goo blog サービス終了のお知らせ 

dayan1998のブログ

Ad astra per aspera.

初春、または希望

2021-03-21 10:39:32 | 日記
 昨日は友達の張君と、半年も隔てて避暑山荘へ行きました。一昨日では雨が降りつづけたので、曇って朝雲が波のように舞っていました。不意に、急雨がばらばらと落ちてしまいました。
 傘も携わらない僕たちが、慌てて走りながら屋根を探していたが、雨が止まりはじめ、何分後一本の陽射しが雲を透かしてやってきました。春であんまり見えない狐の嫁入りになりそうでした。
 「いい雨ですね。」と、張君はそう言いました。「春雨は油如しの貴きじゃねえか?」
 
 
 「そうだね。」と僕が返事しました。頭をもたげると、きれいな瑠璃塔が見えました。「六合塔」というやつでしたっけ。何十個の銅製の風鈴が一層ずつののきでそよ風に吹かれ、こころよい声がはっきり聞こえました。
 「あの鈴ね、不思議な厄払いの役割があるそうだぞ」と、張君はからかうようにそう言った。
 「そうすればいいかな」と返事してくれた。本当に、もし本当にそうなればいいでしょうね。コロナ禍に苦しんでいる僕たちも、そして中国も日本も、そして世界も、早くその厄を払いたいなあ。
  初春は「希望」の象徴でしょう。春雨よ、希望を持ってきて、未来を良くなってねと、祈っていました。

「大連忠霊塔鳥居建設由緒之碑」について

2021-03-20 19:38:32 | 大連ところどころ
 2017年5月24日、大連の地方紙『半島晨報』では、「労働公園施工挖到刻満日文石碑」との見出しをはじめ、労働公園(旧中央公園)では戦前遺物の発見とのことが知りました。
 
 『半島晨報』2017年5月24日 ?面
 
 
 
 発見当時の状態です。
 報道によると、「石碑の位置では工事を止まれ、新らしい保護方案を計画して、歴史を忘れず愛国の情熱を増やす場所を増える」と定められて、約一年ぐらい保護せずに、そのままに放置されましたが、保護ができないので2018年では旅順日俄監獄博物館(旧旅順刑務所)へ移送されたそうです。
 発見直後の6月17日、友達の安君と一緒に労働公園へ行って碑文を写しました。以下は全文です。
 
 大連忠靈塔 鳥居建設由緒之碑
 関東局總長 三浦真彦書

 紀元二千六百年ヲ慶祝記念スヘク大連忠靈塔表參道入口ニ大鳥居ヲ建設シ緑山ノ聖地ニ神鎮レル盡忠殉國ノ英靈ヲ慰ムルト共ニ聖域ヲ莊嚴ナラシメ以テ關東州民ノ忠靈ニ對スル感謝景仰ノ念ヲ昂揚シ精神作興ノ源泉タラシメントスルハ洵ニ深遠ナル計畫タリ帝國在郷軍人會大連第四分會之ヲ發案シ關東州土木建築業協會理事長榊谷仙次郎氏ニ工事完成ニ就キ協力ヲ要請ス協會ハ三十有二年ノ歴史ヲ有スル舊滿洲土木建築業協會ノ解散記念事業トシテ意義洵ニ深キヲ思ヒ之レカ建立獻納ノ議ヲ快諾ス抑々本鳥居建設ニ方リレハ忠靈顯彰會臺灣總督府及陸海軍當局ノ積極的御援助ト郷軍協會員ノ和衷協力ニ依リ時局下幾多ノ困難ヲ克服シテ樹齡二千有餘年ノ阿里山靈檜ヲ二回ニ亘リ海軍御用船ニテ大連埠頭ニ輸送シ古式ニ則リ之ヲ聖域ニ運ヒ施工ヲ明治神宮造營工匠ニ委嘱シ昭和十七年六月一日嚴肅ニ起工式ヲ擧ケ爾來郷軍警護ノ下ニ工匠勤勞奉仕者齋戒沐浴協力一致工ヲ進メ十月二十八日上棟式ヲ行ヒ十一月二十一日莊嚴盛大ナル落成式並獻納メ式典ヲ擧ケ州民待望ノ大鳥居ハ關係者一同ノ赤誠ヲ表徵シテ其威容ヲ忠靈塔前ニ顯現ス興亞ノ聖戰正ニ酣ニシテ其完遂ノ前途尚遼遠ヲ思ハシムルノ秋永ク忠靈ノ遺勳ヲ偲ヒ其加護ヲ禱リ益々國民精神ヲ作興シテ天業ノ翼賛ニ邁進スルハ喫緊ノ要事タリ茲ニ建設ノ趣意ヲ記シテ之ヲ後世ニ傳フ
 
