアジトや隠れ家としてであった。台湾もこうした地域の一つであった。そして、海外への長距離航海をする人々の中から定期的な貿易相手国に定住する者があらわれた。こうした初期の海外中国人社会の成立を支えたのは海洋貿易であった。
 貿易チャンスを求めて海外移住した中国人も居れば、一方で中国での政争を逃れ定住した者も居た。1644年に清朝が明朝に取って代わり、それに対する抵抗運動から逃れるために台湾やフィリピンなど様々な南洋世界へと人々が避難して行った。清朝は遷海令などを出して海外渡航・移住、海外貿易を厳しく禁止していたが、遷海令が出されていた当時にも東南アジアでの交易は賑わっていた。
 そして、中国人の移住が一気に跳ね上がるのが、19世紀後半から20世紀初頭にかけてオランダ、イギリス、スペイン(後アメリカ)が植民地支配を始めてからである。植民地体制化では、サトウキビ、タバコ、ゴムなどの商品作物栽培と、錫、石油などの好物資源の開発が経済活動の中心となっていた。そのための大規模な農園企業や鉱山企業が開発され、東南アジア域外から労働力として中国人やインド人などが大量に受け入れられたからである。そうして徐々に現地社会に根を下ろした華人達は、中国文化を固持しつつ現地で中国人コミュニティを形成した。彼等の教育への普段の投資が華人達の社会的上昇を促し、現地での地位は肉体労働者から商業者、専門職など多様化した。

参考文献
リン・パン 片柳和子 訳 『華人の歴史』 みすず書房 1995
池端雪浦 編 『東南アジア史 島嶼部』 山川出版社 1999
川崎有三 『東南アジアの中国人社会』 山川出版社 1996




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<対馬における砂糖について>(甘いすもも)

2007-06-04 14:38:30 | 砂糖からみる東ユーラシア
 対馬藩において砂糖がどのように入手され、誰が、どのように消費していたのかを調べるにあたり、とにかく対馬藩の砂糖に関する事柄を集めてみた。
○中川延良『楽郊紀聞』巻十一
 「砂糖漬の生姜は、水に浸し置、三五日其(その)水を度々替る也。扨(さて)夫(それ)を皮を去り薄くきざみて、米泔(しろ)水(みず)にて煮る事三度、其後下砂糖を以て煎り付て、糖汁の残らぬ程に煮付け、取上げ少し晒し乾して、壺に納め、砂糖を和(ま)ぜて収め置也。天保十三壬寅十二月十九日、朝鮮にて、津吉善右衛門話。」
 『楽郊紀聞』は対馬藩士の中川延良(1719年~1862年)が、生涯を通じて聞き書きしたことをまとめた本である。1842年(天保十三年)に以酊庵使として朝鮮へ渡り、1844年(弘化元年)にはまだ朝鮮で勤務中であったとされている。よって、上の記事は朝鮮の倭館で勤務していたときに聞き書きしたものと考えてよい。またこの記事から、少なくとも19世紀の半ばには、対馬藩士の手許に漬物ができる程の砂糖があったことが考えられる。

○田代和生『近世日朝通交貿易史の研究』1981年、創文社・『倭館―鎖国時代の日本人町』2002年、文藝春秋
 『倭館―鎖国時代の日本人町』では、朝鮮の倭館で饗応膳として1736年2月2日にふるまわれた料理が紹介されている。これを見ると、敷砂糖・五花糖・氷砂糖の名が見える。五花糖とは日本では「糖花」「渾(こん)平(ぺい)糖(とう)」などと呼ばれる花模様の小粒の砂糖菓子である。朝鮮では、めったに砂糖が手に入らず貴重であったために、おもな甘味料としては蜂蜜や水飴が用いられる。一方で日本の菓子は、その高価な砂糖の中でも最上質の白砂糖を使っているので喜ばれるのである。その場で食べるだけでなく、土産として持ち帰ることも多く、単独で贈答用として用いられることもある。1734年11月から16ヶ月倭館に滞在した裁判の浅井與左衛門が残した記録によると、滞在中に饗応の席や贈答で用いた菓子のうち、取り合わせが完全にわかるのは20回あり、そのうち最も多く出されたのは、五花糖と落雁であった(いずれも9回)。このような砂糖菓子は、国内から持ち込んだり、職人を倭館において作らせることもあった。

 日朝貿易には、進上・公貿易・私貿易の三種類がある。このうち、私貿易の輸出品目の中に砂糖が含まれていた。私貿易とは、密輸ではなく、朝鮮政府が公認する正規の貿易で、朝鮮商人が倭館へ荷物を持ち寄り、役人の立会いのもとで売買を行うものである。田代氏はこの輸出砂糖について「当時の砂糖は、琉球産以外に、中国・オランダ船によっても長崎へ大量に輸入されている。私貿易で朝鮮へ輸出された砂糖は、白砂糖と五花糖の二種類であるが、量的にも少なく、全期間で二回、八〇〇斤程度にすぎない。」と説明されている。輸出された「二回」のうちの一回は1684年(貞享元年)で、確かに輸出品の構成比率が1%にもとどいていない(白砂糖が232斤・505匁余、五花糖が200斤・616匁。この年の輸出額合計は2,678貫388匁余であった。)。
 この砂糖がどこから、どのような経路で輸出されたのかは、琉球産なのか、唐蘭船いずれがもたらしたものなのかを含め、この記述からは詳しく知ることができない。植村正治『日本精糖技術史1700~1900』(清文堂出版、1998年)によると、享保期(1716年~)の白砂糖製造技術の移転は失敗であり、1752~1753年(宝暦2~3年)ごろ長府へ、1753年ごろ尾張へ製造方法が移転したとされている(実際に白砂糖の製造が確認できるのは、長府も尾張も1754年)。幕府への伝授は、1756年10月~翌年4月までにわたって行われた。つまり、朝鮮へ輸出された1684年の砂糖は確かに国産ではなく、輸入品を中継ぎし、朝鮮へ輸出されたものといえる。

