
『痛み』のクァク・キョンテク監督さんの記事より^^

釜山(プサン)の医大生から映画監督まで
クァク・キョンテクの本来進路は医師であった。
お父さんといとこ、家婿まで周辺の人が皆医師であった。
彼も医師でこそご飯暮らすものと思った。
6・25戦争の時38度線を越えられたお父さんやはり戦争再発の恐れの中に、息子に”チョンジェントンエも医師は殺さなかったよ“コ話した。
彼は高3の時確認した‘文科成績優秀’適性を確認しても高神(コシン)大医大で進学した。 彼はどのように医大を止めて映画勉強で背を向けたか?
“医大を通って見たら医師人生が本当に苦しかったよ。
しかめる患者の顔を一生報告肉考えてみなさい。
私は、テレビ広告とることをしたかった。
人生がダイナミックになり、素敵な男女と似合って暮らせるようだし....”彼は1991年アメリカ行きを決行、ニューヨーク大芸術対映画演出課で5年を勉強した。
いつも韓国的であることをとろうと努めた。 卒業作品で断片<詠唱の話>をとる時もそうした。
釜山(プサン)憲兵隊防衛兵で服務する時散髪病から監房看守まであらゆる仕事をした経験を生かした作品だ。
この時も信じる所は釜山(プサン)だけ、チャガルチで軍服と軍隊小道具を買っていってとった。
Q. 卒業後アメリカで活動するつもりはなかったか?
“卒業作品<詠唱の話>は相当な話題であった。
アカデミー賞スチューデント パート受賞を内心期待した。
しかし‘アカデミー’はアメリカ国内映画祭なので外国人は受賞対象ではなかった。
分かってみればアメリカは文化的障壁も高い国だ。
特にエンターテインメントの部分、開かれた市場のようだがとても閉鎖的だ。
社会的身分(永住権、市民権)を解決して仕事をするには壁が高かった。 果敢に、韓国に戻った。”
Q. 映画界縁故もなかったはずなのに助監督経歴なしでどのように監督でデビューしたか?
“1995年<詠唱の話>で第2回ソウル断片映画祭優秀賞を受けて派手な申告式を払った。
初めての商業映画<どしゃ降り汁>道(ド)釜山(プサン)でとった。
ソウルには知っている人、縁故もなかったし助監督も一度してみなかった後れを取った。
幸い評壇と観客に良い反応を得た。 ただ、二番目作品で難関に直面した。
医大を通った経験を基に、直接シナリオと演出を引き受けた<ドクターK>ためだ。
あいにく日本漫画<スーパードクター>きて題名が似たために(風に)悪口も多く入ったし....”

