Ad novam sationem tecum

風のように日々生きられたら

つづき。

2012-04-08 19:09:15 | 日々の徒然
高校生になった。


晴れて、
念願の高校に合格した。

私は、

解放された、



わけでは
なかった。



自由になりたかったわけでは
なかった。

そのときは
自由の意味も
わからなかったけれど、


たくさんの
同じ想いを持った仲間と
勉強を頑張りながら

また、これから
自分の夢に向って
歩いていけばよいのだ
と思っていた。

けれど、

それは、
高校に合格して
すぐに
わかった。

私の夢は
叶えられないことが。


私は
行く先を見失った。

そして、
両親は、
中学の頃と同じような
生活を
私に課した。

同じ方法でやればうまくいく
というのが
母の頭にインプットされてしまったらしい。

けれども、
私は、

これからの3年間を思って
途方にくれた。


もう、

どうやって
頑張ればいいのか
わからなかった。

また、同じような三年間を
乗り切ることが
難しく感じられた。

そして、

中学と高校では
やはり
学校という環境そのものも
かなり違っていた。

最初に感じたのは、
塾の雰囲気が
そのまま
学校に移ってきた印象だった。

中学生の頃

塾は楽しいものだった。

だから、
何も問題はないようにも
思えたけれど、

私には、
頑張れるだけの
目標が
なくなってしまっていた。

ただ
いい大学に入れば良い、
ということを
目標にするほど、

私の未来への想いを
単純化することは
できなかった。


よく
進学校の生徒は、
いい大学に入ることだけを
目標にして勉強している
というように思われているかもしれないけれど、

(実際にそういう人も
もしかしたらいるかもしれないけれど)

