Ad novam sationem tecum

風のように日々生きられたら

世を宇治山と人は言ふなり。

2011-09-11 09:24:01 | 日々の徒然


おはようございます。


昨日は、
夜遅くに、

つまらないことを

長々と
書いてしまって

失礼致しました。


御蔭さまで
寝覚めが
大変わるいです。。。


ああ。
後悔してる。。。かな?

いや、
いいです。

本当に
思ったことだったし

書いておこうかなと
思ったので。。。


昨日書いたような
その大国対して

本当にその国が
情報操作を
行っているんだ!

なんて
そう思っているわけでは
ないですが


でも
そういう可能性は
もしかしたら
あるかもしれないし、

少なくとも、
そういう可能性が存在するほどに、

日本という国は
世界の中の厳しいルールの中で
生きていかなくてはならないことは

確かなのではないかと
思うのです。


その大国だけでなく、

震災以後、
領海侵犯についての
事件もあったし、

日本は、
さまざまな国に
囲まれていて

その中を生き延びなければ
ならないということを

忘れてはならないと
思う。

今は、
全ての日本人が、


その、それぞれの持てる力を
最大限に生かして、

全ての方面に気を配り

日本をもう一度
再生させていかなくては

ならないと
思うのです。



例えば、

昨日話したコンコースのパネルの話だと、

単に、
節電のために
照明を暗くして
マイナスの減収を
ただ指を加えて見て置くのと、

照明を灯して、
通常通り、
利益を確保し、

そのうちの半分を
被災地支援に当てるのと

どちらがいいか

考える選択肢は
あると思うのです。

原発の問題も、

原発が恐ろしいものだということは

日本国民の
ほとんど全てがわかった。

原発は
将来的には

廃止する方向に
進めなくては
いけない。

そうしたら、
どういうことが
必要なのか。


代替エネルギーが
必要だ。


そのことを火急に
考えなければいけないし、

今まで、
国の要請を是認して
原発を自分たちの住む町に置くことを認め、
原発産業に協力をせざるを得なかった地域の方々に

国が間違っていたことを認めて謝罪し、
方向転換しなければならない。

そして、
一方で、

今、
現在、

原発に取って代わって
生み出すエネルギーを
そっくりそのまま取り替えることのできる
大きなエネルギーが

日本には
ないという事実があって、


(本当に
そうなのかどうなのかわからないけれども、

今の日本ではそういう考えが国民に浸透しているように
思う。)