○八百啓介「近世長崎における輸入砂糖とその流通」『和菓子』第9号、2002年
 八百氏は、長崎貿易における砂糖の輸入量は、全体として唐船による砂糖の量の方が、オランダ船からの量を上回り、とくに初期においては唐船からの輸入量が圧倒的に多いとされている。論文中の資料(長崎貿易砂糖輸入量というグラフによると、正確な数値は挙げられていないが、1665年には唐船からの輸入が100%をしめている。オランダ船は当初広南(ベトナム)・暹羅(タイ)・ジャワ(インドネシア)産の白砂糖・氷砂糖・黒砂糖・褐色砂糖を輸入していたが、1640年代に台湾産の砂糖を輸入するようになった。しかし、1661年の鄭成功による台湾占拠、翌年のオランダ人追放によって、オランダ船のわが国への台湾産砂糖の輸入は終わった。一方、唐船は台湾からオランダ人が追放されてから1683年に降伏するまでは、台湾産の砂糖は鄭氏の唐船が独占し、1682年には唐船が輸入した砂糖243万4453斤(約1460トン)のうち、101万1282斤(約600トン)が鄭氏支配下の台湾産砂糖であった。朝鮮へ1684年に輸出された砂糖は、どこからもたらされたのか知るために、唐船・オランダ船の輸入した砂糖の原産地と数量を細かく調べる必要があるように思う。
 さて、長崎に届いた砂糖がその後、どのように流通したのか。正規のルートは、まず官営の長崎会所で一括購入され、入札により長崎本商人に買われ、堺船により輸送費100斤あたり10.76匁で輸送され、大坂道修町の薬種問屋に届けられる。その後、堺筋の砂糖仲買に買われ、江戸などの国内市場に出回る、というルートである。江戸では、江戸十組問屋に属する薬種問屋が独占していたが、1729年(享保14年)以降はそれ以外の薬種屋も荷受してよいこととなった。さらに、1808年(文化5年)には薬種問屋から25軒が独立し、江戸砂糖問屋となった。しかし、これ以外にも多種にわたる流通ルートがある。
・オランダ船→長崎奉行・町年寄(→国内で転売か?)
 当初、長崎奉行・町年寄への贈り物は反物類とされていたが、1715年(正徳5年)9月に贈り物を白砂糖とすることがオランダ人に命じられた。これにより、毎年20万ポンド(100トン)の白砂糖が贈り物として用いられた。また江戸参府中の贈り物としても用いられ、あわせると毎年オランダ船のもたらした白砂糖のおよそ四分の一が、商品としてではなく日本人への贈り物として用いられていた。なお、この贈り物砂糖は、量が多いことから、贈られた後は国内で転売されたと推測されている。
・長崎会所→幕府御用達問屋
 1697年(元禄10年)からは幕府御用達の御菓子屋であった大久保主水と虎屋織部に対し、金七〇〇両分の砂糖を元値段で買い取らせていた。その後1724年に落札値段で、1739年に元値段の二割増しで買い取らせるようにした。
・長崎在住のオランダ・中国人→長崎会所→正規ルートへ
 長崎在住のオランダ人・中国人は遊郭の揚げ代として砂糖で支払いをしていた。この砂糖を貰砂糖という。長崎会所で入札されると、代銀が町乙名を通じて丸山町・寄合町の遊女に支払われるしくみである。1785年には中国人からの分については量が制限された。
・唐蘭船→日雇労働者(→国内で転売か?)
 船からの荷揚げに際し、こぼれた物は盈物(こぼれもの)とよばれ、日雇による処分が黙認されていた。18世紀には盈物の量が増加したため、1767年盈物の砂糖・薬種は販売が禁止された。このため、盈砂糖も長崎会所で入札され、正規ルートに乗せられることとなる。日雇には、代銀が支払われたという。
 1774年には盈砂糖の仲買(33人)が置かれるようになる。これにより日雇の集めた盈砂糖は宿老手板を付して、独自に他国へ販売されるようになった。この盈砂糖仲買は翌年には42人に、1784年には85人にふくれあがっている。しかし、1784年に盈物独自の流通が、正規輸入品の流通のさまたげになるとして仲買は廃止された。日雇には手当てとして、唐船一艘当たり白砂糖7200斤・氷砂糖300斤が割り当てられ、1785年からは市中遣用に限って、長崎市内の大村町に砂糖地売所が置かれ盈砂糖や輸入品の販売が認められるようになった。
 なお、長崎での貿易では抜荷も発生していた。荒野泰典『近世日本と東アジア』によると、主な発生時期は2回あり、前期抜荷(1685年~1703年)・後期抜荷(1704年~1711年)に分けられている。前期については、抜荷の販売地として長崎・佐賀・下関・大坂・京都が挙げられている。また、後期の分析からは、大坂に、沖買人(港外や沖合で犯行におよぶ人。港内・出島・市内などで犯行におよぶと抜買とよばれる。)の宿泊・抜荷物の売りさばき・資金調達を行う「宿」が集中していたことが指摘されている。この抜荷にどのくらい砂糖があったのか、あるならば、どのように流通・消費されたのかという点について今後調べる必要がある。

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「糖業より見たる広域経済の研究」について(白)

2007-06-04 14:35:39 | 砂糖からみる東ユーラシア
財団法人日本貿易振興会 日本貿易研究所
「糖業より見たる 広域経済の研究」栗田書店 1944について

*原稿の表は、ブログには掲載できませんでした(ブログ責任者)

1.本論について

第二篇 ジャワの糖業
一、ジャワ糖業の発生より確立まで   
二、ジャワ糖業における生産の構造
三、市場の変遷とジャワ糖業の統制

この第二篇のうち、第一章を取り扱う。

1602-1799…東インド会社の時代
・オランダ東インド会社は香辛料貿易を主としていた
・取引は土着の権力者を「土人理事官」として任用し、産物の強制的収集に当たらせた。
・この方法では土着経済の余剰をくみ上げるに過ぎなかったので、世界商品としては質・量の面で限界があった。

(砂糖について)
・ジャワ糖が初めて積み出されたのは1637年であったと言われる。
・この年のバンタム(バンテン)糖の積み出しは一万擔百斤、或いは一石のこと(618㌧)であった。
・ジャワ糖は1642年に始まったブラジル糖のヨーロッパ進出により敗北した。