それは、違うと思う。

少なくとも、
私や、私の周りにいた人達は
違ったと思う。

地方の
一公立高校だったけれど。

いい大学に入る
ということは
ひとつの手段だった。

いい大学に入る、
という単純な理由だけでは


将来へ向け
最善をつくすための努力、

すなわち、
来る日も来る日も
ひたすら勉強するという

ただそれだけのことに
自分の時間の多くを費やすことは
できないし、

乗り越えられないことが
たくさんあると思う。

やっぱり、
楽しいことは
楽しいし、

つい、そちらに流されてしまいそうに
なるものだから。

そういう意味では、
高校時代の同級生のことを
思い出すと、

徹底していたなぁと
思う。

校則もほとんどないような学校だったけれど、
みんなきちんと制服を着て

特に
目立った髪型や格好をする人は
いなかったように
思う。

きっと、学校に来るのに
いろんな服を選んで来る時間は
あまり意味はないと
思ったのか、

そこで自分を主張することが
自分の意味ではないと
思ったのか、

単に興味がなかったのか

人それぞれだけれど、

多くは、
そこにかけるべき時間は
適当ではない

思っていたのだと思う。


かといって、
全く楽しみがない、
というわけではなく、

それぞれにきっと勉強以外の
楽しみを持っていたことだろうと
思うけれど、

学校という場所が、
やはり
勉強をする場所なのだ

ということと

そして、
その勉強というものは
この先の自分の未来への想いを
実現するためにするもので、

そのことが
そのときの
彼らにとって
一番の優先事項なのだ

ということが
あたりまえに
共有された場所だったと
思う。

きっと
いろんなことを楽しみながら
勉強も出来る人は

それができるのであれば
そうやっていただろうし、

それが出来ない人は
ただ、ひたすら努力して
勉強していたし、

そもそも勉強以外に興味がない人も
たしかにいたな。。。



思い出す。


自分なりに楽しみながら
勉強するということは、

私にとっては、高校に入って気付いた
新たな驚きだった。


私の家は
厳しかったので
そもそもあまり
いろいろなことを
やらせてもらえなかったけれど

それでも、
やっぱり、
一生懸命
勉強なら勉強、

そして
部活を精一杯やるだけで
私は
いっぱいいっぱいだったので

思い思いに
好きなことを楽しみながら
勉強もやっている同級生は、
たしかにいて、

そういう人達は
自分とは
全く別の存在のようにも
思えた。

そういう人は、
きっと
自分をきちんとわかっていて
それが
一番、
自分を生かす方法なのだと
知っていたのだと思う。

だから
費やすべきところには、
きちんと時間をかけていたのだろうと
思う。

まぁ
そこまで考えなくても
何かを必死でやるとき

ときに空気穴みたいな
息抜きのようなものが
必要だったんだろうな
とも
思うけれど、

私はあまり
そういうのが
うまくできなかったのかな

と思う。


時間をかけるべきこと、
という話の流れで、

その高校に入って
ひとつ
驚いたことがある。


どの学校にもある
「係決め」の時間。

学校やクラスの維持管理のために
いろんな係や委員を決める時間がある、

そのとき。

全ての係が
立候補により
ものの5分と経たないうちに
決まってしまったことだった。


みんな、

「私がやります。」

と言って
やりたい人が
手を挙げ、

決まったのだった。

その他、
学校にはつきものの
各委員会も

部活動と同じで
自らの希望による自主参加で

人数の少ない委員会もあったけれど
それでも
全ての委員会がきちんと
成立し、

それぞれの委員会が
やりたい人によって、
運営されている

という状態。

今でも
びっくりしたなぁ。。。

思い出す。


みんな
それぞれ想いがあって、

自分が役に立てる場所、

自分が何かに貢献するためには
どうすればいいのか

それが
全ての基準だったのだろうと
思う。


自分は社会のために存在する。



あたりまえに、

ある意味
過剰なまでに、

そういう想いを
背負っていたのだろうと
思う。



それは、
それだけとってしまうと

なんとなく
鼻持ちならないようにも
受け取られてしまうけれど、


自分ができること
自分ができないことを

自分なりに理解し、

自分なりに
何かの役に立ちたい

という想いが

あたりまえにあっただけに
すぎないのだと
思う。

そして、
自分ができないことを
人ができる
ということを知っていたからこそ、

人も
自分と同じように

別の存在でありながら、

その人によって
自分自身が存在することができ、

自分自身もまた
誰か人のために存在している

というのを知ることができる。


私が行った高校は、
そういう場所だった。


そういう環境で、

それまで
私の生き方も

きっとあたりまえに
そうだったから、

まわりで、
自分の未来に向って
頑張る同級生達を見ながら

私は、取り残された気持ちになった。


そして、
ただ
思ったのは、

思い通りにならないことって
あるんだな

と。


できることと
できないことって
あるんだな


思ったのだった。

希望の灯が
消えてしまったのだと
思う。

突然目標を失って

やる気のなくなった私の成績は
どんどん下がっていった。



私は、
何もできないまま
何がしたいかもわからず
ただ、
毎日を過ごすようになった。

自分は
何のためにこうやって
毎日学校に来ているのか
わからないし、

かといって、

このまま、
将来のままならない
役に立たない私は
家から追い出されるようなことに
なるかもしれないと

ひそかに怯えたりもした。

何もできない私は、
どうやって生活していけばいいのかも
わからなかった。

なんとか、もう一度頑張りたいと
思う
自分もいた。

けれど、

できなかった。

そういう自分が嫌になった。

どうにも
ならない

と思った。


ふと気付けば、

死ぬことばかり
考えていた。

行きと
帰りのバスの中、

片道1時間半くらい、

毎日
3時間。

死ぬことばかり
考えていた。


きっと