クァク・キョンテク監督は“釜山(プサン)ぐらい良い映画撮影地がない”として“今後も釜山(プサン)で撮影するだろう”と明らかにした。
釜山(プサン)で‘目には目歯には歯’撮影当時の姿(写真:借用犯提供).
Q. デビュー作<どしゃ降り汁>は封切り当時釜山(プサン)で上映しなかったのに?
“そうだ、ソウル劇場4ヶ所なのか封切りして一週間ぶりにおりた。
独立映画感性なので興行に失敗したのだ。 釜山(プサン)では‘息子映画いつ封切りするか’で尋ねる周辺の人うるさくてご両親がたのもし講を出て行かれないほどであった。
お父さんは‘フィルム買って私たちだけでも見よう’でした。 とても恥ずかしかった。
しかたなくある同時上映ある劇場を探していった。 粘り強い要請終わりに、何のPRなしに1週間上映した。 家族的満足に過ぎなかっただろう。”
Q. <どしゃ降り汁> <ドクターK>、全部興行に失敗した。 止めるという考えはしてみなかったか?
“再びシナリオを持っているので分かる兄が‘恥知らずだ。 思わず歩き回りなさい’でしたよ。
人々が失敗の記憶を忘れる時ぐらい歩き回れと。 それでも止まらなかった。
徹底的に耐えることしか出来なかった。 ‘最後’で考えて作ったのが大当たり<友達>であった。”
Q. 11編(便)の作品、どう思うか?
デビュー作<どしゃ降り汁>、その時私が真の勇敢で無謀だったという気がする。
<ドクターK>は残念で申し訳ない作品だ。 持っていた話中一番良い話なのにそれを生かすことができなかった。
<友達>は‘残忍に映画を撮ったよ’という気がして。 <雑種の犬>は俳優チョン・ウソンにとても有難い映画だ。
<台風>は死ぬ思いの峠を渡しながら必死にとった映画なのでまだ濃い愛情が残っていて。
<愛>は初めてのメロージャンルをとって大変だった自分自身を思い出すようにする映画だ。
その時俳優の感情を引き出すために苦労したことを考えればまだひどく気味悪くする。”
映画<痛み>で正統メロー挑戦
彼は<ドクターK>の失敗を後にして2001年<友達>で派手に復活する。
<友達>、彼の代表的興行作という点と共に、'クァク・キョンテク スタイル'の出発点という意味がある。
彼のイメージは主に'男性映画',または'釜山の男映画'だ。 彼は線の太くて強い映画をたくさん作ったのだ。
その‘釜山の男’が正統メロー<痛み>(2011年9月)を製作した。
<痛み>はその特有の暗い色彩を維持するものの男女主人公の調和がとれた比重と正統メローが引き立って見える作品だ。
その間有名な米俳優と多くの作業をしたあげくもうクォン・サンウを選択した。
“クォン・サンウとは一度作業しなければならないと考えた。 より多くの物を持っている俳優だと思ったし、私が演出した作品のうち最高の俳優と考える。
女主演チョン・リョウォンやはり習えとの職業を感謝するようにここは性格きれいな演技者だよ。
演技が上手で気さくさすら感じて満足だった。”その<痛み>やはり興行成績は良くなかった。
秋夕(チュソク)の時封切りしたが、家族と共に名節を楽しむ題名には良くなかったせいだ。
幸い日本で3ヶ月を上映、体面を助けた場合だ。

釜山(プサン)で映画<台風>貨物船シーン撮影中クァク・キョンテク監督と俳優チャン・ドンゴンが演技に対して話している(写真:借用犯提供).
映画<嫌いなカモ子>、“私の20台入れた”
Q. 20台時期を入れた自伝的映画<嫌いなカモ子>が話題であった。 <詠唱の話>を拡張させた作品だといったのに?
“合う。 <詠唱の話>は私が映画版に入ってこれるようにいとぐちを開いた映画だ。
それで機会になればこの映画を必ず長編映画で作ってみたかった。
事実<嫌いなカモ子>は色々な投資社でひじ鉄砲を食らった。
結局出てきてすべてのスタッフの人件費を投資して作った。
<友達>以後観客層を広げるためにシナリオを整えて現実と妥協してくることもした。
今回は本当に私がしたい話、見せてあげたいただ一場面のために全く妥協しなかった。”
<嫌いなカモ子>は彼の20台時期を回想して作った映画だ。
1987年民主化抗争が熱かった時期6ヶ月防衛、いわゆる'六房'の話を入れた。
軍隊で‘六房’の存在は部隊のあらゆる雑用を引き受ける雑兵. 映画は社会的に紛らわしかったその時、‘六房’という特殊な状況に置かれた主人公を通じて、当時や今も大変な時代を生きていきつつあるすべての<嫌いなカモ子>野原の力強い発足を愉快に描き出した。
Q. <嫌いなカモ子>に新人俳優を起用した。 <友達>チャン・ドンゴン、<雑種の犬>チョン・ウソン、<愛>チュ・ジンモを考えれば破格的キャスティングだ。 特に演技者オーディション プログラム<奇跡のオーディション>(SBS、2011年)’を通じて‘発見’するキム・ジュング、精鋭陣が熱演をしたというのに...?
“監督ならば誰でもの図に上塗りするよりは、白い紙に新しい何かを描きたい欲望がある。
<奇跡のオーディション>で彼らを見てそのような欲望が活気だよ。
キム・ジュングは最も難しいというコメディと正劇を自由に駆使した。
精鋭陣はシナリオの中のキャラクターを完ぺきに表現した。 本当に上手にする選択だ。”
Q. ‘奇跡のオーディション’で毒舌家で名声が高かった。 メントロソ若い世代にしたい激励or叱責の話だったか?
"愛情があるからであるようだ。
映画界がどれくらい大変なところなのか? 最小限の鎧は着せて送りだしたい。
若い友達が夢は本当に多い、しかしその夢をかなえるために甘受しなければならない部分に対する覚悟は弱い。
今‘88万ウォン世代’、あまり荷が重い時期だ。 その大変な時期、先輩世代もみな体験して克服した。
そのような考えを伝えようと、ひっくり返して表現した部分が多い。“

