鞦韆院落

北京で過ごすインディペンデント映画な日常

瀝滘村 その1

2014-05-30 08:57:56 | 広州散歩
梅雨にうんざりしつつも、毎日閉じこもっているわけにもいかないので、どこか近場で散歩に良さそうなところは無いか探していると、瀝滘村のことを書いている文献を見つけた。
瀝滘(Lijiao)はちょっと読みにくい字だが、「瀝」はしずくがポタポタ落ちる様を表す字。
「滘」は主に広東あたりで使われる字なのだが、水の流れる場所を意味し、「漖」とも書く。「滘」や「漖」は川の多い珠江デルタでは地名の中でよく使われている。
天河から番禺へ走る地下鉄3号線には瀝滘駅があって、いつも通過している私にとっては馴染みのある地名だったが、どういう場所かはまったく知らなかった。

かつての広州城の南東、珠江のほとりにある瀝滘村は、対岸の番禺へ渡る交通の要所であり、珠江にある大きな港のひとつだったりもしたので、集散地として賑わっていたらしい。
必然的に商業も発展していて、村には多くの豪商がおり、特に衛氏は「挙人」や更にエリートの「進士」を歴代の王朝で何人も輩出するなど、名門としてよく知られていた。
村内にはこの衛氏の大宗祠をはじめ、多くの宗祠(祖先を祀る廟)があって、その数は多い時で30を越えていたという。
村とは言っても、ただの漁村とは違うのだ。

広州は改革開放後すぐに都市開発が着手された地域だが、開発は農地など人家の少ない場所から行われ、立ち退きが必要となる人口密集地は後回しにされた。
そのため、高層ビルが立ち並ぶ一角に、昔ながらの集落が残された「城中村(都市の中の村)」があちこちに生まれた。
最近ではそうした城中村にも開発の手がつけられ、だんだん少なくなってきた。

瀝滘村は広州市内に現存する「城中村」としては最大級であり、面積は151万平米ある。
逆に言えば、ここを開発すればかなりまとまった土地が手に入るため、大規模なプロジェクトが可能になる。
そこで、広州市は瀝滘村の開発計画を打ち出した。
いま伝えられているところでは、地下鉄瀝滘駅は今ある3号線の他に、新たに5本の地下鉄が交わるターミナル駅になり、川岸には新しい港を作って香港などともつなぐ市内最大級の水上バスの拠点とし、また長距離バスターミナルも作られる。
もちろん、それを取り巻くように居住区や商業施設なども設ける予定で、総工費は23.8億ドルだという。
すでに村の外側では大掛かりな工事が進められている。
ただ、村には人口も多いため、立ち退きは進んでいないらしい。

城中村というのは、下町というよりもっと垢抜けない“村“らしいところがあり、それが味になっていて面白い。
2000年代初頭までは広州や深センに城中村がたくさんあって、中にはスラム化して治安が悪くなっているところもあった。
整然とした北京の胡同とは違って、道は入り組んでおり、汚かったり何か出てきそうな怖さもあり、カオスな雰囲気がたまらなかった。
今自分が住んでいる場所から近い瀝滘に、まだそんな城中村が残っていて、しかも間もなく無くなってしまうと知り、これは一日も早く行かなければと、雨の中を出かけていった。

地下鉄で最寄りの駅から3駅乗ると、もう瀝滘駅である。
駅の出口はEとFしかない。これからA~Dが作られるということだろう。
エスカレーターを登って外にでると、なんだか変な光景だった。
普通は道路に出るはずなのに、出口の周りが壁で囲まれているのだ。
そこには電動三輪タクシーが並んでいて、盛んに客引きをしている。


普通の車が通れるような幅の道はなく、地元の人と思しき人たちが次々とこの三輪タクシーに乗って路地の中に消えていく。
私は事前に地図を確認していたのだが、いきなり地図にもない細い路地だらけの場所に出てきてしまい、しかも入り組んでいて方向もわからず、道路はガタガタで水たまりだらけとあって、途方に暮れてしまった。

とにかく南に向かっていけば珠江にぶつかるはずで、そこにはかつての桟橋があるはずだ。
路地をひとつ選んで、あてもなく進んでいくことにした。


まだ午前中だが、朝食も食べてなかったし、店があったら何か食べておこうかと思っていたら、さっそく小さな店を見つけた。
武漢熱干麺と書いてある。
あとで分かるのだが、瀝滘村には湖北料理の店がとても多い。
湖北から来た人が多いのだろう。
壁に掛けられたメニューを見ると、熱干麺が4元と書いてある。焼きビーフンでさえ5元である。
うちの団地にある焼きビーフン屋は16元もするというのに。
べらぼうな値段に吹き出しそうになっていると、女将さんと目が合って、向こうも笑っているので、店に入ることにした。


奥に長い、4人がけテーブル3つほどの小さな店だ。
すでにカップルが1組いたが、私と入れ違うように出て行った。
私は熱干麺だけ注文した。
味はなるほど値段並みであった。
外は雨で暗く、店内には花弁の形をした蛍光灯がぽつりと点いていた。


店を出て先に進むと、路地はますますレトロな雰囲気になってきた。
今は中国の都市で見かけない小さな裁縫店が当たり前のようにいくつもあるし、家内制手工業の繊維工場なんかもある。
広州だからドアも壁もなくて、工場が路地から丸見えなのだが、工員の風貌までもが現代人ぽくない。


家賃がかかっていたら不可能な商売だから、たぶんこの人たちは持ち家で、昔ながらの家業を続けているのだろう。
飲食店が安いのも同じ理由だろう。
いや、もしかしたら家賃も安いのかもしれない。
さっきの熱干麺の店は、飲食店にも関わらず水道がなかった。
この村には上下水道などのインフラも整っていないのだ。


こうした不便さが、昔ながらの生活を維持させているとも言える。
それにしても、この村には車が入れる道がほとんど無い。


昔は生活の要であったであろう水路も、今ではただの濁ったドブだ。
だがそこにも水上生活者はいて、船上のバナナ屋さんなどもいる。
なるほど、こんな生活に水道なんてあるはずもない。


かつて広州には「疍民(たんみん)」と呼ばれる水上生活者が多くいた。
1932年の統計では、広州市には疍民が10万人ほどいたとされ、当時の広州の人口の1割ほどが疍民だったことになる。
その後、政策で陸地に定住させられたこともあって、現在は黄埔にいる程度である。

水路を南下していくと、かつての桟橋に出る。
今は「碼頭公園」になっている。
ちなみに、最寄りのバス停は「瀝滘大埗頭総站」という。「埗(bu)」とはこの辺りの言葉で桟橋のことである。


ここには地元の人が樹齢500年とも言うガジュマルの巨木がある。
その横に立っているのが、「広州市界」と書かれた石碑である。


これは1930年に行政区画が変更され、南海県と番禺県の一部が広州市に編入された際、新しい境界線を示すために各地に立てられたもののひとつで、側面には「中華民国十九年立」と書いてある。
石碑は全部で46個立てられたのだが、そのうち現存するものは博物館にあるものを含めて9個しかなく、中でも瀝滘のものが最も完全な姿を留めている。
実は1930年以降も広州市は次々と拡大を続けたため、立てられた多くの石碑はすぐに意味を持たなくなったわけで、失くなったものが少なくないのも当然といえば当然であった。
一方、この石碑の川向うの番禺は、ずっと番禺県もしくは番禺市として広州市に含まれず、広州市に含まれたのは2000年とごく最近のことだった。
つまり、この石碑だけは最近まで現役で、それゆえに残っていたということだろう。


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