世の中には

たくさんの不幸を抱えた人たちが
いて、

私よりも
困難な状況にいる人達は
たくさんいるに違いないと

思った。

私は
きっと

幸せだと
思った。


けれど、
私は、

幸せを
感じることが

できないでいた。


毎日が
退屈だった。

何のために生きているか
わからなかった。


でも、
本当は、
ちゃんと生きたいと

思っていた。

中学生の自分の姿を
思い出すたびに

頑張らなければ
と思った。

でも、
どうしたらいいのか
わからなかった。

心の中で
助けを求めていた。


誰か。

誰か。


助けてください。


けれど、

私の
心の声は

誰にも
届かなかった。



あるとき、

家にある
本を手にとった。

夏休みの読書感想文を
書かなければ
ならなかったから。


本は
読むことを許されていた。

でも、
推理小説ばかり
読んでいて

いわゆる
文学作品というものを


自らの意志で
読んだことがなかった。



そこに

同じように
死にたがっている人が
いた。


その人の
想いが

すっと
私の心と重なった。


その人は、

その人の言葉は、


私の周りにいた
誰よりも
説得力を持って

私の心に響いたのだった。


芥川龍之介。


私が手にとった
その人の文章は、

その人が
死ぬ直前に書かれた
ものだった。




彼は、

彼なりの目線で

私に
世の中のしくみを

教えてくれた。


この
ときに
どうにもならない
世界のありさまを

あるときは
皮肉交じりに

あるときは
冷静に

そして
ふと
弱さと

やさしさを見せながら
語ってくれた。



文学。



こういう世界があるのだ


私は、
初めて知った。


もちろん、
今まで

文学というものの存在を
知らなかったわけではない。

そのときの
私は、

初めて
その世界に

本当に触れた気がした。


私の心の中で

たくさんの
想いが
満たされた。

世界の真実が
そこにあった。


フィクションというには
あまりに
身近なものとして

私の目の前に
提示された。

それは

作り上げられた
もうひとつの世界
であって

私達の

現実世界の
断片だった。




綺麗ごとばかりではなく

悲しみと

時に
嫌悪に満ちた

この世界。


けれども、

芥川の描く

その世界は、


とても
美しかった。


世界が
悲しくあると同時に


美しくもあることを
知った。


それは、

私が

知ることを
求めていた

世界だった。


私は

ずっと前から

その世界の
住人のような
気がした。



それは、
周りの人たちには

感じない感覚だろう


私には
思えた。

私は、

もう少しだけ

この世界を

生きていけるような

気がした。


私は、

芥川の生涯に想いを馳せた。

芥川の人生を辿った。


芥川は
36歳で

この世を去っていた。

36歳。

その年齢は
私にとって

特別なものに
なった。


芥川に出会って、

私は
その文学の世界に
遊ぶようになる。


帰り道。

授業中の
静けさの中

窓から見た
外の風景。


一人
夜の暗闇。


いろんな想いを
巡らせた。


その想いは
どこまでも
ひろがって

時間は
あっという間に
過ぎていった。

そして、
自分の感覚について
考えるように
なった。


文学と向き合ったときの
自分を
考えた。

もしかしたら
大丈夫かもしれない

と思った。


文学部。

というのが
私の頭に
浮かんだ。



それは、
誰のためのでもない
自分のためだった。

もっと、
文学に触れてみたい
と思うようになった。

自分で書くというのでは
なかった。

文学に
触れたい。

そこに
何かあるような
気がしていた。


私はまた

ゆっくりと
歩き始めた。


その決意をしたのは、
もう2月を過ぎていた。

大学入試
真っ只中。

私は、
まだ理系にいて

何も勉強せずに受けた大学は
やはり
散々の結果だった。


家からは
追い出されなかった。


両親をとても
失望させてしまったのだけれど、

それでも、
両親は、
高校に附属する予備校のようなところへも
行かせてくれると言った。

文転して
一年間浪人し、

改めて
文学部を受けることにした。

私は、
もう一度人生をやり直す気持ちに
なっていた。

そして、

その間に
古典にもまた、

文学というものの
感覚を見つけた。

古典で感じた感覚は
とても不思議なものだった。


初めて
小林秀雄の文章を読んだのは、
この頃で

予備校の先生が配ったプリントの
抄録だった。


この先生のおかげで、
漢文も良く
読んだなぁ。。。

と思い出す。

そして、
春に
無事、
「家から通える大学」
に合格した。

進級し、
私は、

思案の末

国語学・国文学研究室へ
入ることとする。

大学に入ったのは
自分の好きなことのため
だった。

社会でどんなことに
役立つか

とか

自分の社会における役割というものを
考えたりしなかった。

高校の頃くらい
から

自分と周りの人たちとの
間の
たくさんの違いから

自分と違う他者を
“違うもの”として
見るようになっていた。

高校時代の
同級生の

何も言われずに
自分達のやるべきことが
必ず社会に役に立つと
思っているところとか、

考えると
違和感を
持つようになった。

そうじゃない人、

そう出来ない人も
たくさんいる。

自分は自分と思うようになった。

自分達が社会をリードしていく
という想いを持っている人に
鼻白んだりもした。

大学にも
高校時代の人達は
たくさんいて、

例えば
教職の授業は
何故か全て1限目に割り振られていて

それは、きっと授業を受講するだけで
教職の資格がとれてしまうので
(今は、ボランティアや実習等が必要な模様。)

出欠を朝一の始業時にとって
きちんと授業に出させるという
事務局の思惑なのだろうけれど、

そんなことしなくとも、
きちんと出ている人はきちんと出ているし、

きちんと出ていない人は出ていなくても
代返等で出ていることになってしまうような
(一応出欠カードは配られます)