・18世紀初頭までにジャワの砂糖農園の数は130までに増大し、その所有者84人中、79 人は支那人、5人は欧州人、1人が土人理事官であった。
・サトウキビ農園での労働者は賃労で賄われたため、中国の移住労働者が大きな要素を占 めたが、ジャワの現地人もチェリボン、テガル等から募集人の手によって集められた。
・工場は土人管理官を通して数箇村を租借し、それを労働力として徴発することになった。 最もこれは賃金が支払われる性質のものであった。
・この耕作地はまず第一に領主、土人理事官、首長に直属し、残りの土地が農民に分割さ れるシステムであったが、分割地では生活に不十分であったので、一年を米作に従事す ると一年は日雇に出る状態だった。
・賦役的労働の下での栽培は一定量のサトウキビを工場に納める事を求められ、過剰な生 産分は会社が安く買いたたいた。
・ヨーロッパ市場は規模が小さかったため、ジャワ糖の生産も又一定程度に納められる必 要があった。西インド、ブラジルとの兼ね合いで価格が変動し、あるいは売れなくなる 状態であった。
・18世紀末には55の工場によって10万擔(6176㌧)が生産されたという。これが東インド会社通じての最高数値である。

・十七世紀前半の状況に対する一節
『農業には十人の支那人
製糖作業には七人の支那人
甘蔗刈取には五人の支那人と一五人の奴隷』

1800-1830…中間動揺期

・フランス革命の影響により1795年にバタビア共和国が成立するなどの政治的動揺
・東インド会社による管理貿易から私企業経営による自由貿易へと転換が模索される
・総督によって異なる政策

(砂糖について)
・村落単位の租借が廃止されるも、自由栽培では工場は維持できない。
・労働者の募集には政府の助力が必要だった。

1830-1854…強制栽培制度の時代
・サトウキビ、コーヒー、藍などの欧州市場向け産物の強制栽培
 1.自己の農地の五分の一、或いは三分の一の提供
 2.労働力と燃料を自己負担して栽培する
 3.代償として賦役は免除され、労働に対しては砂糖売却後の代金を地租を引き支払う
・工場の製品は全て買い上げられ、代金が支払われる

・強制栽培の結果
 →農民に栽培経験無しで反対が多発、指揮と監督を要する
 1833年には土地面積を基準とするものから労働人口の四分の一を基準とする制度へと変更
 1838年には集団契約による強制へ移行
 1848-50年に飢饉が発生し暴動に発展した

・セレベス(スラウェシ)、スラバヤ、中国からの奴隷的移民に頼る
・輸出量は増加した(表)→略


1854-1879…自由栽培制への過渡期

 1854年、新統治法制定
   ・私企業との自由契約に基づく栽培への転換
   ・総督の土地売却、土地貸借禁止→ただし、長期の貸与が可能

 1863年、集団的労働栽培契約の禁止
 1870年、土地法、砂糖法制定
   ・1890年までに政府直営農場の廃止、強制栽培制の廃止が決定
   ・1872年労働関係法、サボタージュに対する警察権力の介入
 
   ・砂糖の委託販売制の廃止

・(表二)輸出総額の変化 →略


・労働者の状況
 ・村落社会解体により析出された労働者の利用
 ・賃金は前貸しであり、それによって刑法的隷属関係を生じた
 ・警察権力の利用による労働者確保

2.展望
 ジャワにおける砂糖業の研究については、①東インド会社の経営構造、②オランダ植民政府の政治構造、③ジャワにおける伝統的土地関係、④ジャワにおける製糖技術⑤中国人の移民の問題、に関する研究が不可欠であろう。
 ①~③に関しては工場を支えた土着民との関係を探る上で、④、⑤に関しては工場の生産形態を知る上で重要であると考える。これらの把握には、近年の研究が有効に活用できるだろう。

 なお、『糖業より見たる広域経済の研究』「ジャワの糖業」の第二章以降は1870年代以降、1940年代までを細かく取り扱っている。また、第三篇「比律賓の糖業」は1850年代以降の状況を扱っている。機会が有れば、こちらも取り上げていきたいと考える。

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周正慶『中国糖業的発展与社会生活研究』第2章から(やぶ)

2007-06-04 14:25:27 | 砂糖からみる東ユーラシア

 大学院の演習でわたしは上記の第二章第二節を取り上げて発表することになっているが、演習の時間内ではあまり触れられないであろう第一節の内容について、要点をここで紹介したいと思う。
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第一節 16世紀中葉以前糖業歴史的簡要回顧
(16世紀中葉以前における糖業の歴史の簡要な解雇)

この著書は16世紀中葉~1930年代の糖業を主軸として構成されているが、第二章第一節では、16世紀中葉以前の糖業の発展の歴史を「粗糖期」・「砂糖期」・「糖霜期」の3段階に分けて簡要な説明をしている。

一、 粗糖期
 周代から唐代初期までの時期に相当する。糖業製作技術は基本的に粗い加工をしており、甘蔗の使用は糖汁を搾り取ることを主な目的としていた。その生産品には蔗汁・石蜜・蔗飴などがあった。保存や流通が難しかったため、自分たちが消費するために作っていた。
(一) 粗糖の生産品の食用
1.糖汁を搾る
中国は甘蔗栽培が最も早くから行われていた国のひとつで、紀元前766~750年には開始されていたという見解をもつ学者もいる。戦国時代には、長江中下流域では甘蔗が栽培され、汁を搾って飲用にしていた。それは貴族の宴席で用いられる上流階級のものだった。甘蔗汁は唐代以前には既に長江流域・江南地域の人々に用いられていた。
2.甘蔗の生食
唐代以前においては、甘蔗の生食は比較的よく見られる食べ方だった。4世紀には、中国南部と長江流域の人々は祖先祭祀のときに甘蔗を生食する風俗があった。
3.飴の製作と食用
古代において言われる糖飴は、搾り取った糖汁を日に晒すか火で煮るかして濃度を高めた糖液のことである。三国時代にはやはり高級な食品だった。
4.石蜜
甘蔗汁を煮つめて日に曝し、水分を飛ばした後に冷却して固化したもので、赤褐色になる。南北朝時代までずっと中国南部で好まれていた。
5.砂糖
唐代以前の砂糖と言われるものは干して固まった紅糖で、石蜜と基本的には同類である。前漢時代にインドからもたらされた粗糖のかたまりが容易に砂状の粉末に打ち砕くことができたので砂糖と呼ばれた。
(二) 粗糖期における糖業の生産の特徴
1.甘蔗栽培と粗糖製作は地域自給性の消費を主としている
  唐代初期以前には、甘蔗の保存と糖製品の運輸が困難だったため、甘蔗の栽培と粗糖製品の加工は、基本的には「地産地消」であった。
2.甘蔗栽培と粗糖製作の範囲は比較的広範である
  唐代初期以前には甘蔗栽培と粗糖の利用は、嶺南の広西・広東から江南までの広大な地域、長江中下流域の湖北・湖南地域、黄河流域の河南地域に及び、小規模な生産が広範に存在していた。
3.南部の甘蔗栽培は北部より一般的である
  南部には既に規模の大きな甘蔗栽培の状況が出現していたが、北部ではなお稀少なもので、権力者だけが食べることができた。

