ねこの気まぐれ散歩

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隅田川旧跡 梅柳山 隅田山 木母寺 本尊と天台宗

2007-08-12 15:41:04 | Weblog
木母寺は、天台宗で、ご本尊は慈恵大師で実在の人物です、元三大師と呼ばれ厄除けの大師様として広く民間に信仰されています。

慈恵大師・良源は、元三大師、角大師、豆大師、厄除け大師とも呼ばれています。良源は、延喜十二年(912)現在の滋賀県浅井郡虎姫町で豪族、木津氏の子で、観音丸また日吉丸ともいい十二歳の時に仏門に入るため比叡山に上り、康保三年(966)に天台宗最高位である第十八代天台座主になりました。良源は、身分は、高くはなかったようですが、奈良の寺院の高僧と法論を行い論破りをしたり、村上天皇の皇后の安産祈願行うなど、頭角を現し最高位まで上り詰めました。天台宗の中興祖と言われています、多くの霊験や説話が遺されており。

角大師、永観二年(984)に疫病が流行し慈恵大師が鏡の前で座禅をし鬼の姿に変え、その姿をお札に刷り家の戸口張らせて、疫病を退散させたと言われています。自ら鬼となり魔物と闘うとの事から,降魔大師とも言います。二本の角をもち骨と皮の鬼の姿から、角大師と言われています。

室町時代、深大寺火災のさい、慈恵大師自刻像とされている、元三大師像が自らで、五大尊池に飛び込み難を逃れたと言う伝説もあります。

豆大師、慈恵大師は、観音の化身とも言われ、あらゆる衆生救うため三十三の姿に化身する、法華経の説に、紙に三十三体の大師像を表した絵である。

元三大師、命日が正月の三日であることで、元三大師の通称で親しまれています。

「おみくじ」の創始者です、慈恵大師が観音菩薩に祈念し「げもん」を授かり観音籤が、起源とされています。今では、仏教宗の寺院や神社で行われている「おみくじ」の創始者と言うことを、ご存知でしたか。

「天台宗」は、教主、久遠実成の釈迦如来、「開祖」天台智者大師、伝教大師 最澄、「主な経典」法華経、阿弥陀経、大日経、梵網菩薩戒経、
平安期(904)伝教大師最澄は、唐にわたり天台教学を授かり、帰国後、朝廷に認められ、比叡山を賜り天台宗を開き、その後、円仁、円珍により、密教として天台宗の形が、完成しました。
江戸時代には、名僧、天海が現れ江戸城や日光東照宮の建設で、風水や密教占星術を用いて、江戸曼荼羅を完成しました。

天台宗の教えは、法華一乗説・法華経を読呪したり、持っている者は、必ず成仏できるという、教えです。「円、密、禅、戒の四種相承」
天台宗は、日本の代表的仏教宗派の教えを一つになり天台宗を構成しています。


隅田川旧跡 梅柳山 隅田院 木母寺 梅若堂

2007-08-12 12:46:31 | Weblog
防災拠点建設事業の為現在の地に、移転されたとき、木造建築が消防法により、許可されなか為に防火ガラスの建物の中に安置することになり、現在はガラス越しですか見ることが出来ません。しかし保存を考えるには、良い条件ですが、味気なさも感じるところです。

梅若塚に供養の為念仏を唱える為の御堂です、貞元元年(平安中期・976年)層の忠円が梅若丸の墓所がを築き、翌年、念仏堂が築かれたと言われています、現在では、当時の規模と様式がどの様なものか、想像すら出来ないのですが、木母寺の起源なのです。

当時、京の都では、隅田川の情報は少なく遠くの地で別世界で有ったようです。京の都の社会状況に比べ、おおらかな環境ではと思わせます。隅田川の地形は、島が点在し水系が複雑に流れ広大な風景だったようです、隅田川の東岸は、下総の国、西岸は武蔵野国との国境が隅田川でした。このあたりは奥州街道の道筋があり旅人は、渡し舟で往来しました、重病の梅若丸が打ち棄てられたところが、この渡し場付近と言われています。西岸には、関屋の里と言う里が合ったようで、梅若丸最期を見取ったと言われる里人は、関谷の里人ではと考えられます。西岸は、砂利の原でそこに脚草が生えるようすで、広大な風景だったようです。

予断ですが浅草の語原は浅い砂利原に脚草が生える様をさして、浅草となずけたと言う説もあります。

梅若堂は規模と様式については、資料が少なく、推測の範囲ですが、念仏堂と言う目的から現在の規模と様式と思われます。梅若どうを見ると、奈良大野村、大野寺の念仏堂を、思いが重なります。