観賞?観照?感想?

ヴィデオ(V)と本(B)とライヴ(L)とときどきCD、たまに映画について書きます。

お知らせ

2005年09月03日 09時48分10秒 | ヴィデオ
都合により別のブログへ移ります。今後ともよろしくお願いします。

http://blog.so-net.ne.jp/deportees

(V)『あらくれ』(1957年 成瀬巳喜男)

2005年08月31日 07時29分46秒 | ヴィデオ
大正という時代の中で、普通の妻として生きられない女性が(最初の結婚は普通の妻だったのだが失敗)懸命に生きていくという話だが、確かに言いたいことを言い、暴力に訴えるという性質(家の中で水を撒くシーンはよかった)はあるものの、ひとりで肩肘を張って生きていくという風情ではなく、流れに身を任せていたら結果こうなったというところが面白い。

それが最後になって、店を出て行く決意をするにあたり、彼女の意志はこれからもくじけることはないだろうと思わせるほど強くなっているのが、雨の降る中を傘をさして歩いていく後姿に見てとれた。

大正時代の世の中の流れを並行して見せてくれたらもっとよかったのに。

(B)『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(梯久美子著)

2005年08月30日 07時30分35秒 | 
太平洋戦争中、硫黄島を守ることを命じられた総指揮官栗林忠道の伝記。
伝記といっても、硫黄島へ赴き、果てるまでに絞られているが、逆にそこに絞ったため、彼の戦略分析が立派なリーダーシップ論にも成り得ている。

それにしても、2万人の兵士を見殺しにしたばかりか、栗林の訣別電報及びその末尾にあった辞世の句まで改ざんして発表した大本営にはあきれるしかない。

本土への空襲を少しでも遅らせ、終戦交渉を有利にすすめさせるために勝つ戦ではなく、負けない戦、負けをできるだけ長引かせる戦をした栗林。そのために冷静に状況を判断し、正しいと信じたらたとえ本部の方針に反してもそれを貫き通し、そして自分の考えを末端の部下まで浸透させる。最後の戦訓電報では、大本営の方針-陸軍と海軍の確執-をも批判しているが、それらすべてが、本部に取り上げらなかったため、無駄になってしまったのは悲しい。

昭和60年に、硫黄島で戦った日米兵士が一緒に集う名誉の再会が初めて開かれたという。
再会の意味は戦争は二度としてはならないという強烈なメッセージなのに、それも無駄にしてしまうのか。

そういえば、クリント・イーストウッドが硫黄島の映画を撮ると言っていたのを思い出した。おそらくディア・ハンターのような作品を作りたいのではと思うが、栗林は米国での方が賞賛されているそうなので、彼についてはきちんと描いてくれると思うが、日本軍にバンザイ突撃なんかさせるシーンがあったら許さないぞ。さらにイーストウッドは日本人の監督を起用して、日本の立場から描いた作品も制作するそうだが、その際は何をおいてもこの本を原作とすべきだ。

この本は、戦後60年たったからこそここまで書けたともいえる。
取材した著者は、妻の死には間に合わなかったが、長男、次女には会って話しを聞けたことを考えると本当に最後のタイミングだった。

栗林忠道をこれから心の師と仰ぎたい。

(V)『驟雨』(1956年 成瀬巳喜男)

2005年08月29日 07時22分40秒 | ヴィデオ
タイトルからすると、シリアスな物語かと思ったが、都会に住む夫婦の日常を描くどちらかと言えばコメディタッチの作品だった。

夫婦どおしでお互いに違うことを延々としゃべっていたり、犬の問題を話し合うために集まったはずなのにお互いの迷惑の言い合いに発展していったり、ラストでは庭に落ちた紙風船を拾うはずが、夫婦の力をこめた打ち合いになってしまったり、どの話も拡散していく一方だ。

成瀬の映画のパターンとして、もう一つ、やはりこの映画でも男性の性格がよくわからない。(主人公と隣の主人)こちらもふわふわしてつかみどころがないまま拡散していくような印象がある。