二、 砂糖期
 7世紀の唐初から12世紀に王灼が『糖霜譜』を撰するまでの約500年間に相当する。砂糖の出現と製作はこの時期の生産力の水準に最もよく代表される。
(一) 砂糖の定義
   唐初以前とそれ以降では、「砂糖」という言葉は異なる概念をもっている。唐朝の糖がそれ以前と異なる点は、糖を製作するときに灰を加えて結晶糖を得るという進歩をしたことである。インドからもたらされた方法によって、砂状の結晶体である紅糖が作り出された。この糖には、潮解しにくい・保存に耐える・軽い・運輸に都合が良い・色が白く上質であるなどの特徴があった。ある学者は唐代に既に白糖が出現していたというが、唐代に言う「白糖」は、比較的上質で比較的白い砂糖に過ぎない。
(二) 砂糖期における糖業の生産の特徴
1.甘蔗栽培地区が相対的に集中している
  唐代の史料によると、甘蔗栽培の主要な分布は次のような地域となる。第一は西南地区で、重要な甘蔗栽培地区であるだけでなく重要な製糖の中心地でもあった。第二の江南地区も、当時の比較的重要な甘蔗栽培地区だった。第三は長江中下流域で、第四は嶺南である。甘蔗栽培地域は既に、粗糖期の黄河流域から、長江中下流域および南部の地域のみに収縮したと推測できる。
2.糖業生産基地がより少ない
  甘蔗栽培は長江以南にひとしく分布しているが、砂糖期における大規模な糖業の生産基地は西南だけである。また、糖の生産地と消費地が分離する状況が出現してきた。
3.糖業の生産品の種類は砂糖が多数を占め、使用上は医薬用を主とする
  唐代から南宋の時期までの蔗糖の生産量は比較的少なく、民衆にとっては稀少なものだった。この時期、医書には砂糖は薬品として多く見られるが、それを除いては民衆生活に糖が用いられる様子の記述は少ない。この時期の砂糖は、糖業の生産の中で最も多い品種が生産され、民衆が糖を用いるのは治病を主とした。

三、 糖霜期
(一) 糖霜の定義
  北宋時代に用いられたのをはじめとし、南宋の王灼が『糖霜譜』に総括した製糖技術を経て製作された、脱水結晶という特徴をもつ糖である。甕の中で煮つめた糖液の中に竹片を挿入し、自然に結晶が成長して、細くて細かい霜のような結晶糖になる。軽くて乾燥している・変質しにくい・保存に耐えるなどの特徴をもつ。
  明代に入り、16世紀中葉の嘉靖年間には、白糖の発明という画期が起きる。糖霜期は、南宋紹興年間から明代嘉靖年間までの約400年間に相当する。
(二) 糖霜期における糖業の生産の特徴
1.より多く大規模な糖業の生産基地が形成されるようになる
  糖霜の生産は、南宋紹興年間以降たいへん速く全国に広まっていき、福州・寧波・広州・広漢・遂寧などが全国の著名な糖霜の産地となる。四川省遂寧の涪江流域には、専ら甘蔗を植え糖を搾って利益をなす「糖霜戸」が現れた。宋代に甘蔗栽培は江南地方の多くの地域にさらに増加していった。
2.蔗糖の生産量は前代より大きな増加があった
  宋元時代には、糖業は以前よりも比較的大きな発展があった。蔗糖の医学的な価値が前代より性格に認識された。広大な産糖区では蔗糖は既に珍しい食品として民衆の家に進入しはじめ、節句の食品にも用いられた。生産と消費は前代よりも増していったが、一方、非産糖区では蔗糖の消費にはまだ限りがあったため、宋元時代の蔗糖業に非常に高い評価を下すということはできない。
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以上が、第二章第一節の要点となる。
重要なことは、現代の日本人である我々が思い浮かべる「砂糖」の概念のまま、こういった中国語の文献を読んではならないということだ。文中に出てくる糖の種類はどれも甘蔗の搾汁を利用して作られるもので、「紅糖」「糖霜(氷砂糖)」も広義の「(日本人にとっての)砂糖」に含むことはできるだろう。さらに、16世紀中葉に発明される「白糖」と呼ばれるものは、現代の日本人にとっての「白砂糖」に近づいていると思われる。しかし、この文献についても日本の文献についても、それぞれの糖の定義や種類をきちんと整理してからでないと何とも言い難い。
第二節では、「白糖」の発明という画期を迎える16世紀中葉以降の糖生産と原料の甘蔗栽培の内容に移っていく。それについては演習での発表でお聞きいただきたい。

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「砂糖問屋」の実態(ST)

2007-06-04 14:22:02 | 砂糖からみる東ユーラシア
 前回の授業で八百啓介氏による論文(「18世紀後半の長崎貿易における盈物砂糖の流通」 『九州史学 第121号』九州史学研究会 1998.8)を取り上げた際に、「長崎貿易によって日本にもたらされた砂糖はその後どうなるのか?」という新たな問題が出てきたので、今回はそのことに関連して、特に「砂糖問屋」にスポットを当ててレポートを書きたいと思う。
しかし、その前にまず日本国内での砂糖の流れをここでもう一度確認しておきたい。

