倫子的心声~SuperCaliFragilisticExpialiDoCious!

もこもこタマシイ冒険記 会社人編

えがお

2007年10月29日 |  ・+* 逢 *+・



SINGER SONGER 『初花凛々』





たくさん、たくさん書きたいこととか伝えたいことがあるのに、全然追いついていない。
タイムマネジメントてんでダメだなぁと痛感する日々。
そんな、欲張っちゃだめかしら。
でもね、元気に生活してます。充実してます。
毎日が愛しくて大切で仕方がなくて、丁寧に丁寧に暮らそうと努めているんです。


色々な人が心配してくれて、私のことを大切に思ってくれて、仲良くしてくれて、
私は幸せです。


最近また色々行ったり会ったり、これから色々待ち受けていることがあったり。
ぼちぼちアップしますー。中国旅行もそのうちアップしますー。年末までには…^^;


そんなことを差し置いても、今回書きたいことがあった。
素敵な出逢い。人ってどうしてこんなにエネルギーをくれるのだろう。


     


それは確か、先々週の頭のことだった。


ヘルニャン再発で苦しんだ週末を乗り越えなんとか久しぶりの合同説明会に出た後、大学へ行った日。フィリピンからのお客様をおもてなしする手はずで、てんやわんやの心を落ち着けようと生協へ寄って軽くお腹に入れる何かを探していた。

すると、店内の一角の商品棚が目に留まった。

そこには、大学内のあるゼミと墨田区が産学協同プロジェクトの一環で、墨田区の様々な職人さんが作った商品などが置いてあった。

フェアトレード関係で生協にそのうち商品を置いてもらいたいと考えていたので、何か通じるものを感じて商品の数々を見ていると、棚のディスプレイをしていた女の子が話しかけてきた。特に何かを買おう、と思わずに見ていただけだったのでビックリ・ドキドキしたが、ゆるく話し始めたら色々教えてくれた。

彼女は政経学部の4年生で、このゼミにもう4年間関わっているとのこと。よくディスプレイを調節したり様子を見に来ているとのことで、商品に対する愛情や、工房・職人さんに対する尊敬の思いがすごく感じられた。

ちょろちょろ商品を見ながら、喋りながら、そろそろ行かなちゃならない時間になったので結局何も買わずにバイバイ。習慣で、名前だけ聞いといた。



それから1週間以上経って、この前の金曜日のこと。

ちょいとお酒を飲む予定になったので、その前にヨーグルトでも飲んでおこうと思ってまたまた生協に寄ると、その例の棚に彼女がいた!!嬉しかった!!思わず話しかけた。名前の一文字を間違えちゃったけれど、彼女は私の名前を覚えていてくれた!

また会えるかな~とは思っていたけれど、これが多分絶好のタイミングだった。ハイテンションだったし笑。

初めて会った後、興味を持って工房について調べたことや、そのHPで見た商品を数日後に姉がいきなり有楽町のハンズで買ってきたこと(姉には、私がこんな出逢いをしたことや、その商品については一言も言ってなかったからビックリ!とにかく2人、カラオケボックスで仰天した!)を伝えると彼女も喜んでいるようだった。

それからまたちょろっと喋り、今度は連絡先を聞いてバイバイ。自宅へ帰ってから、MIXIにあるというこのプロジェクト(ちなみに『モノ売り、やめました』という)のコミュニティから彼女を上手いこと発見!!繋がった!!やっぱりMIXIってすごいね~。


んでね、彼女の日記を読ませてもらうと、このプロジェクトのことで溢れていて、彼女にとってすごく重要なものなんだと伝わった。消費者としてでも、支援者としてでも、何か役に立てたらいいなと思った。

そして早速、この日の私との再会についての出来事が書かれていて嬉しくなった。私にとっても嬉しかったことが、彼女にとっても嬉しかったことのようで。もっと遡ると、初めて会った日の出来事が日記に書かれていて、更に嬉しくなった。(多分あれは勘違いでなければ、私のことだと思うんだけど…^^;)

