Ad novam sationem tecum

風のように日々生きられたら

テレビが来た日。

2011-09-11 00:23:30 | 日々の徒然


今日は、
野音のDVDを見ながら

いろんなことを
考えました。

今、DISC1の途中まで
見ました。


私という人間として、

この
日本という国に
生まれて、

エレファントカシマシというバンドの
宮本浩次という人に出会えて

本当に良かった

思います。


いろんなことを
考えた中で

ふと
思ったことを、

ここに書いてみます。


今日我が家に来たテレビも
以前
父が勤めていた
会社の商品です。

父は、
単身赴任の期間が
長くて、

別々に暮らしていた
時期が
とても長くて

でも、
今は
一緒に暮らせていて、

私は、
漸く
父という人が
どういう人なのか

少しずつ
わかってきたような気がしています。


性格的には
真面目で
不器用で

あ、
でも

手先は器用です。

昔は
夏休みの自由工作を
手伝ってもらい・・・
というか
ほとんど作ってもらったりも
していたなぁ

と思い出します。


私も

やっと
会社というところに

契約社員ではありますが

勤めるようになって、

会社って
こういうところなんだ。。。

ということを
思ったり。


母に
昔、
なぜ、
父は単身赴任が多いのか

ということを
尋ねたことがあります。


父は、
仕事において、

とある分野で

日本でも
かなり指折りの人物であり、

日本の各地の支社の
建て直しに奔走していて、

それが仕事なのだから
仕方がない、
というような

話でした。


最後は、
ずっと

関東にいたな。。。

と思い出していました。


私は、

政治のことも、

経済のことも

わかりませんが、

今まで
経験してきたことの中から

わかることも
少しだけあります。


例えば、

以前、
アルバイトしていたお店では、

駅の構内にパネルを設置
していたのですが、

(コンコースなどで見かける
中に照明の入った広告パネルですね。)