 前回も述べたように、外国糖は、まず長崎で輸入された後、大坂へ回送され、国産糖と同じく蔵屋敷、砂糖問屋あるいは唐薬問屋に水揚された。砂糖の水揚は、南は道頓堀の北側、北は長堀の南側、西は西浜の左側、東は西横堀の西側だけに限られた。その他の場所で水揚すれば抜荷として品物は没収される。砂糖が大坂に到着すると、総年寄が取り調べ、同心調役の立会改済みの上で取引が可能であった。もしこの改を受けないで取引することがあれば、これもまた抜荷として没収される。
当初は官許の仲買がなかったので、問屋は売買勝手次第であったが、のちに仲買と契約して問屋は大荷を遠国へ輸送しないことを契約するようになった。遠国商人が大坂問屋に仕入に来れば、問屋は故意に値段を高くし、または品不足を理由として取引をしなかった。   
問屋仲買間の取引には証書を用いることはなく、算盤上で値段を決め、双方が手を打って証拠とした。荷物を引き取ったとき、代金の九分を現金で支払い、残額(一分)は節季金となる。
その後、仲買は問屋から入荷した砂糖を地方へ販売し、人々は砂糖を手に入れていた。

このような流れで江戸時代の人々は砂糖を得ていたと考えられる。ではこれらのことを踏まえた上で、今回のレポートのテーマである「砂糖問屋」の実態について見ていきたいと思う。今回私が取り上げるのは江戸の砂糖問屋であった河内屋孫左衛門の例である。
河内屋孫左衛門は天明二年江戸新和泉町に開業し、明治十三年に閉店した砂糖問屋であり、大坂の仲買から砂糖を仕入れる仕入問屋であった。人口が多い江戸では、当然砂糖の需要も多く、仲買取扱量の約4割が江戸へ回送されたと考えられており、比較的資金力のあった孫左衛門の店は繁盛していたと想像することができる。彼の店では主人のほかに、店内、見世店の役方として蔵出入役、田舎役、薬種世話役などを置いており、蔵出入役の職務としては、支配人と連絡を取りつつ、商品の蔵出入を行い、毎月二度、蔵出入割取帳を附合せ、支配人とともに荷物在り高を照合して品切れの有無を確かめた上、仕込みの判断を行う、などがある。
商売方法としては、河内屋孫左衛門店は小売及び卸売を行い、即金取引の見世商内と掛売を行っていた。越後屋が始めた「薄利多売、限銀懸値なし」の販売方式は一般に普及し、小売商の全盛を招いたから河内屋の小売販売も相当行われたと推定される。掛売は江戸掛と田舎掛とに区別され、江戸掛の取引先は主として砂糖卸商、小売商、大口消費者である菓子商であった。販売は、客方が店へ出向いてかけあいし、相対で買物する場合と、手代が見本箱を携えて得意先を廻り、注文をとる場合とがあった。田舎掛は江戸市内以外の地を田舎役が廻って注文をとるものであり、取引先は遠くは仙台、常陸、下総、上総、安房国に多く、城下町や宿場町だけでなく、漁村にも販売されていたという。

以上のことから、江戸期における砂糖の流通には仲買、砂糖問屋、またそこで働く従業員など、多くの人が関わっていたことを確認できた。このことから、江戸期における砂糖の需要は、私がこれまで考えていたよりもずっと多かったと感じることができた。

[参考文献・引用文献]
・ 中川清「江戸期の長崎と砂糖」(『季刊 糖業資報 164号』製糖工業会 2004)
・ 新井敦子「江戸の砂糖問屋~河内屋孫左衛門の場合~」(『史論 第9集』東京女子大学 史学研究室 1961)
・ 八百啓介「18世紀後半の長崎貿易における盈物砂糖の流通」(『九州史学 第121号』九州史学研究会 1998.8)
・ 石井良助「砂糖問屋、砂糖仲買のこと」(『旬刊 時の司法 第577号』法令普及会 1966)
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ヨーロッパとアジア市場における中国砂糖の品質

2007-06-04 14:20:10 | 砂糖からみる東ユーラシア
(V)ヨーロッパとアジア市場における中国砂糖の品質

クリスチャン・ダニエルス氏の
『中国の科学と文明』における砂糖に関する著作は、東ユーラシアの製糖業を観る上で、第一級の研究文献です。そのなかの一節を、試みに訳してみました。
ペンネームは「甘ちゃん」

ヨーロッパ市場の質的な需要を満たすべく製糖において中国人はいかなる影響を及ぼしたのだろうか。その状況を評価する一つの方法は、価格が品質について示唆している消費という点で中国の砂糖の価格とヨーロッパ市場における他の砂糖の価格を比較することである。グラマンは1630年代のアムステルダム市場における砂糖価格に関するデータを集め、そしてそれは中国の砂糖と比較することでためになるものだ。私は表18を見て東インド砂糖が元々台湾から中国のものだった年だけを含めたグラマンのデータを再整理した。
 表18に載っている中国の砂糖は1624年から1662年までオランダが統治した南台湾の中国人によってつくられたかあるいは中国大陸から輸入し、両方が(中国大陸と台湾)バタビヤ経由でアムステルダムへ運ばれた。私たちは東アジアとヨーロッパの砂糖市場の異なった価格構造を理解していないのでそのデータは示唆的なものと考えることができる唯一のものだ。それにもかかわらず価格の基礎的な部分において中国の氷砂糖は品質の点でヨーロッパで製造されたものよりはるかに劣っていることが明らかである。同じ理由で中国の粉砂糖、恐らくほとんどの白砂糖は西インドからの粗糖と同じ価格で売られたけれどもブラジルの白砂糖より劣っている。中国の等級は多くの積荷の時間がかかるという不利を被り、当然遅れた結果として品質を悪くさせてしまう。バタビアからオランダまでの船旅は中国からの積荷という余計な時間を除いて10ヶ月だけ要する。反対にブラジルのサルバドールからリスボンまでの旅は夏においてできるだけ短くて3日、冬の最も悪い状態においても85日だけである。積荷のときにジャワからの中国の白砂糖は恐らくヨーロッパのプランテーションの白砂糖と品質の条件において等しかった。しかしながら台湾からの中国の氷砂糖は貯蔵期間がふつうの白砂糖より長く、明らかに1630年のヨーロッパで相当する物ほど高く評価されなかった。台湾からの彼らの追放の後、オランダは中国人にジャワの砂糖を生産するように奨励した。グラマンは1683年のバタビアの砂糖はオランダ東インド会社によってはっきりともっとベンガルのものより高く評価された。両者はアムステルダム市場における1ポンドにつき30flという非常に低い価格であるシャムの砂糖を上回った。すべて容認したとしたら。
18世紀の間中国産の砂糖は中国、マニラから伝播し、バタビアはベンガルより優れたものを維持し、市場の大きな部分を占めていた。加えて、グラマンは1680と1709年の間にオランダ東インド会社がヨーロッパ、日本、ペルシャ、スラート、マルバールそしてコロマンデルでジャワの砂糖を製造する中国人向けの販路を確立した。これらの市場は18世紀中頃まで繁栄しつづけた。