なんだか聞いているだけで理不尽な状況にも
関わらず、

何も文句も言わず、
真面目な人は真面目に出ていて。

そういえば、
こんな理不尽なことをされても
何の文句も言わない人こそ
教師にふさわしいんだろうな
と思ったりもしていた。

なんだか
きっと同じような人たちが
教師になるんだろうなぁ
と思ったりもした。

何も言わない人達。

反抗しない人達。

そういう人達と
自分との違いに
気付いたりもした。

回れ右と言えば、
回れ右をする人達。

自分の考えを持たない
人達。

あとから考えると、
そう
決め付けてしまっていたのですね。


その一方、

研究室に入って、

たくさんの先生方に
教えていただいて、


少しずつ、

プロのあり方
というものが

わかってきた。

私は、
上の大学に行けば

天才みたいな人が
いるのかと
思っていて、

でも、
私は
天才
と呼ばれる人に

会ったことはない。

(理系はどうかしらないけれど)

私の属する専門分野は
かなり歴史の長い分野だったけれど、

天才というよりは、

日々の全ての積み重ねを
自分のものにして

研ぎ澄まし、

それが
常人の及ばない領域に達している。


言うとすれば

超人。

そういう人たちには
会った。

論文を読んでいてても
それは

わかる。

一見
わからない人もいる。

けれど、

読む人には
わかる。

そういう人たちが
いた。

そして、
そういう人たちこそ
尊敬すべき人達なのだと

思い知ったのです。

そういう人達は
唯一無二のものを
持っている。

だからこそ、
そこに
我として
存在することができる。

私は、そういう
存在に憧れるようになった。

だから、
そういう高みを目指して

また
新たな想いを抱いて
歩き始めた。


学部時代の終わりに、

今後の進路について
それぞれが悩む中で

私は
私なりに
いろいろとあったけれど、

最終的に
そういう想いを抱いて
歩き出せたことは

幸せであったと思う。

しかし、
私達の社会は
深刻な状況にあった。

不況という文字のもと
就職先を確保できた人は、

私の周りでも
そう、
いなかった。

もともと文学というものが
社会に対して
どういう形で貢献できるか
ということを
考えたとき、

その答えは
とても厳しく難しいものだった。

私は、
その現実の状況を目の前にして
そのときも
考えたし、
そして、
大学院で研究を続ける間
辞めるかどうかの決断をするまで
そして、今も
ずっと思い悩んできたことである。


私のいた大学では、
文学部では、

国家公務員Ⅰ種の試験を
受ける人が多かった。

言わば
官僚への道、

である。

それは、
時代がどうであれ、
その道を選んでいた人もいたし、

世の中が不況で
安定した職を求めて
その道を選んだ人もいるだろう。

きっと
さまざまである。

私は、
高校で
ちょっとひねくれた思考になって以来、
社会との関わりというものに対して
懐疑的になっていて、
自分などは何の役にも立たない、という
半分世捨て人のような気持ちで
生きていたから、

自分はそういう道を選ぶことはなかったけれど
その道を選ぶ人も、
それはその人の選ぶ道だから
そういうこともあるでしょう、

そんなに気にしなかったのだった。


しかし、
自分の研究をしていくうちにも、
自分の研究が世の中で
どのように役に立つか
ということは、

研究者ならば必然と考えるわけで、

私自身とて、もともと
何か社会の役にたてることがあったら
という想いを抱きながら
歩き始めた人間である。

三つ子の魂百まで、
というわけではないけれど、

それは、
心の底にずっとあった想いなのだった。

しかし、文学、または文学に関わる研究というものが
現実社会の中に有為なものとして存在できるとは
とうてい言えない状況で、

でも、
私は、信じていた。


文学の存在意義を。

それに携わる職業の役割を。

何故なら、
私は、文学に救われたから。

一日でも

もう少し
生きてみようと
思わせてくれた。

それは、
本の中に
同じ想いを持った人が

いたから。

この世界のことを
教えてくれたから。

その人は、
36歳まで
生きていたから。

その人が
好きだったから。

その暗闇の中の光を
私は

感じたから。

ずっと、信じている。

今も。


研究の傍ら、
生活というものがあって、

今後のことを考えると
暗澹たる気持ちになっていた。

私のやっていることは、
そう簡単にカタがつきそうになかったし、

研究をとりまく状況も
どんどん変っていていた。

研究の道を断念し、早々に就職する人もいた。

その人は、
やはり国家Ⅰ種を受けるといっていた。

私は、
そのとき
その人を止めた。

官僚になるなんて
おやめなさい
と。

きっと、
自分の意見は通らないし、
頑張っても、
他の国民からは
悪いことをやっている人たちと
一緒くたにされて給料泥棒みたいに言われるし、
そんな損な職場はない。

