ダンジリ小屋に夏の始めごろから若者が集まっています。どんな会話をしているのでしょうか。
自宅の居間にいると、太鼓の響きが遠くから伝わってきます。時に、耳を澄まさないと雷と区別がつきにくい日もありますが、今年は太鼓と雷の共演の機会が多いようです。
まだまだ青かったころ、祭りを研究する学問がある、と聞いた時には本当に驚きました。そんな事(失礼m(__)mなさい)が学問になるのかと不思議と半分嘲笑の感を持ちました。
後々、民俗学と言う学問があり、有名無名の研究者がいることを知りました。
一人、知る人ぞ知る民俗学者を紹介したいと思います。宮本常一と言う方です。
正直私は全く知りませんでした。ある日仕事から帰ると、突然母が”テレビで昔の恩師の名前を聞いた”と叫んでいるのです。ほとんど叫びのような声でした。
番組の最後に永六輔さんが一言”周防大島には宮本常一さんと言うすばらしい民俗学者がおられます”という言葉で、母の50年以上も前の記憶がよみがえったと言うのです。
母は師範学校で教育を受けた人で、母を導いてくれた恩師だったと言うのです。
母は生来の弱視で、メガネによる矯正が一般的でなかった小さな村の小学生でした。そこに師範学校を卒業したてのピカピカの先生が赴任してこられたのです。わずかな期間の任期だったようですが、母の視力の窮状に、自宅に来てメガネを掛けさせてあげてください、と言ったそうです。それで母は人並みの教育環境を得ることができたのでした。宮本常一先生はそれから何か所かの学校で教師をして、やがて地方の埋もれた民族の調査に入られ、日本のあらゆる地方を辿り、日本人の忘れられた文化を掘り起こす業績をあげられてきたそうです。
母の教職期間は長くなく、家庭に入ってからは視力の一段の低下もあって時間が止まっていたようです。ですから先生の活躍は露知らず、テレビで名前を聞いたときは本当に驚いたようです。慌てて住所を知りたくって、テレビ局気付けで永六輔さんに問い合わせた同時くらいだったでしょうか、先生の訃報に接しました。
追悼文集を出すとのことで、拙文を私の代筆で投稿してからしばらくの事です。東京住まいだったご家族は、東京を払って周防大島に帰郷する事にし、帰路、奥様は亡き御主人たる宮本常一さんが若き日を過ごした泉州地方に行きたいと思ったらしく、我が家に少し寄らせてください、と言ってきました。
視力の弱い母に代わり、私は奥様と、同じく教え子だった同行の女性1人とを、折しも秋祭りのダンジリ曳行している様子を案内しました。その時はまだ、宮本先生がそれ程の偉業をなしているとは知らなかったくらでした。
子供の頃は地理が苦手でしたが、今はむしろ好きと言えるかもしれません。宮本常一さんの本は数冊読ませていただきました。このような方がいると言うのも驚きでした。ただ私はもともと歴史とかには興味薄の方で、科学とか未来嗜好の癖があります。けれども少しは民俗学にも目が向くようになりました。祭りに関しては血沸き肉躍る事はありませんが。
しかし、これはこれで残していってもらえればいい事だと思います。村が集まって文化ができ、町ができ、市ができます。地方ができて都市ができてやがて国ができた。自分たちの祖先を伝えていけることは喜びでしょう。
亡国の民は悲しい。