その金額が
たしか、一月\6,5000くらいだったと
記憶しています。


今は、
新しい駅舎になっているから
もう少し高いのかな。。。

私は、そのとき
「高っ!」と思いました。


でも、
それを見て、
お客さんが
来てくれる可能性、
そして、
実際来てくれたという実績を踏まえて

店はそこにお金を
かけているのだと思います。

震災後、

自粛と節電のため
そういう
パネルは
消えているところが

多かった

思います。

店側が
通常通り、
広告費として
算出したか、

パネルの広告業者が
(もしくは建物の管理者)
負担したか

それは
わかりませんが

パネルが消えていることによって
意図するところの
客の入りも見込めなくなりますし、

さらに、
少なくとも
店側か業者かが
この広告費分は

確実に
減収となるでしょう。

つまり、
その分は、

確実に
マイナスです。

そういうパネルが

この日本全体で
どれだけあるでしょうか。

経費のうちの
広告費のひとつを
とっても

それだけの損害が
あるのだと
思います。


さらに、
震災後、

しばらくは、

不謹慎という理由で
CMがACのCMに
とって変られました。

CMという広告費にかかる
費用は、

駅のコンコースのパネルの広告費の
どれだけ倍をすれば
いいのか

わかりませんし、

同じように
考えられるのかも
わかりませんが

コンコースパネルの応用として
可能性としては
考えられることは
ある

のではないかと
思うわけです。



広告費
ひとつをとっても
そうです。


日本の企業の
損失は、
計り知れないのではないかと
思うのです。



どうして、
コンコースのパネルの話を
したかというと、

私が
上京した際

ついこの間の
夏も

空港の広告パネルは
ほとんど
消えていたからです。

そして、
一方、

私は、
帰りの地下鉄の
キヲスクにある

新聞の見出しに掲げられていた
ソニーの一件で

その損害を
考えながら、

思うところが
ありました。


私は、

以前、
父の勤める会社が
大きな損害を受けたときの話を

父が
たまに話してくれたのを
聞いて

覚えているのですが、


今回のソニーの一件は
起こっている事象は
多少違えど、

あのとき
父の勤めていた
会社が
損害を受けたときと

同じように
思えました。


その国は、

一方で
震災の支援をし、
まるで、日本という国の
救世主まではいかなくても
それに近いもののように思われながらも、

一方では、
決して手を緩めない。

手を緩めるどころか

追撃をしていく。


私は、
思い出していました。

父の勤める会社が

多くのものを
手離さなければならなかった

そのときのことを
父が話してくれたことを。


その国のやり方は、
それが
その国を中心とする
世界のルールだとしても、

聞いていると

それは
憤りを覚えざるを得ない
ものでした。



でも、
それが、
世界のルールなのだから

仕方のないことなのかもしれません。

そして、
覚えておかなければならないのは、

その世界のルールの中に
日本もいるのであって、

それは、
日本で震災という出来事があったからといって
手加減されるものでは
ないということ。

それは、
覚えておかなければ
ならない


私は、

思いました。


その国が、
“情報”という分野に関して

日本より
格段に発達している
ということは、
周知の事実ですが、

それは、
力を持つものが
情報を操ることができる、

という
太古からの歴史的事実を見ても
当然のことのように思われました。

要するに

“情報”を操ることが
“上手”なのだと思います。

日本より格段に。


このところ
起きている
ありえない数々の
出来事に

ひそかに
危惧を抱いています。


震災後の
東電を巡る情報の混乱ばかりが
クローズアップされ

政府の無能さが
強調されるようなことばかりが
とりあげられ、
(実際そうなのかもしれませんが)