もっと、
自分の才能を生かす場があるはず、
と。

だからといって
他に何か思いつくわけでも
なかったけれど、

その人の生真面目ぶりを
考えると、

そう言わずには
いられなかったのだった。

そして、
高校時代の
同級生の顔が
思い浮かんだ。


そう言えば、

あの頃の同級生にも
きっと
官僚になった人たちが
たくさんいただろうと思う。

同級生の
眩しすぎる
姿。

未来への、

社会への
想い。

自分のなすべきことが
社会の何らかの役に立てるであろうことを
信じている

一点の曇りもない
ゆるぎなさ。


彼らは

どうしているであろう。


そういう人たちの姿が
今の官僚というもののイメージ中に
立ち現れてこないのは、

やはり
組織として
あるいは、
それをとりまく環境として

なにかおかしな部分が
あることは
間違いない
と思う。

何かあれば、
官僚が、

と言われる
このご時勢。

今度、
その人員も削除されるという話を
聞く。

まっさきに切られるのは
組織に対して
不要となる人達、

果たして、
今の官僚の組織の枠組みの中で
必要とされる人材を
その組織内で今、差配している人が
決めるのだから
こんなに心許ない話はない。

私は、
再び同級生の姿を
想い浮かべる。




みんな知っていた。

中学・高校と

そこへ辿り着くまでに

自分がやらなければならないこと。


もしかしたら、
小学生の頃から
かもしれない。


成績の良い子に

クラス委員という

あたかも
なんらかの地位のあるかのような
役職を与え、

クラスのとりまとめ役を
させるという

先生のいいつけを、

自分のやるべきこと
と認識し、

必死にそのつとめを
果たそうとしていた、

その頃から。


自分が未来に
果たすべきことのために


何も言わず、

ただ
それだけのために。


そういう人たちが
いたことを

私は、
知っている。

いろんな人が
いるだろう。

けれど、
そういう人たちがいることを

私は、
知っている。


悔しい想いは
していないか。

未来への想いは
断たれていないか。

絶望していないか。


ふと
そんなことを
考えてみたりする。


どうしているのかな?

思ったりするけれど、


自分のことで精一杯で
同窓会の返信も
ままならなかったりする。


私は、

大学院を
やめたよ。

いろいろあったけれど、

私は、
もう一度、

社会の中で
生きてみたいと
思ったんだ。


歯車の一部に
なりたいと
思ったんだ。


自分の
できることを
できるところまで
やってみたい。

その機会が
与えられるならば
それに
全力で取り組みたいと
思っている。


きちんと
自分で
生活というものを
できるようになって、

そして
まずは、
仕事を覚える、

一から、

そして、
少しずつ、

自分の考えも言えるように
なって。


いろいろあるけれど、

今は
何も言わずに

ただ、
目の前のことを
全力でやりたい。


それが、
いつか
報われる日が
来る。

どこかで
誰かが
見ていいてくれる。

わかってくれる。


そうしたら、

私が、
この社会での

私の役割を
果たせるようになったら、

或いは、
全うできたら

そうしたら、
また

私は、
自分の
本当にやりたいことを
やれる日が
くるだろう。

今、
日本は、

大変な状況にある。

それぞれが、
自分のできる何かを
探している。

この世の中には、
いろんな人がいるから、

中には、
自分のことしか
考えていない人も
いるかもしれないけれど、

けれど、
たくさんの人が
何かできることはないかと

自分の役割を
探し始めている。

原発のことに
たくさんの人が関心を寄せ、

原発の本を
たくさんの人が
手にとるのも、

これからの
この世界のこと、

日本のこと、

何か自分ができることを
探しているからに
他ならないと
思う。

みんな
思っている。

変らなければ

原発の本に
あなたのやるべきことは
書かれてあった?

原発をなくしていかなければ
ならないことが
言われている。


原発をなくしていくこととは?


地震によって、
原発の安全神話がこわれたから?

原発は危険なものだったの?

原発は危険なものだったのに
誰かが安全だと言ったの?

それを言った人は安全でないものを
安全と嘘をついたの?

私達はそれを信じたの?

新しいエネルギーは
どこにあるの?

それは
安全なの?

誰がそれを確かめるの?