<着眼点>
・中国の砂糖の品質は低い分けではないが輸送コストがかかるためアムステルダム市場において低い価格に抑えられてしまう点。
・ただあくまでも価格は品質を評価する一つの材料には過ぎないのではないかという新たな疑問が浮かんだ点。
・ブラジルの砂糖が17世紀初頭において重要な地位を占めていた点。
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KJ法に基づくカードの流れ

2007-05-11 14:04:59 | 砂糖からみる東ユーラシア
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『砂糖について』

2007-05-11 13:40:56 | 砂糖からみる東ユーラシア
目次
Ⅰ.砂糖とは
 1.砂糖の化学的性質
Ⅱ.サトウキビについて
 1.砂糖の原料
 2.サトウキビの原産地
 3.サトウキビの品種
 4.サトウキビの栽培
Ⅲ.ヨーロッパの砂糖
 5.砂糖の製造
 6.砂糖と貿易
 7.砂糖と消費
Ⅳ.地域と砂糖
 1.日本の砂糖
 2.中国の砂糖

Ⅰ.砂糖とは
1.砂糖の化学的性質
 砂糖についての化学的性質を知っておくことが必要である。砂糖は炭水化物(糖質)であり、穀物などのでんぷんを含む食物の仲間である。これらの穀物と砂糖は共に糖類を含むが、その分子の大きさが異なるため、甘みや消化吸収の速度も異なる。
 砂糖の主成分は蔗糖である。蔗糖の甘味度100に対してブドウ糖は64-74、果糖は115-173、乳糖は16、等々であるが、蔗糖は温度に因らず甘味度が一定であり、この点に違いがある。
 人間と砂糖の関わりについて言えば、人間は砂糖を摂取することなく生きることも出来る。なぜならば、糖質は人体に吸収される際にブドウ糖へ分解されるからである。しかし、
砂糖に対する人間の欲求は大きい。これは、その他の哺乳動物でも羊を例外として同様である。砂糖のその他の糖質に対するアドバンテージは、その消化吸収の早さであり、そのことが嗜好と結びついていると考えられる。

Ⅱ.サトウキビについて
1.砂糖の原料
 砂糖は、サトウキビ、甜菜、サトウカエデ、サトウヤシなどの植物から採取可能であるが、人類の歴史上最も古い物はサトウキビである。
 近代的な製糖工業が発展する以前の砂糖は非常に高価で稀少だったため、その他の甘味を利用することが多かった。その他の甘味としてはハチミツや果物が広く知られ、その他日本においては甘葛、甘茶蔓、甘草などが知られていた。

2.サトウキビの原産地
 サトウキビは紀元前15000-8000年頃のニューギニア南部において自生していた種が、マレーシア、インドへと伝わり、インドにおいてサトウキビの絞り汁を煮詰める技術が開発されたという。sugerの語源はsarkkaraであり、ヒンズー語に由来するのである。

3.サトウキビの品種
 サトウキビの品種は地域によって様々に異なる。三つの近縁種を持つサトウキビはその栽培される土壌や栽培法、砂糖の精製技術などによって地域ごとに様々な品種が作出されてきた。たとえば沖縄においては主として細長く硬い工業用と汁気の多く軟らかい食用の二種類のサトウキビ品種があることが知られている。こうした事情は何も日本のみに限るものではないのである。

4.サトウキビの栽培
 サトウキビの生育の最低気温は15度であり、年間降水量は1500-2500程度が適している。また、サトウキビの生長は地域によって異なり、7-24箇月までの差がある。サトウキビの植え付けには茎の一部を浅く地中に埋める「新植法」と刈り取った株から出る新芽を育てる「株出法」の二種が存在する。「株出法」には糖度が下がるという欠点が存在するが、労働力を節約できるという利点が存在する。「新植法」におけるサトウキビの植え付けにおいては根を下にして地面に斜めに埋め込む方法と、水平に埋め込む方法の二種類が存在する。
 サトウキビ栽培は大量の人手が必要とされる。それはサトウキビが収穫後72時間前後で糖度が半減するからであるが、このために商業的なサトウキビ栽培においてはプランテーションが開かれる必要性があった。たとえば、ヨーロッパ人によって16世紀にはカリブ海周辺、南米、などにプランテーションが開かれ、以降インド、東南アジア、ハワイなどへと拡大した。ちなみにハワイのサトウキビは太平洋の航海民の手による移植であり、産業化されたのは19世紀中期のことであった。こうしたプランテーション開発は中国人(華僑)も行っており、台湾や東南アジアのプランテーションを経営した。