その日出会ったこと、話しかけて会話が弾んだこと、商品に興味を持ったこと、それらのことが彼女にとって何か良い影響があったのだと知ることが出来たのね。あの日、雨で、ヘルニャン病み上がりで、かなり気分的に落ちてたと思ったんだけど、後でもう少し明るく会話すればよかったなと後悔してたんだけど、笑顔が良かったのかなぁ。なんだかとっても幸せな気持ちになれた。

大事にしたいな、と思ったのでした。



笑顔、振りまかなくちゃ笑。あぁ素敵な笑顔の花を咲かせていたい。



     


実際に、このプロジェクトに関わる墨田区の工房を訪ねてみよう!というツアーがあると聞いたので、予定を合わせて行くことにした。楽しみ!世界が広がっていく予感…

この産学協同についてはまた時間のあるときに書きます~。そしてツアーも行ったら報告します~。11月中旬だけどね…



あぁ、もしこのブログを彼女が見てくれていたら恥ずかしいな~。
感謝の気持ち伝わってるかな。直接会って言わなくちゃ。







ヘルニア国物語(下)

2007年10月23日 | おもひでポロポロ



     ★こころの持ち方★


病は気から、じゃないけど、気持ちの持ち方って大事だと思う。どんなに辛いことが我が身に降りかかっても、いかに前向きに考えるか。前向きに生きるか。それってねぇ、実際難しいのよ。だって痛いものは痛い!辛いものは辛い!叫びたくなる。泣きたくなる。もう嫌だ!ってね。よくドキュメンタリーで放映される、大病患者が自分の人生を受け止めて明るく前向きに生きてる姿って生半可の力強さじゃないよなって思うわ。実際受け止めるしかないんだけどね。

病は心から、これだ。本当に。全部これから来てる。

ヘルニャンでも色々な辛さを味わった。他人に迷惑や心配をかけてしまう点が、申し訳なくてしかたなかった。気遣いさせちゃったり、急に体調不良で予定変更してもらったりさ。自分に甘えの心が出来て、辛いから色々なことが億劫になって怠けてしまったり。あと、ヘルニアっていう聞こえで笑われたりとかね。ま、いんだけどさ。ちょっと悲しかったね。あ、知らないんだ、って。

それにしても今回ぶり返して、痛みも辛かったが精神的にも堪えた。いろいろな意味で。特に耐え難かったのは、人と会えないこと。どこにも行けないこと。生きているのに、何にも出来ずに寝転んでばかりで誰とも会えない。話したり、出かけたり。今まで何度も風邪やら胃腸炎やら患っては寝たきりになってきたけれども、そういういつかは回復に向かうであろう病気と違いヘルニャンは今後がまったくどうなるか闇。そんな中、次にいつ大切な人々に会えるか保障もなくて、体力もあるかどうかわからなくて、それが堪えた。以前の日記に『最後だとわかっていたなら』を紹介したけれど、まさにあんな気持ちだった。

健康ってなんて大事なんだろう。身体ってなんて大切なんだろう。日々の生活って、友達って、思いやるって、生きるって…とにかく病床に伏せながら、天井を見上げながら様々に考える。って私のいつものパターンだな笑。ポイズンオークの時も相当やばかったけど、何回やっても懲りないタチだわ。

肉体的にも精神的にも、私って弱いんだなって改めて痛感した。高校生のころ、友達が『りんこって身体弱いよね』って言ったことが何度かあった。そのころはそんな意見が心外で、何を以ってそんな判断を下されているのかまったくわからなかった。スポーツだってバンバンしていたし、元気もりもりだし、エネルギーに満ち溢れていたし。でもやっぱり、近年特に、あ・弱いのかもって自分でも思うようになってきた。振り返ってみると確かにあまり丈夫に作られた方ではないな、と気づいた。風邪ひき易いし長引くし、色々患っては回復に時間がかかるし。あんまり言いたくないけどさ。それが自分にとっては普通だったんだけど、健康な人と比べるとね。うんいやでも、私は十分幸せ。誰を恨むでもなく、ねたむでもなく、ひがむでもなく。五体満足に生んでくださっただけで幸せ。

まぁ今までそこまで大病を患ったことがないのが幸いかな。不治の病とか、癌とか。将来はどうなるかまだわからないけれど、生き抜く自信はあるんだ。たとえ死の灰が降っても、生き抜く。やらなくちゃいけないことがあるから。