でも、
この間にも

日本は経済的に
どんどん弱くなっているという事実。

そうしたときに、
どうすべきか。

ひとまずは、
原発を再開したほうが
いいのか、

いや、
それでは

今までの流れを考えて
そのまま原発が残っていく流れに
なってしまうから

再開はやっぱり駄目だ、
という意見もあるかと
思うけれども、

でも、

そういう議論をしている暇にも、
日本は
どんどん弱っていくという意見もあるだろう。


そうしたら、

原発を制限付きで再開させて
その運用と将来を
厳しく監視することが
国民の勤めなのでは

ないかと
思ったりもする。

再開するならば
地理的条件を踏まえて
一番安全なところは
どこなのか。

この時期において、
その危険性を
十分把握しつつ

それでも
経済の復興のために
それを受け入れてくれる地域は
どこなのか、

などなど。


そういう

考えなければならないことは

山ほどあるわけで、


ひとまず、
日本国民が

一丸となって、

その問題について
純粋に
考え、

少しでも、
先に
問題を解決する方向へ
進めなければならないのに

なかなか先へと
進まない。


些末な問題に
関わりすぎているような気がする。

メディアは、
閣僚の不用意な発言を取り上げ、

そのことを追求することばかりをやっているけれども、

そのことよりも
他に
調べ、伝えなければならないことが
たくさんあるのではないか。

国民に政府の不信感を植え付けるよりも先に

日本という国を前進させるために、
やるべきことがあるのではないだろうかと

思ったりするのです。

今のジャーナリストは、
自分で調べるということを
しなくなったのかもしれないという
危惧が心をよぎる。

現象を伝えるのみ、

わからないことは、
その分野の専門の人に聞くことは
大切だけれども、

その専門家の意見が
正しいとは限らない。

自分の意見がないから
それがわからない。

そして、
世の中で
知識人として、

その意見をメディアで
述べている人たちの
その知識の薄っぺらさは

見ていて
目に余るものがある。


私は、
仕事に出かけて
職場で
お昼ごはんの時に

一緒に作業してくださっている方々が
熱心に見ている番組があると聞いて、

その番組を見てみましたが、

時折、
新聞でも
見かける、

いわゆる「知識人」なのだろう。


そういう「知識人」が
司会をしながら

話をしながら
先へ進める
という番組だった。


その回は、
宗教について、

日本人の知らない宗教の事実、
とかなんとか
という話で、


ゲストに、
その宗教を文化の一部として
生きてこられた国の方も
いたわけだけれども、

その国の方は
何もしやべらずに
ほとんど聞いているだけで、

そのいわゆる「知識人」が
自分の考え(なのかどうなのかしらないけれど)
をずっと喋っていて、

それが、たぶん
その番組の構造なのだから
仕方がないのだろうけれども、

その中には、
私でもわかるような
間違いがあったりもして、

でも、
スタジオの人達は、

それを神妙な顔つきで
うんうんと
頷きながら
聞いているという

とても不思議な番組でした。

ゲストで呼ばれていた
国の人は

どういう風に
思ったかな、


これが、
日本人の「知識人」のレベルなんだなぁと
思って聞いているのかと
思うと、

同じ日本人として
顔から火が出るほど
恥ずかしいと思いました。


昔から、
この
「知識人」
という人たちについて、

ちょっと
胡散臭いなぁ

と思ってはいたけれど。


そういう「知識人」
の人達は、

やたらと
自分の書斎かなんかの
たくさんの本棚と一緒に
写真に写りたがって、

あ、それは、
昔の
本当に知識のある人達が
そうやっていたから
(というよりは自然とそうなった)のだと
思うのですが、

その気持ちは
私も良くわかるから
いいのだけれど、

それを生業にしている人達は
それがポーズだけではなくて

実際に
それが
“使われている本棚”
じゃないといけないのだと
思うのですが、

そういう
「知識人」の人達は
やっぱり、
ずらりとその背に
名著を背負って
写真に写っています。

それこそ、
古今東西
多岐に渡った分野の本に
囲まれて
写っている。

そして、
その名著の揃いすぎている、

ハードカバーのずっしりとした
本ばかりの
本棚を見て、

「あ、
この人達、
この本たちをちゃんと読んでいないし、
全く理解できていないんだな」

ということが
よくわかる。

そして、
そういうことが
よくわかるのだということを
知らずに、

そういう
本と一緒に写っている
その厚顔無恥さ
というか。

恥ずかしいし
とても
胡散臭いな、
と思ったことがあります。


そういった
ハードカバーの名著というのは、

全集もそうだけれど、
いわば
その著作者の集大成みたいなものですよね。

その全集に辿り着く前に、

人と話したり、

雑誌に意見を書いてみたり、

論文を書いてみたり、

そうやって、
研鑽を重ねて

辿り着いたものなのです。

それは、
論文ひとつ読んで、

それを
心底理解しようとしたときに

それが
偉大な人のものであればあるほど、

理解するために
どれだけの情報が必要なのか、

読むだけで
十数ページの論文にしても
とても、とても時間のかかる作業
です。


これは、
私が、
自分の専門分野で
今まで
勉強を続けてきて

わかったことなのだけれども、

だから、

ひとつの論文集とか、
全集とか、

その人の集大成的な著作とか

読むだけで