その人が言っていることを
嘘じゃないと
誰がわかるの?

私達は、それを信じるの?

たくさんの疑問符が
頭に浮かぶ。


原発がこの国に
エネルギーを生産する
一つの手段として
確立した背景から
私は
自分の目で一から勉強しなければ

それは
わからないだろう。

いまだに、
そのことはできていない。

だから、
私は、原発のことは
何も言えない。

きちんと議論できるまでに
どれくらいの月日を要するだろうか。

正直
その目途は
今は立たない。

先日、
機会があって、

NHKの地震に関する番組を見た。

地震が起きたあとの
科学者達の姿を
追ったドキュメントだった。

地震の仕組み
を含めて、

地震の予知
というものが
どういう風にして、
なされてきたのか

私は、知った。

日本のプレートは
太平洋側のプレートと
深海で
いくつかのポイントで
接していて、

片方のプレートが
動いていくと、
固定されているもう一方の
プレートは

接着点を中心に
一方で固定されながらも
もう一方の動くプレートの側へ引っ張られる。

そして、
限界に達したとき、
伸びに伸びきったゴムが
ぴんと弾かれるように

逆向きの力となって
反対側に戻ろうとする。

そのとき、
大きな振動が生じる。

これが
地震の仕組みだという。

そういうポイントが
太平洋側にいくつもあるそうだ。

その地震のメカニズムを
研究している東北大の教授は、

今までに、そのポイントを
3000箇所程探し当てた。

これまでの
地震に関わるデータを集めて、

同じような振動のパターンを分析する。

ひとつひとつのデータを
確認することによって
同じ振動パターンのものを集めてゆき、
ひとつずつポイントを確定してゆくという
途方もない作業だ。

3000箇所のポイントを確定するために
紙データを照合する作業が
これまで数十年かかったという。

そのポイントは、
小さなものから
大きなものまで
さまざまであり、

小さなポイントは、
動く力が小さい段階で
すぐに接着点がずれ、
戻る力も小さいので、
小さな地震となる。

逆に
大きなポイントの場合、
大きな接着点なので、
なかなか動かないが、
その分戻るときの反動も
大きいので、
大きな地震が起こる。

そして、そのポイントごとに
集められた振動のパターンをとりまとめ、
どれくらいの周期で
地震が起こっているかを調べることによって、
地震の起きる周期を知ることができ、

