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隅田川旧跡 梅若伝説と奥州街道

2007-08-14 20:29:20 | Weblog
梅若伝説は、最初に、能「隅田川」作品化され、歌舞伎に文楽でも梅若伝説を題材に作品が作られ「隅田川物語」形態を形成しました。代表的な清元舞踊劇「隅田川」は、六世中村歌右衛門の当り芸です。奥州街道での出来事で、多くの作品化され、現在に語り継がれています。

梅若丸は、学問に優秀で有るがゆえに、比叡山内部の勢力争いの渦中に巻き込まれ身の危機を感じ比叡山を下山し京の都に、向かう思いが、間違って大津に行ってしまたのではないでしょうか。
しかし、琵琶湖の大津の浜で、人買、信夫藤太に、捕らえられ、梅若丸を奥州の国で、売る為に連れ去ったと思われます。当時、人身売買が日常茶飯事のようで、貧しい者から子供を買い、最悪は、人攫いをするなどと、他国で売る事を業とする者が多くいたようです、才知ある僧侶である梅若丸は、高値で取引できると思ったのでしょう。
奥州の国へ向かう街道は、江戸時代になれば、東海道・日光街道が整備されましたが、当時は、厳しい道のりだったと思われます、人買、信夫藤太は、梅若丸だけではなく、藤太は、手下とともに、強制しながら多くの人を連れ道中していたと思われます、道中は辛く悲しい、悲惨なものであったと思います。
隅田川西岸にたどり着いたとき、梅若丸は、重病で動くことが出来なくなり、人買、信夫藤太は、非情にもその場に、川の中または、河原に打ち棄てたと言われていますが、

伝説では、梅若丸の衣が柳の枝に掛かりそれを見た里人が梅若丸を見つけたとあります、渡し場の付近で、梅若丸を岸辺の葦草の中に打ち棄てたと、考えられます。

当時の隅田川の地形は、隅田川西岸は、浅草寺の裏手から千住の方までが、広大な湿地帯で河沿いが、唯一隆起していました、そこに京の都から相模を通り、奥州、総、日立に抜ける奥州街道があり、大きな集落もありました。当時は、奥州街道が確立され、隅田川原西岸から渡しで東岸に渡り、奥州の国・総国・常陸の国への往来の要所の集落でした、尚、総の国は、麻の産地で、総は、古代語で麻の意味です、麻の交易も盛んで有ったようで、西岸は、隅田寺「現在の多聞寺」が建立されており、賑やかな集落だったようです。
梅若丸を奥州に連れて行くために、隅田川原の渡しを利用したとされます。

死にそうな梅若丸を強欲な人買が渡し賃を支払い、東岸まで連れて行き棄てるわけが無い、渡しに乗る前に、西岸に打ち棄て、梅若丸は、西岸で死んだと言う説。

梅若丸の死が貞元元年(976)言われています、木母寺の歴史を見ると、僧の忠円が、同じく、貞元元年(976)に梅若丸の墓所を翌年念仏堂を建立すると言う期日があります。「梅若伝説の母、花御前が梅若丸を探し遅れること一年後、隅田川原までたどり着き渡し舟の上から、梅若丸の法要の様子を、見て、梅若丸の死を知った」と言う記述あいます。

梅若塚の建立の地が同時期に二箇所に存在することになります。しかし現在、西岸には、梅若丸の塚は無く母の妙亀塚のみが残り、東岸には、梅若丸の塚のみ残っています。母と子を同じ場所」に塚を建立しなかたのでしょうか。

梅若丸の母、妙亀は、梅若塚の側に庵を立て、供養のため念仏を上げる日々で、ある日庵の近くの鏡が池に梅若丸の姿が映り我が子の姿を見た妙亀は、そのまま身を池に投げ死んだいわれています。鏡が池は、現在は在りませんが、公園になりそのなかに、妙亀塚があります、庵が東岸に在ったとすれば、当時、隅田川は、川幅も広く渡し舟使い往来しなければならず、決して近くとは、言えない。と言う矛盾点を言う説もあります。

民衆が、広大風景の隅田川見て、隅田川を現世と浄土の境と考えて、梅若丸を東岸、浄土に置き、妙亀を西岸、現世に置き、我が子を思う母の姿を隅田川と言う舞台で物語にした、実際は梅若丸は死んでいた、と言う説。

色々の説がありますが、梅若丸と同じ天台宗の忠円により墓所が築かれ、供養されれ、その後多くの人々に感銘を与え梅若伝説は、現在でも語り継がれているのも現実です。