国民の気持ちが
政府への批判ばかりとなってしまい、

日本という国を一緒に復興していくという方向、
すなわち
国民の気持ちがその力を発動するための政府とともにある
というところへ
なかなか向わなかったこと。


閣僚の不用意な発言は
後を絶たず、

そのことに
怒りを覚えると同時に

それは、
政府への批判、
すなわち
その人物を指名した
首相への責任問題へと
つながり、

それは
当然のごとく
その首相への不信感となり、

政府の政策を滞らせる
結果になった。


“何故そんな人物が”
という疑問が
どんな人の心にも
生じたはずなのに、

それが
おかしいという部分を
素直に
考える前に
そうなってしまった。


ひとつ、

例をとりあげてみても、

前内閣の
某復興相が被災地で
行った言動。

そして、
その人は、
「自分は九州の人間ですから」
と言った。

普通言うかな
そんなこと

と私は、
正直
そのときに
思いました。

国民の
九州に
対する不信感が
募りました。


国民の目は
次に
九州へ向う。


九州には、
もうすぐ再開しようとしている
原発がある。

首相のストレステスト発言がある。

やらせメール騒動がある。

メディアは
それを書き立てる。


原発は
再開をとりやめる。


日本は経済的な
打撃を被る。


その後、
新しい内閣が
誕生する。


国の心が
ひとつに
まとまろうとしている。

また
閣僚のありえない発言が起こる。


同日に、
管制塔の職員が

機密情報を
ブログに掲載するという

ありえない事件が起こる。


簡単に
これまでのことを
羅列してみました。



ありえない。


ありえない。

ありえないことばかり。

ありえなさすぎじゃないか
と。

そう、
思ったのです。


ここで、

考えてみました。


日本の経済が
弱って、

得をするのは、
誰なのか。

日本という国が
弱って

得をするのは
誰なのか。


弱ったその末路に
あるものを

虎視眈々と狙っているのは
誰なのかと。


少なくとも
日本国民が

得をすることは
何もない。

確かに、
政府の無能さや
原発に取って代わる
代替エネルギーが必要だ
ということが

事実としてあり、

問題を解決に導くには
なかなか難しいことではあると思う。


けれど、

あまりにも
おかしなことばかりがおこり、

あまりにも
先に進まなすぎじゃないか

ということばかり起こるので、

少し
勘繰りたくもなるのだ。


すごく飛躍した
勝手な想像ですが、

とても“情報操作が得意”な国が
メディアを操作している、
とか

ですね。




今回の震災における復興は
第2次世界大戦の敗戦後の
日本の復興を例に挙げて
考えられるときが多いので、


日本が戦争に
負けたときのことを

考えてみた。


日本という国に
最終的に

原爆という
壊滅的な被害を与えることで

敗戦へと導き、

その後
民主主義による統治という
名目で、

何食わぬ顔で
日本と
長く“友好”関係を結び続けてきた国。



それは、
“友好”
なのか
安保闘争時代に言われたように
“奴隷化”
なのか。


それは、
不勉強の私には
わからないけれど。


でも、

私の心の中では、
日本という国は
こうあるべきだ
という想いは
強くあるし、

その国の
“情報操作の上手さ”
は実感するところがある。


例えば、
ストレステストの一件に対する騒動が
どうして
ああまでこじれてしまったのか。

もし、
その国の大統領だったら
うまく切り抜けたのではないかな

想像してみたりする。

やらせメール騒動も
同様。

自社の権益を守るためならば
ああいった行動は必然のことだし、

それが公共事業の一環であるなら
尚更、国のためだ、
とか云々言って
切り抜けたりして。


「やらせ」なんて
一言も言わせないやりかたで
終わらせてそうな気がする。


少なくとも
同じ国民同士で
揚げ足を取り合って
全てのことが駄目になる
ようなことには

ならなかったのではないか
と思う。

(企業の隠蔽体質や
その他是正されるべきところは
是正されるべきであって
その問題は、また別に論じるとしても。)


その国にとって見れば、
日本の国の情報を操作しようと思えば、
いくらだってできるのかもしれない。

日本国民の生真面目さと
メディアの浅はかさと
政治家のプライドを

利用して。


徹底的に
日本という国を国民を分析して
可能性を考えて、

そうやって
冷静に遂行すれば

赤子の手をひねるより
やさしいのかもしれない。


わからないですけど。


念のため書いておきますが
これは、
私の勝手な想像ですし、

でも、
そうだったら
怖いなぁ

と思ったりも
するのです。


でも、
その国を中心とした
世界のルールは
そういった
厳しさの中にあり、

日本が
その中にいることは

確かだ。

もっと、
外に目を向けなくては

日本が駄目になってしまうような気がする。


情報というのは、
多面的な性質を持っているが故に

とある一面的なものだと思い込んでしまうと
なかなか、もうひとつの側面に気づきにくいということも
あるかもしれない。


例えば、

日本で起きた震災のことを
大々的にとりあげた記事は、

日本が壊滅的な被害を受けたということを

全世界に大々的に知らしめる記事にも
なるということを

私たちは、
覚えておくべきだと思うし、

また、
日本の経済が弱っていくことで、

日本に対して経済的な支援が必要だということを
呼びかける記事は、

日本が経済的に他国からの支援を必要としなければ
ならない状況であるということを

世界に知らしめる記事ともなるだろう。



情報操作は、

それを受け取る側が
本当は
いくつかあるべき選択肢を
ひとつに
絞ってしまう

あるいは、

とある側には
ある側面を、

とある側には
別の側面を認識させてしまうところに
その怖さがある。


だから、
人は、
それぞれの目で

真実の眼を持って

まっすぐに
事実と向き合わなければ
ならない。

そのためには、

ひとつの情報を
多角的に見て、
その中にある
いくつもの可能性から
真実を見極めなければならないし、


いくつもの
自分なりの真実に
裏打ちされた

現象たる事実を
蓄積していかなければ
ならない

と思う。


考えることは、
人それぞれで

私が、
今回ここに書いたことも

一個人として
考えた
ひとつの可能性に
すぎないけれども、

それぞれが、

各個人の心の中で

はっきりとした
真実を自分の信念に据え

その信念に基づいた
言動を行ってかなければ
ならないと思う。


そうして、
私が

はっきりと
思うことは、

些末なことに囚われず、

被災地を復興していくことが必要だと
思うことと、

日本の経済を立て直していくことが
必要だということ。

そして、

それを
日本の国民が
ひとつになって

信じて、


その力を発動する政府を支えて
実行させなければならない
ということだと
思う。

ただ、それだけだと
思う。

些末な情報に惑わされずに

それを
物事の本質に関わらせないように
していかなければならないと思う。


かつて、
角川源義が
角川文庫創刊の辞に

こう述べている。

「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、
私たち若い文化力の敗北であった。
私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、
単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した」

  (角川文庫巻末 「角川文庫発刊に際して」)


文化と情報が
置き換えられるのか

どうなのか。

わからないけれど、

その言葉をしみじみと思い出す
夜だった。


では、
今日は、

この辺りで。


おやすみなさい。


また、明日。