そして、その周期によって、
次に起きる地震の時期というものも
ある程度予測できるようになるのだという。


接着点で引っ張られながら
少しずつ動いている段階を経て
その接着点がずれた瞬間に
元に戻るまでの
その期間を予測するのである。


そして、

2011年に起きた地震は

まだ
ポイントとして
今まで発見されていないものだったのた。

そのポイントの規模は
とても大きく、

周期で言えば、

何百年に一度の単位で起きる地震
と考えられる。

つまり、
まだ地震のデータのないポイントだったのだ。


その研究者の方が
広げた地図、

無数のポイントが
太平洋側に広がっていた。

そして、
ちょうど三陸沖の部分が
すっぽりと
空白になっていた。



「ここに、

大きなポイントが
あったのです。


この部分を

もっと
調べていれば・・・」


研究者は

地図をまっすぐ見つめたまま

静かに言った。


誰のせいでもない。

どうしようもないことだった。


けれど、

その研究者の
想いは

伝わってきた。

無念の
想い。




ふと
研究室を見ると、

大量の紙データが
積まれた、

何の変哲もない
研究室だった。

なにか、
きらびやかな
設備があるとも
思えなかった。


それでも、

この数十年
ひとつ、ひとつ、

自分の研究が
世の何がしかの
役に立つことを

思って

続けてきた
作業を思った。

その後姿が
見えるようだった。


今後、
この空白ポイントを
徹底的に
解明する


その研究者は、
笑顔もない表情で

一点を見つめたまま
言った。

その先には、
しっかりと
その空白ポイントが

見つめられていた。


空白のポイントを埋めるのに

また
数十年かかると言う。


それから、

地震に関する研究者たちの
学会の模様も
映し出された。

そこで、
研究者の一人が

言った。

 我々が、どこで
 どう間違ってきたのかを
 改めて認識しなければならない。

 その反省とともに、

 今後は、さらに新たな発想をもって
 物事を受け止める姿勢を維持しなければ
 ならない。

というようなことを
言っていた。

強い言葉だった。



全員が
まっすぐに
前を向いていた。


一度、

科学は、

確かに
敗北したのだった。


けれど、そこから
科学者達の取り組みは

再び始まっていた。

今回、新しく入ったデータをもとに
また新たなる研究成果が
日々更新されようとしている。

科学者達は
既に動き出していた。


これから
に向けて。

科学に取り組む人々と
その想いを痛烈に
感じた。

そして、
この人達に
任せていける

という信頼を
私は
強く感じたのだった。


今、
原子力発電に関わってきた人々は、

科学者達は、

一体どうしているだろう。

少なくとも
当初、

研究者達の想いにあったものは、
きっと、
人々の暮らしの中で
より良いものとして
あるように
という
切実な想いだったであろうと思う。


そして、
長年、原子力発電所を現場で
守ってきた人々は、

最後まで
その自分自身の体を張ってまで
その職務を全うした。

そのようなたくさんの人々の意志、
そして、
生きていく時間を以ってして
支えられてきた

原発という存在。

そして、
知ってか知らずか

その恩恵を
多分に受け続けてきた
我々にとって、

原発というものが、

最終的には、
“なくさなければならないもの”
として、

糾弾されるものとして、

今、

我々の目の前にあるという事実。


我々は、

どこで
どう間違ったのか。

それを明確にして

今後のありかたを
考えていかなければならないと
思う。

そうでなければ、
たとえ、
新たに、エネルギーとして
原子力発電に代替できるものが
あらわれたとして、

それを我々は手放しで受け入れることが
できるだろうか。

きっと、同じようなことが
何度でも
起きるだろう。

これは
日本という国に住む人々
我々全ての問題だ。


誰のせいでもない。

日本人全ての人の責任だ。


正しいことを
正しくある姿で

成立させなければならない。


それを見届けるのが
私達の全ての役割だと思う。


今、日本全国の原子力発電所は
ほとんど停止された状態でいる。

それに伴う問題、

そして、それ以上に

日本では復興に向けての
たくさんの問題が山積みとなっている。

未だ、日本は混迷より立ち直ってはいない。

経済も見通しのつかないまま、
被災地の復旧も遅れている。

何を今、優先して解決すべきなのか

そして、
何が慎重に取り扱っていかなければならない問題なのかを
見極めるべきである。

震災後、
日本は一つになって、

それぞれのできることを
懸命にやり続けることだ、


誰もが
その想いを胸に抱いたはずだ。

被災地に迅速な手助けとして
直接支援することもできる人もいれば、

それが叶わない人は、
それぞれの場所で
できることを精一杯やることで
日本を復興させるべきだと

思ったはずだ。

それなのに、
まだ、日本はなかなか先に進めないでいる。

全ての決断を焦らず、
でも
急いで解決していかなければならない。

誰が悪いとか、
誰がいけないとか

言っている場合ではない。

我々は
同じ国に住む
同じ問題に立ち向かう人々であり、

同じ船に乗った仲間のような
ものである。

まずは、
漕ぎ出だすために
何が必要なのか。

それぞれが、
やりたいことを口々に
叫んでもはじまらない。

船頭が気に入らないから
自分は協力しない
というようなのは
大人気ないし、
そんなことが通るような
安穏とした状況でもない。

船頭に
必死で舵取りをさせるべきなのだ。

政治を直接動かすのは
我々ではない。

我々が選んだ人たちだ。

そして、
我々は選ばれし人々に
政治というものを任せ、
遂行するのを見届けなければ