Ⅲ.ヨーロッパの砂糖
1.製糖業
 製糖業には多大な労力が必要である事は先にも述べた。多大な労働力は借り入れの時期に多大に投入されるものであり、その仕事は厳しいものであったから、特に熱帯・亜熱帯のサトウキビ栽培に適した地域以外で砂糖産業が隆盛することはなかったが、それでも砂糖の価格の高さはヨーロッパ諸国にとっては魅力的であり、カリブの植民地などでは先住民が死滅し、金鉱が尽きた後に製糖業が導入され、隆盛を誇ることとなった。製糖業は白人プランターとアフリカ人奴隷によって行われた。1790年のジャマイカにおける砂糖プランテーション767カ所は平均面積900エーカー、奴隷数は193であった。また、砂糖プランテーション地域においては奴隷数の60-70%を砂糖プランテーション奴隷が占めた。奴隷の一年間の死亡率は1000人中40人前後であり、極めて高かった。奴隷数の減少を白人経営者はクレオールなどによる補充ではなくさらなる奴隷の輸入によって穴埋めしようとした。こうした大西洋を挟んだ銃・奴隷・砂糖の三角貿易は完成され、イギリスに多大な富をもたらす一方で植民地、支配と被支配の関係をも生み出していったのである。
 さて、精糖方法にはどのようなものなのだろうか。此処では18世紀前後のヨーロッパにおける精糖技術を紹介する。まず、刈り取ったサトウキビは束ねられて農場に付属する工場へと送られる。工場で家畜動力によるローラーの間にキビを通し、搾り取る。絞り汁はそのままであればすぐに発酵するので六連の釜に集め、煮沸しながら苛性アルカリ・石灰を加えて攪拌し、釜を移しつつ不純物の除去を行う。製品としての砂糖には黒砂糖に代表される蜜を含む「含蜜糖」と白砂糖に代表される「分蜜糖」の二種がある。このようにして濃縮された糖汁は、この状況で煮詰めれば含蜜糖となるので、精製のために糖蜜を分離させる必要がある。円錐形の容器を乗せた壷によって蜜を滴らせて分離させる。この蜜を発酵、蒸留させたものがラム酒である。さて、上部の円錐容器に残留したものを粗糖と呼び、これを冷却し、樽詰めして、本国へと送出するのである。本国における精糖はまず均質な品質になるように混ぜられて、再溶解される。この糖液にウシの血を加えて透明にさせ、最後にフェルトで濾し出す。こうして出来た糖液は更に火に掛けて濃縮される。これを円錐形の容器に入れて蜜を分離させて、固形の砂糖を取得する。これを棒糖、ないし帽糖と呼ぶ。これが製品として出荷されるのである。
 こうした大量の労働力を必要とする精糖方法は十九世紀に工業化の流れを受けて飛躍的な進歩を遂げることとなる。まず、粗糖は樽ではなく、麻袋で運搬されるようになった。粗糖の純度を高めるため、蜜を添加する行程が加わった。真空容器内での減圧下で低温で結晶化するようにして結晶化過程を高速化した。こうした結晶化過程の高速化には、角砂糖を生産する遠心分離器や分蜜機の真空引きなども利用された。また、砂糖はその白さが特徴であるが、サトウキビの絞り汁が着色するのは不純物のコロイドが原因である。この漂白方法はいくつかの方法があった。前述の牛の血と卵白を加えるのもその方法の一つである。また、硫酸と石灰を加える方法もあった。十九世紀中に新たに加わったのは骨炭法と炭酸法である。骨炭法と呼ばれる方法は乾溜した家畜の骨を濾過器に用いる方法であり、糖液にリン酸カルシウムを作用させるものであった。骨炭は利用後に灼熱化することで再利用が可能であった。炭酸法は石灰汁を加えた糖液に二酸化炭素を吹き込んで沈殿を生じせしめ、濾過する方法である。このような新技術の他に蒸気機関を利用した各工程の労働力の機械化によって近代的な製糖業へと変化していった。
 
2.砂糖と貿易
 前述の如く砂糖貿易は環大西洋の三角貿易の中心に位置し、同時に砂糖という国際競争力を持つ貿易無しにイギリス資本主義の発展はあり得ず、従って砂糖はイギリスに置ける資本主義の発達を促したと言っても過言ではないだろう。こうした砂糖による富の形成はイギリスのみ為らずフランス、スペイン、ポルトガルも同じであった。
 ヨーロッパにおける大西洋を巡る砂糖の貿易には帆船が利用されたわけであるが、この帆船は奴隷船と同じものであったのだろうか?帆船に積まれる粗糖は人間よりも大きな樽詰めであり、また、重量物であったので船底に積載された。
 砂糖業はこのようにして環大西洋地域において隆盛を誇ったが、やがて1700年代にはカリブ諸島において奴隷反乱が頻発し、1780年にはイギリスで奴隷制が廃止となり、さらに1840年代にはカリブ海地域にサトウキビに対する病気が発生するなどの打撃を被ってサトウキビの生産は停滞することになった。

3.砂糖と消費
 砂糖はどのような目的で消費されたのだろうか。近代以前、砂糖が稀少だった時代には、砂糖は王侯貴族の顕示的消費の対象として扱われた。白い砂糖を利用した精巧な模型が貴族の食卓をにぎわすなどしていた。こうした砂糖文化は地中海を巡る砂糖生産・流通の輪の中で形成され、砂糖利用の文化や技術はこうした地中海貿易の中で伝播した。食文化として甘い菓子は多くがオスマン=トルコからもたらされた。一例としてはコーヒーなどが挙げられるだろうか。こうしてヨーロッパに伝播した砂糖は主として王侯貴族文化の華やかなパリやウィーンといった都市で菓子の製造が根付いていったのである。
 一方で庶民における砂糖の利用はどうだったのだろうか。砂糖生産の副産物と言えるシロップを利用した果実の砂糖漬け、蒸留酒としてのラム酒などはイギリスにおける庶民文化に組み込まれた。庶民における砂糖の利用は砂糖工業の成熟、価格の低下によってもたらされた。17.18世紀以降のイギリス商業の東方への拡大はコーヒー、カカオ、紅茶という新たな飲料をヨーロッパにもたらし、これらの飲料の中で新大陸の産物であった砂糖は大量に利用されることになった。こうした砂糖の大量利用はカリブ産砂糖を中心とするイギリスの食文化であり、その他、ドイツ、フランスなどの有力で大規模な砂糖を産出する植民地を有しない諸国家においては、砂糖の庶民階級への広汎な普及は19世紀中の甜菜糖の生産とその精製技術の進歩を待たねばならなかった。19世紀に大量の砂糖が供給されるようになると価格の下落に伴って、又工場労働を通しての甘い飲み物の需要と共に庶民生活の中に欠かせないものになってゆくのであった。
 現在の砂糖消費はどのような形態になっているのだろうか。統計的データの収集は今後の課題としたい。 

