トンファンさんの先にエントリーしている記事「やめられない、とまらない……」は、なかなか切実なものがありますね。本は家を壊します。私の知人は、下宿の床を本の重さで抜いてしまいました。別の知人は、ダンボールに入れた本を運ぼうとして、ギックリ腰になりました。私の母は、その父親が蔵書家、結婚した夫が本好き、そして息子が本を買わなければならない職業ということで、一生、自分が読みもしない本と格闘する人生だったわけで、しばしばその運命を嘆いています。
私の読書歴は、子どものときで終わったようにも思われます。父が読書家だったため、自分で本を選ぶよりも先に、面白い本を見つけてくれました。そのため、選書眼が養われなかったのでしょう。
子どものころには児童文学をいろいろ読みましたが、肌に合った作品は、結局、すべてイギリス人が書いたものでした。
なかでも今の私の知性を形作っているものは、『ナルニア国物語』シリーズ、『ドリトル先生』シリーズ、『ツバメ号とアマゾン号』シリーズです。『ナ』は私が歴史に興味を持つようになったきっかけを与えたシリーズです。特に、シリーズ第1巻の『ライオンの魔女』で、雪の森の中に立つガスの街灯がなぜそこにあるのか、そのなぞが『魔術師のおい』で解き明かされたときの衝撃は、いまでも忘れられません。キリスト教の歴史観に基づく物語で、そのガス灯は、聖地イェルサレムのイメージなのでしょう。これが契機となり、時間の層を貫く場所、という問題に眼を開かされました。私が中国史を研究していても、常に村落や都市、森、海、港といった場所にこだわるのも、その起点は『ナ』シリーズにあります。
『ド』シリーズは、回顧的に見ると、『トラが語る中国史』の原点となっています。
『ツ』シリーズは、私のフィールドワークへのあこがれの原点です。このシリーズで、テントを張ったり野宿をしたり、冒険をしたりということに憧れを持ち、大学に入ったときに山登りのサークルに入った動機につながりました。山歩きが嵩じて、中国でのフィールドワークに発展していきました。
いま思うと、小学校のときに読んでいた本の範囲から、いまも一歩も出ていないようですね。
その後にもいろいろと本を読みましたが、これらのシリーズで味わった感動をもう一度、といった感じで探していたようで、それは感動した本もありましたが、子どものころのようなときめきを覚えることはありませんでした。
それならば自分でそんな本を書いてみよう、と、これまでも文章を連ねてきましたが、やはり目的には到達できませんね……。
新鮮な感動をもちながら本を読めるトンファンさんは、私にはとても輝いて見えます。
これからも、本の紹介をよろしく。
うずまき
私の読書歴は、子どものときで終わったようにも思われます。父が読書家だったため、自分で本を選ぶよりも先に、面白い本を見つけてくれました。そのため、選書眼が養われなかったのでしょう。
子どものころには児童文学をいろいろ読みましたが、肌に合った作品は、結局、すべてイギリス人が書いたものでした。
なかでも今の私の知性を形作っているものは、『ナルニア国物語』シリーズ、『ドリトル先生』シリーズ、『ツバメ号とアマゾン号』シリーズです。『ナ』は私が歴史に興味を持つようになったきっかけを与えたシリーズです。特に、シリーズ第1巻の『ライオンの魔女』で、雪の森の中に立つガスの街灯がなぜそこにあるのか、そのなぞが『魔術師のおい』で解き明かされたときの衝撃は、いまでも忘れられません。キリスト教の歴史観に基づく物語で、そのガス灯は、聖地イェルサレムのイメージなのでしょう。これが契機となり、時間の層を貫く場所、という問題に眼を開かされました。私が中国史を研究していても、常に村落や都市、森、海、港といった場所にこだわるのも、その起点は『ナ』シリーズにあります。
『ド』シリーズは、回顧的に見ると、『トラが語る中国史』の原点となっています。
『ツ』シリーズは、私のフィールドワークへのあこがれの原点です。このシリーズで、テントを張ったり野宿をしたり、冒険をしたりということに憧れを持ち、大学に入ったときに山登りのサークルに入った動機につながりました。山歩きが嵩じて、中国でのフィールドワークに発展していきました。
いま思うと、小学校のときに読んでいた本の範囲から、いまも一歩も出ていないようですね。
その後にもいろいろと本を読みましたが、これらのシリーズで味わった感動をもう一度、といった感じで探していたようで、それは感動した本もありましたが、子どものころのようなときめきを覚えることはありませんでした。
それならば自分でそんな本を書いてみよう、と、これまでも文章を連ねてきましたが、やはり目的には到達できませんね……。
新鮮な感動をもちながら本を読めるトンファンさんは、私にはとても輝いて見えます。
これからも、本の紹介をよろしく。
うずまき