ならない。

だからこそ、
我々はきちんとした人々を
その場に送る責任がある。


そして、
その政治に関わらせることのできる
正しい人たちを

育てなければならない。

その正しさとは、


それは、
政治のことだけに
関わらない。

信念として、
これが正しい
と思える、

そして、
その正しい想いを実現させる
環境を作っていかなければ
ならない。

それは、難しいことではない。

一人一人が、
正しくあることだ、

周りの人を
正しくあれと
育てることだ。

正しい想いを持ち、
能力を持つ人々が

世の中で活躍できる場を

社会を作っていくことだ。


ものを作る人は、
正しい想いを以って
ものを作ることが出来る

そして、
受け取る人も
まっすぐに
それを受け取ることのできる。

そういう
社会を作っていくことだ。


それぞれが
それぞれの役割を果たすことが

それぞれの努めだと思う。


それぞれが、
それぞれの役割を持っている。


昔、
「庶民」
という言葉は、

「おほみたから」という訓が
ふられていた。

大きな宝。

国民がその国の
宝なのである。



それぞれの人が、
この国で正しくあることが

この国の正しさにつながっていくと
私は思う。


正しくありたい
と思う。

けれども、

自分にとって
これが正しいと思う事も、

なかなか言い出せないことがあったり、

そして、なかなか受け入れてもらえないことが
あったとする。

日常生活で
矛盾することにぶち当たって、
いろんな想いを抱くことはことは
たくさんあると思う。

そして、
満たされない想いを抱えて
沈み込んでしまうときがある。


けれども、
ぶつかった双方が
お互いの想いをひとつひとつ
わかりながら、

長い時間かけていくと
解きほぐれていくこともある。

それは、
自分が相手の立場に立って物を見たとき、

初めてわかることや、

自分の想いが相手に違った風に
受け取られてしまったりすることを

お互い理解しながら
進めていくことで

それぞれの正しい道が
また全然違った形で
或いは一つになって
あらわれることもある。

それは、
お互いが
相手も
正しい道を歩いていると
信じることから
はじまると思う。

最初から、
相手を否定してしまっては

到底理解しあえることはないだろう。

いつまでたっても
平行線でしかいられないかもしれない。

それよりも、
自分が歩み寄れるところから
歩み寄って、

人の想いを自分の想いのように
信じてみないといけない。

これは、なかなか難しいことだ。


けれど、
日本を復興させたい

より良くしていきたい
という想いが
同じならば

おのずと道は
ひとつになってゆくのではないだろうか。

対立することなしに
対話することが
大切だと思う。

お互いの想いを確かめ合い、

正しくないと思うところを
双方が
改め合う

そのことが
大切だと思う。

その当たり前のことが
出来なくなっている状況そのものを
まず、なんとかしなければ
ならないのではないか。


そして、
これは、
人との付き合い方にしろ、

仕事にしろ、
大切なことだと、

我が身に振り返って
思う。



難しいけれど、

まずは、
自分が正しくあること。


そして、
時に
人の想いを汲みながらも、

自分は自分であるために

正しい想いを
持ち続けたい。

一つの歯車になりながらも、

私として存在でき、

私なりの役割を果たせたらいい。

そんな風に強く
生きていくことが出来るよう

私は、

今は

そうやって
頑張りたい
と思う。

いつか、
自分の想いを実現させることが
できる日まで

そうやって
歩き続けたいと
思う。


どんな場所にも
自分と考え方が違う人は
いると思う。


思うようにいかなかったり、

自分というものを
見失ったりして

つらいときも
あるかもしれないけれど

けれど、
想いを変えずに
生きていきたい

と思う。


正しい想いを伝えてくれる
ものは

たくさんある。

歌だったり、

文学だったり。


歌にある力は、
そこだと

私は
思う。

正しい想いが

正しく
まっすぐに
届く場所。


何の意味を持たなくても

キラキラしている歌や

キラキラしている人を見ると、

素敵な
楽しい気持ちになる。

お笑いもそうですね。

悲しいときも
ふと
笑って、
和やかな気持ちになる。

それは、
素直な感情。


悲しい歌は

想いがあふれて、

涙がこぼれる。

でも、
涙がこぼれた後には、

なんだか
スッキリした気持ちになる。



歌ったり

踊ったり、


人を笑顔にしたいと

思ったり、


表現する人の

その想いというものは

まっすぐに
伝わる。


どんな歌であろうと、

どんな状況で
歌われた歌であろうと、

それを表現する人の想いというのは
誰のものでもなく、

それに関わる人の中に
どんな想いを持つ人がいようとも、

表現する
その人のものとして
その場で
まっすぐに表現されるものであって、

それが強ければ強いほど

何気ない歌であっても

気持ちがまっすぐに
届く。

あるいは、

少したって、


あるいは、

何十年という
時を経ても

ちゃんと
届く。

そういうものだと
思う。


綺麗な想いは

正しい想いは

まっすぐに
届き

人の中で
生き続ける。


何よりも

人の心に
まっすぐ届くもの。

それは、

例えば、

素敵な
歌。



歌は、


それだけで
素晴らしい。

そして、

磨きに磨かれた歌は

もっと
素晴らしい。


それが
歌の力。

他に理由は必要ない。



だからこそ、

歌は
時として

たくさんの人を動かすことが
できるのだと

私は
思う。


それを
私は、

宮本さんの
歌で

知っている。



宮本さんの
歌を
楽しみにしています。


ただ、
それだけ。