Ⅳ.地域と砂糖
1.日本での砂糖
 日本における砂糖は遣唐使によってインド産のものが中国からもたらされたものを初めとした。行基によって将来された砂糖は薬として用いられ、一般的な嗜好品としての用途からは懸け離れていると言える。時代は下るが鎌倉期の『沙石集』に題を取る狂言「附子」の桶の中身も砂糖であった。このように砂糖は日本においては非常に貴重なものであった。砂糖に代わる甘味として日本にあったのは甘葛、甘草、甘茶蔓などがあり、これらも貴重であり、庶民の手には届くことがなかった。
 日本において砂糖が一般に普及し始めるのは安土桃山・江戸期以降のことである。まず、宣教師たちによる洋菓子の紹介が存在した。たとえば長崎名物として知られるカステラなどはカスティリヤ(スペインの古名)を語源とし、製法も洋菓子のアレンジであるという。日本の甘味として知られる茶菓子の甘味化も江戸時代の頃であった。それ以前の茶菓子は椎茸や昆布と言ったものの乾物が主流だったのである。砂糖の普及には長崎貿易や琉球貿易を中心として国外から砂糖がもたらされると共に、国内でも吉宗期に台湾産の砂糖との対抗上に国産が奨励されて、奄美、南九州、四国などでの栽培が行われた事に由来する。四国高松の「和三盆」などもこの時期のものである。また、琉球をめぐる貿易の中で砂糖は島津藩に多大な利益をもたらしたが、この中で琉球は日本に対して黒砂糖を輸出し、白糖・氷砂糖を輸入するという従属的な立場におかれた。
 近代にはいると日清戦争を経て台湾は日本の領有下になり、砂糖の価格が下がって国民の中に砂糖が普及することとなった。戦争後、台湾を失った日本は砂糖不足に悩まされたが、現在では世界有数の砂糖消費量を誇っている。余談ながら、日本の製菓会社の社長には佐賀県出身者が多いという。その関連か九州は砂糖王国の異名を持つそうである。一例に江崎グリコ、森永乳業が挙げられるが、何れも戦前の起業であり、本社は大阪である。


2.中国での砂糖
 中国での砂糖利用は唐代にも遡るが、商業的な栽培が行われたのは宋代以降のことであり、長江以南の地域において行われた。長江以南に発達した製糖業は、しかしながらヨーロッパのような大規模なものとはならなかったようである。中国における砂糖製品として特徴的なのは氷砂糖があげられるだろう。これは糖液の中から砂糖の結晶を析出させる方法で採取されるものであり、この方法によって生産された氷砂糖は高価なものとして販売されたという。
 現代中国料理において甘味類は多類に及ぶ。こうした中国における甘味は伝統的には『養生録』などの医書に「補食」として挙げられていたものである。中国における砂糖の利用としては妊婦の産後の肥立ちのためであるなどの一種の療養食、薬としての効果が期待されていたのである。
 中国におけるサトウキビ栽培は前述の如く長江以南を中心として展開し、栽培地は主として湖南、広東、四川に集中していた。十六世紀からは、台湾を中心とした精糖も盛んとなり、オランダや日本の台湾領有に大きく影響を与えた。その他、サトウキビ産地としては雲南が挙げられる。雲南のサトウキビ栽培においては山地の上部を利用して居るとも言い、こうした土地利用は人民共和国成立以降の農業事情とも関連していると見られるが、サトウキビ生産が大量の水を必要とするとはいえ、高温多雨の地域においては天水による栽培が可能であると言うことを示唆するものでもあるだろう。


 
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砂糖について

2007-05-10 21:29:01 | 砂糖からみる東ユーラシア
ペンネーム: 甘ちゃん
〇砂糖の原料
  Ⅰ 砂糖
 砂糖は炭水化物の一種にあたる化合物である。それはほとんどすべての緑色植物に含まれているため多様な植物から抽出することができる。植物は二酸化炭素と水から光合成によってこれをつくり、砂糖(蔗糖)は生物の化学組織の基本的特徴となっている。
 砂糖とは1)人間の生活に不可欠なもの2)戦乱のような時代でなければ廉価に使用できる可能性のあるもの3)2)とは反対に薬として役立ち、高価であったものである。
Ⅱ サトウキビ(甘蔗)
 サトウキビは植物学上、イネ科オガルカヤ族サトウキビ属に属する熱帯性草本である。また、サトウキビは熱帯および亜熱帯でしか栽培できない。サトウキビの甘い汁液は持ち運びに不便で一夜放置すると酸っぱくなり、飲用に適さなくなる欠点がある。16世紀から17世紀にかけて、「新世界」での甘蔗糖生産が発展し、砂糖の食品としての重要性、普遍性が増してきた。
Ⅲ ビート(砂糖大根)
 熱帯に植民地を持っていないヨーロッパの国々ではサトウキビ以外の植物から砂糖を作ることに尽力する。しかし、ビート糖の大量生産が実現するのは19世紀である。
 〇製糖技術史の変遷
 製糖の工程のほとんどはきわめて歴史の古いものである。基礎的な製糖の技術は古い。実際、サトウキビから砂糖をつくるといっても、液体凝固の繰り返しで過熱と冷却を繰り返すことである。砂糖史に一貫して言えることは加熱装置や燃料に投資して適温をいかに保つかである。
 人類として砂糖を初めて作ったとされるインド人は、甘蔗汁を土鍋に入れ、木片などを燃やした直火煮詰め、放冷すると汁液が固化し、貯蔵性が大きくなることを発見した。これがグルと呼ばれる含蜜糖で、現在でもインドで約800万トンが生産されている。
 グルの作製に際し、サトウキビから糖汁を搾出するためにインドで2000年前に考案された装置は臼と杵を組み合わせた一種の圧搾機である。
 臼と杵の相互作用により、甘蔗は圧縮、せん断、衝撃などの外力を加えられ、搾出された汁液は臼の底部の孔から流出する。この装置により、甘蔗は単には破砕されるだけでなく搾汁もされる。
 〇砂糖の生産と消費
   Ⅰ 生産
17世紀以降、新世界での砂糖生産が軌道にのり、世界各国での砂糖の取引が盛んになり、さらに19世紀初めにビート糖が創製されて砂糖の世界商品としての性格が強くなった。
   Ⅱ 消費
人類がはじめてサトウキビとその甘い汁液を知ったのは、何万年も前のニューギニアやインドネシアにおいてである。ニューギニアを発祥の地とするサトウキビが、何千年も前の昔からアジアの熱帯地方の人々により生食の対象とされた。


参考文献
糖業協会編『糖業技術史 : 原初より近代まで 』丸善プラネット 2003
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