 同時には、石碑の出土状態の写真も何枚撮りました。
 
 保存状態が悪くなくて、もともとの墨もはっきり見えました。(2017年6月17日撮影)
 
 (2017年6月17日撮影)
 
 (2017年6月17日撮影)
 
 (2017年6月17日撮影)
 
 裏面には字がありましたが、全然見えなくなってしまいました。(2017年6月17日撮影)
 石碑が出土した後、保護がほとんどなく、悪い環境で約一年ぐらい放置されてしまいました。その為には、2018年旅順日俄監獄博物館へ移送されましたが、埋蔵されなかったうてなが一緒に移動されなかったです。
 
 (2018年9月23日撮影)
 
 (2018年9月23日撮影)
 残されたうてなです。
 
 さて、旧中央公園の沿革を簡単に紹介しましょうね。
 中央公園は敷地20万坪を有した大連最大規模の公園である。かつて「西公園」と称されていたが、1926年、都市開発により大連市が西側に拡大すると中央公園と改められた。元来は西青泥窪村といい、現地住民の住居が点在する場所であったが、ロシア統治時代に造園が決定されました。同公園にはアカシアを始め、柳、桃、藤等の樹木が生い茂り、来訪者の目を楽しませた。園内にはテニスコート、乗馬場、スケートリンク、弓道場、野球場などのスポーツ施設や植物園、音楽堂、料亭などがあった。背後の山嶺を緑山といい、その麓には日清日露戦争の戦死者を弔う忠霊塔が建てられていた。忠霊塔は1926年の建立である。緑山に上ると、大連市街を一望することができた。戦後、1947年11月1日に名称を「レーニン公園」に改め、さらに1949年3月3日、大規模な改修を経て労働公園と改称された。(学習院大学国際研究系 「東アジアの都市における歴史遺産の保護と破壊-古写真と旅行記が語る近代」より)
 
 旧中央公園の位置です。旧東公園町(解放路)・旧春日町(解放路)・旧松山町(暢通街)また旧羽衣町(青泥窪路)に囲まれたそうです。(『大連市街図』昭和六年)
 
 忠霊塔の様子です。1975年取り壊されたそうで、当時の政府が大連へ訪問した日本人に参らないの為、取り壊さねばならなかったという噂が大連で伝えつづけました。同じ所は1990年代頃、大きなサッカーのような展覧会場が建てられました。

平成の最後の春

2019-04-15 09:02:39 | 日記
まずは一句の川柳を上げる。
月光と 杏の華の かすかな香
一週間前くらい、校庭で散策した。夜の風は優しく通り過ぎ、不意に、ぼんやりとの薫りは鼻の中に満ちた。杏の一本は満開した。月下でゆらゆらしている重そうな枝は、絢爛の花も月華を反射し光った。
「ああ、春がもうやってきたなあ」
という文が口遊まれた。
故郷と違って、大連の春は少し遅れる感じがある。海辺の風は寒くて力強く、女たちの髪を吹き乱すとともに、大地からようやく昇った陽気も一緒に散りゆく。そのため、芽生えも遅い。「夜来風雨の声、花落つること知んぬ多少ぞ」と比べ、まるで二つの世界のようだ。
こんな感じは多分、「令和」の感じではない。
新年号公表の時、私はコンピュータ教室で生放送を見ていた。柔らかな日差しは窓を越した。梅を詠む和歌の、「于時初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」の序から摘まれた言の葉と言われた。淑やかな気と和やかな風は大連で感じられない。でも、梅と蘭の香は、空気の中で流れているでしょう。
私は新しい時代を、新しい心情で迎えることが大切にします。こんなぽかぽか暖かい春の日和では、難しくないだろう。


(写真は学校の外の花)

平成31年4月15日 大連金州において