家の中で夫婦が話しをしているシーンが多いのだが、その間じゅうピアノの音楽が鳴っているところがユニーク。これだけ全編にわたって音楽が入っているのも珍しい。それはまるで近所の騒音のようでもあるし、タイトルにあるにわか雨をイメージしているとも言える。

(V)『浮雲』(1955年 成瀬巳喜男)

2005年08月26日 07時38分20秒 | ヴィデオ
大人の映画だ。この映画のエッセンスは、神代辰巳なんかに引き継がれているように思えた。

終戦後の町のセットなど、お金をかけて作って丁寧に作っていることがわかるが、家の中の暗く奥行きが深い画面と、主役の高峰のうつむき加減の低い声で話す感じがとてもあっている。
移動している場所の説明が省略されているあたりは、皆が知っている話(ベストセラー?)の映画化だったのかなと思うが、説明過剰でない脚本が良い。

南の国で始まり、南へ戻っていく話だからか、テーマ音楽がエキゾチックな旋律なのが、面白い。その音楽(斎藤一郎)も含めて、カメラ、セットとこの辺り何作か一緒に作っている成瀬組の仕事、ここに極まれり、という感じか。

(B)『会社はだれのものか』(岩井克人著)

2005年08月25日 07時32分03秒 | 
前作『会社はこれからどうなるのか』は、平易に書かれていたがそこで展開される論理は、何年も熟考した末生み出されたという類のものだった。だから続編のようなこの本の出版にまず奇異な感じを受けたが、フジテレビとライブドアの事件を踏まえて書かずにはいられないというところが動機だったようだ。そういう意味では新たな部分には乏しいかもしれないが、改めて著者の考えた方をおさらいするには格好の本である。

両社の事件については、片方は株主主権ばかり見ていてもう片方は従業員あってこその会社という見方をしていて、そこにズレがあったという解説だが、畢竟株主主権論は間違っているからライブドアは所期の目的を達せられなかったということだろう。
しかし、マスコミの無理解も含めて、著者の目的は事件の批判にあるのではなく、これからの会社がどうあるべきかについて地道に語っていくということなのだ。

中でも特に感心したのは、CSR(会社の社会的責任)をブランド価値を向上させるというような長期的な会社価値向上のためのものと位置付けるのはまちがいであるとしたところだ。リターンを期待しての社会貢献ってやっぱり変だ。
それと、対談の中での原丈人という人が、長年米国の会社に勤務しながら、米国流の株主主権論は間違いだと断じているところも面白い。

先日のワールドの非公開化は今後の有り方としてエポックメイキングな事件だと思うのだが、そんな流れができてしまうと商売あがったりのところが多いので、あまり大きく報道されていないような気がする。

Quinka, with a yawn/朝日美穂/トルネード竜巻@下北沢Que(8/23/2005)

2005年08月24日 08時21分34秒 | ライヴ
歌というかコーラスというか声というか、そういうものを堪能したライヴだった。

〈Quinka, with a yawn〉
URCのカヴァーアルバムでこの人の歌う高田渡の「コーヒーブルース」を聴いた時、その声のやわらかさとゆったりとした演奏がとてもよかったので、いつかライヴを見たいと思っていて、それが実現したのだが、なんと最初の曲はそのコーヒーブルースだった。コーラスというかツインヴォーカルとでも言った方が正確な感じがするが、CDの印象そのままで、その不思議な世界に引き込まれた。つづいてやった何曲かも不思議な感じの曲が多かったが、前面にでている二人の歌がどれも気持ちよかった。