とても大変根気のいる作業で

読み終えたとしても
きちんと理解できているかどうか

疑わしいくらいの。

読む、
理解する
というのは

そういうことだと
思うのですが、


その本を
何十冊と並べて

しかも
たくさんの専門分野に渡って、

それを
読んだかのように

ね。

普通に考えて、

ちゃんと
読んでないだろうな、

と思います。



おそらく、
その人たちは、

その著作をしるした人たちが
研鑽の末に積み上げた

もっとも
綺麗な

薄澄みのような部分だけ
とりだして、

わかった
つもり、

読んだつもり、

になっているのでは
ないかな
と思いました。


難しい本を
わかりやすく

たくさんの人に
伝えることは

とても
大切だけれども、

それが
間違っていたら
意味がない。


そして、
間違っていないと言いきれるだけ、
その人は、
その本を
読んでいないな


思うのです。

そういうのが
今の
「知識人」のレベル
だと
私は感じました。


つい先の大戦の後、
安保闘争時代の

丸山真男氏や、

今も、
その言葉を
時折お見かけする、

吉本隆明氏や

立場は違えど、

自らの思想を持って、
日本の思想を担っていた人達
とは、

全く質が違うと
私は
思うのです。

だから、
無闇やたらに

「知識人」
と呼ばれる人達を

信じてはいけない。


政治家も含め

質は
格段に
落ちているのは、

周知の事実で、

そういう状況の中

そういう人たちに
思想や政治を任せながら

日本を再生してかなければならないのだと
覚悟を決めたほうが
いいのだと
思う。


ただ、

あの頃と違って
国民は、
自由に情報を手にすることができる。


その情報を選択するのは
個々の力量に
委ねられているからこそ、

国民の一人一人が
しっかりしなければならない。


例えば、

日本を再生させたい、

被災地を復興したい、

という思いが
同じならば、

自然と
そうするために
どうすることが必要なのか、

前に進むために
おのずと
集まってくる情報は

同じになってくるのでは
ないだろうか。


メディアに踊らされては
いけない。

「知識人」の煽る
恐怖や憤りは

もう、
既に
人々の心の中に
あるはずで、

必要なのは、

それらと
まっすぐに向き合う力。

先に進める力だ。

駄目な政治家は、
駄目だとわかった時点で
すぐに
取り替えたらいい、

次にそういうことが起こっては
いけないし、
起こらなければならないのが、

起こってしまったことは
仕方がないことなのだ。

そこばかりを
追求している時間は、
ない。

その時間を先に進む力に
変えなければならない。

先に進む力に変えるべく
国民が
政府を監視しながらも、

政府を支えていかなければならない。



それぞれで、
行動を起こしている人は
たくさんいる。

一人一人が、

日々の生活と、
それぞれが

できることを
選択肢の中から
慎重に選び、

全力でやっていけば、
きっと
なんとかなるんじゃないかと思うし、

それしか
道は残されていないのだから。


きっと、
そうやって
日本は再生できると
私は、思う。


また、
長々と書いてしまったけれども、

何かが
弱っていくとき、

大切なものが
たくさん切り落とされていく、

戦争に負けたときと同じように
今までの
自分たちのすべてを否定してしまうことに
なってしまうことが多い。

昨日書いた
企業の話もそうだけれど、

日本には
日本の企業のやり方があって

日本は素晴らしいものを
たくさん持っていて、

それが
大国に負けることによって、
それが失われて

大国のそれと同じようになってしまうことや、

それは、我々の普段の生活自体にも
同じことが言えると
思うのだけれど、

ひとつの意見だけが
主流になって

それ以外の
大切な何かが

どんどん失われていくことに
ならないように、


震災が起きたことによって
全てを否定してしまうのではなくて、


日本の素晴らしさを
もう一度
再生させ、


さらには、

以前より、
もっと、もっと
素晴らしい日本に生まれ変わることが
できるように

日本人の全てが
一度
心を無にして
考え直さなければならないし、

たくさんの知恵を出し合わなければ
ならないし、

そこから最善の選択肢を
選ばなければならないのではないかと
思う。


同じ国民同士で
いがみ合っている暇や

些末なことにとらわれる時間があったら

それを前に進めるには
どうしたらいいかについて

考えよう。

日本の周りの状況を
よく見てみよう。


そして、
ひとつの目標に向って
突き進んでいけば
いいと思う。

もっと、
賢く、

もっと
合理的に。

その部分が
日本という国には

必要なのかもしれない

と思う。


また、
長々と書いてしまったけれども、
書き始めたら

止まらなくなってしまった。


もう、
こういうことは
書かないと思います。


私は、
何もわからないし、

でも、
わからないなりに考えることもあって、

最近の日本の状況を
見ていると
不安になって

つい書いてしまったけれども、


本当は、
世を宇治山と言って、

世間とは
離れて
いろいろとやってきた人間なので

そういう人間までが
こうやって
何か書かなければならない
という想いに
なるということは、

やはり
それだけの状況なのかな

と思います。


平和に
いろいろなことが
できる日を

みんなが
幸せに暮らせる日が
くることを願って。


今日も素敵な一日を。