釜山(プサン)は韓国映画中心都市で跳躍して、世界の中良いブランドイメージを育てていっている。
写真は釜山(プサン)大学校で映画‘台風’クランクインした日。
左側から俳優キム・ガプス、チョン・ボソク、イ・ジョンジェ、クァク・キョンテク監督(写真:借用犯提供).
Q. 生きていって普段やりがいを感じる時はいつか?
"この前作品作業を終えて経済的に本当に大変な時期の話だ。
タクシーに乗ったところ記事分が私を調べてみたよ。
‘映画全部、よく見た。 とても感謝する’で励まされて、タクシー代6000ウォンを受けないとしたよ。
ただ私の映画好きな方がたまにあることだと思う、情を入れて励ますファン会えば本当に力が出る。
“彼は<台風>のために経済的困難に苦しめられる時、Eメール一通を受けた。
海軍士官学校学生が自分の高校生の時<台風>を報告して軍将校なる決心をしたという理由だ。
気持ちがとても良くて会ってご飯も食べてする間を維持する。
映画一本がある人生の座標だったということ、本当に幸せなことだ。
Q. 生まれ変わっても映画監督をしそうなのか?
"当然だ。 出た映画で金を儲けることができなくてもそのまま映画作る仕事がとても良い。
どうせ人生は夢のように生きることではないのか。
色々な人の人生を映画を通じて考察して描写すること、人より豊かな人生だと考える。“
彼はずっと果てしなく謙虚な姿勢と声を維持したが、この部分ではものすごい確信を堂々と表わした。
久しぶりに長い記事読んだよ(^-^;
クァク・キョンテク監督の言葉・・
>クォン・サンウとは一度作業しなければならないと考えた。 より多くの物を持っている俳優だと思ったし、私が演出した作品のうち最高の俳優と考える。
嬉しいよね^^
サンウも頑張った甲斐があった~~

2012年のインタビューでこんなことも話されてたね・・
>「クォン・サンウが演技以外の面で人々に低く評価されているのが非常に残念だ」
>「演技以外の理由でクォン・サンウが心を痛めて疲れている姿を何度も見たので、とても残念に思う。
だが、個人的には本当に立派な俳優だと思っている。
もう一度チャンスがあるなら一緒に仕事をして、ヒットする作品を作ってみたい」
ほんと。。。
演技してるサンウは素晴らしいのに・・・
他事で色々だね・・・

監督さん~~~ぜひまた共作を~~~~

そういえば・・最初『귀수(鬼手)』の監督にクァク・キョンテク監督さんの名前もあったのに・・
いつの間にかリゴン監督さんだけになってたね・・

どうなってたんだろう。。

お母さんもインフルエンザになって心配でしたよね。
点滴をしてもらって、少し元気になって良かったです
chamiさんもお疲れの事と思います。
身体休めをしっかりとれると良いんですが( ^ω^)・・・
お大事にしてください
「痛み」痛みを感じない演技の中での演技サンウだからこそ出来た作品だと思います
今回の「鬼手」でも監督されていると思ってとっても楽しみにしていたんですが・・・
どうしたんでしょう
TSUTAYA推理の女王情報ありがというございます
無くなる前に、今日行ってきます
ありがとうごじゃいます~^^
やれやれで・・(^^;
一時はどうなるかと心配しましたが・・
注射のおかげもあるかな・
軽く済んでよかったです^^
記事嬉しいですね~^^
サンウも読んでるかな
そそ・・
サンウだからこそ演じられた部分もありますよね
それまでとは全然違うサンウの姿・・
興行成績はイマイチだったけど・・
誰が見ても感動・・
今回も監督さんの名前があったのに・・どうなったのか・・??
はい~~ゲットしてきてくださいね
久しぶりにサンウが載ってて嬉しいですね