〈朝日美穂〉
一人でやっているので、コーラスなんてことはないが(サンプリングでコーラスを入れている曲もあったが)、ヴォーカルとキーボードのバランスがすごくよくて、声がいつになく透き通って聴こえた。これは一つ前のミニアルバム『HOLIDAY』の音だ。そんなこと当たり前なのだけれど、声が主役だと言いたい。弾き語りのステージ裁きは貫禄すら漂っていた。新曲と思われるJerry Lee Lewisのロックンロールみたいな曲が面白かったし、ウラのリズムで続けて歌われたHoliday~雨上がりの午後がすごくよかった。
トモフスキーに続いてSOS(サウンドオブ下北沢)のCDを発売するとのこと。これは楽しみ。

〈トルネード竜巻〉
このバンドもライヴを見たかったのだが、念願叶う。
想像以上にサイケな音を出していた。キーボードの人が曲も作り、バンドの主導権を握っているという印象が強くて、ヴォーカルの影が薄いのではと思っていたが、意外とパンチのきいた歌で存在感があった。ゲストでコーラスが加わっていたが、よく聞こえなかったのが残念。あともう2,3曲はやってほしかった。
出演者のうち、このバンドのみメジャーの会社からCDを出しているが、このイベントはバンド主導で企画されているらしく、業界臭みたいなものがなくすごく気持ちよかった。

(V)『晩菊』(1954年 成瀬巳喜男)

2005年08月23日 07時38分50秒 | ヴィデオ
かつての芸者仲間だった人たちのその後を描いた作品で、杉村春子が中心かと思われたが、望月優子(いい味だしてた)と細川ちか子にも応分にスポットはあたり、最後のそれぞれの夜が同時進行していくというカットバックは長距離走の最後の直線コースを切り返しでみせているようにも思え面白かった。

杉村は、大切にしていた思い出の男性にも失望し、やはり金もうけに生きるしかないと思い定めたということなのだろうが、最後まで気丈な姿を持ちつづけるところに哀しさを感じさせる。(これは杉村の代表作の一本ではないか。)
一方、子供たちが巣立ってしまった二人の女性は笑っていても淋しそうで、これからもいろいろなことがあるだろうが、やっぱり人生は続いていくということなのだ。

この時代の成瀬は『おかあさん』とかこの作品とか、男性に重要な役がない作品のほうが、まとまっているような気がするのだが、どうだろうか。

(V)『山の音』(1954年 成瀬巳喜男)

2005年08月22日 07時27分09秒 | ヴィデオ
夫婦ふたりの配役は『めし』の再現だが、二人はずっとすれ違ったままで、妻と義理の父の関係が主題となる。
『めし』でも姪が鼻血をだして、それを看病する場面に危険な関係への入り口がちょっと垣間見られたが、この映画でも原節子が早朝鼻血を出す場面があって、それに気づいていたわるのは早起きしている義理の父であり、そこにやはりその先へ進むかもしれないという萌芽があった。

夫が妻に対して棘のある言葉ばかり吐いてしまうのは、妻の父に対する愛情を感じとっての行動と見るのは考えすぎのような気もするが、夫は女と別れ、妻は離婚を決意し、結局何もしていないのは父親だけだ。しかし成瀬は、その優柔不断さにこそ加担しているように見える。最後の広々として空間には荒涼としたものが漂っている。

(V)『おかあさん』(1952年 成瀬巳喜男)

2005年08月19日 07時31分21秒 | ヴィデオ
周りに悪意の在る人がでてくる訳ではないので、家族の悲惨さがよけいに際立つが、田中絹代の辛抱強そうなたたずまいがすべてのはねのけてしまうように見える。
それと時間処理の不自然さ--長男が死んで、夫が死んで、使用人もいなくなって結局ひとりでクリーニング店を切り盛りしていくという流れを考えると少なくとも3~4年にわたった話なのだが、季節がいつも春か夏のようだったり、子供が全然成長しない--が非難の的になりそうだが、私は香川京子の明るさも含めて、不思議と暗くなっていかないこの家庭の描き方を支持したい。

主人公の娘がやっている今川焼きの旗が、アイスキャンディに変わるところに季節感があったが、小津の『一人息子』のとんかつ屋の旗を思い出した。