あそだ、家族のことも。家族のみんながどう思ってるのか直接聞いたことがないからわからないが、きっと私がまた病気してるよ、と見ているだろう。姉は私よりずっと弱そうに見えるのに案外ケロッとしていて丈夫だ。弟も生活は不健康極まりないのに私ほどドラマチックに病気していない。まぁ何が潜んでいるかは実際わからんけどね。ある種、私だけがここまで色々引き受けているのだったら、そえはそれで良いと思う。家族や兄弟の誰かがこんな痛みや辛さを味わうのを黙って何も出来ずに見ているよりは、自分がそれを受け止めていたい。うん、一遍に色々どわっと来られるのは困るけど、実際今は痛みが引いてるからこんなこと言えるんだけど、私ならなんだかんだで乗り越えていけそうな気がするのである。これからまたどんな辛い病気が襲い掛かってくるかわからなくて怖い。けれど強くなるために、その度に学ぶことがあると信じて大人しく享受しようと思う。

しかしお母さんはきっと見ていて辛いだろうな。同じ辛さを味わっていると思う。自分が生んだ子だからね。自分が生んだ子が、苦しんでいる姿を見るのは。だからあんまりそんな姿は見せたくないんだけど、こっそりしていたいんだけど、結局甘えてしまったりさ。やっぱりお母さんだもん!弱ったときは優しくされたい。

私にとってヘルニャンは爆弾。背中に背負った爆弾。いつ爆発するかわからなくて、んでもって一生抱えてなきゃならない。だからそういう表現。でも、あるとき姉と爆弾トークをしていて、それを聞いていたお母さんはどう思ったろう。きっと辛かったろうな。自分の子どもにそんなこと言われたら、生んだ身として居た堪れないよね…あんなこと言わなきゃ良かったと思った。あぁだめな子ども。

一番変わった点はなんだろう。それは努めて心穏やかに生きようとするようになったことかな。マイナスの感情を抱かない。これは病気に悪影響ばかりなのだ。生きていると、外へ出ると、他人と関わると色々なことが見えるね。その一々に、動じず腹を立てず心に波風立てずに過ごす。これがまた難しんだ。今までも努力はしてきたつもり。感情的になってしまって、後からあっ!と気づいても遅かったり。しかし背負ってるものがものだけに、背水の陣と言うか意気込みはかなりのものだ!(抽象的過ぎて理解の度を越えてたらごめんなさいね。)

それに、今を大事にするようになったね。今、この瞬間、この人といるとき。たとえ一瞬すれ違うだけの人でも目一杯の優しさを与えられたら!目一杯の笑顔でいたい!今日という日。今できることを後回しにしない。今日の仕事・今日の汚れを明日に持ち越さない。仕上げる。キレイにする。怠け心ってかなり厄介なんだわ。その積み重ねを作らない。家族に対しても、優しく接するように心がけている。こうやって孝行できるのも今日限りかもしれない、という気持ち。お手伝いできる喜び!思いやれる素晴らしさ!その場その場の精一杯を丁寧に。

自分の身体ってなんのためにあるのか。自分のため?人のため?自然のため?自分自身のことは、きちんとこなす。それも必要最小限に。でも、残りのエネルギーは他の人やもののためにあるのではないか。小学生~中学生時代にオードリー・ヘプバーンが大好きだった。人間に腕が2本あるのは、1本は自分のためもう1本は人のためにある、みたいなユニセフ親善大使として活躍した彼女らしい言葉に感激したけど、いまになってまたいいなぁと思う。折角腕2本携えて生まれてきたわけだから、他人のために思いっきり使ってみたいわ。自分を労わろうとする分を他人のために尽くしてみたい。そんな生き方をしてみたい。だってイケテルじゃん!

とまぁキレイゴトばかりを並べましたが。ちゃんと出来ているなんて思ってないさ。気分屋だし、起伏激しいし。理想ばかりでかく掲げて。でも努力することに意義があるよね。言行一致!一歩一歩、少しずつでも前進していたい。

ヘルニャンになって特に、自分の痛みを通して他人の痛みもわかる。これが一番良かった点だろうか。病気なんて相対的なものではないから、他の人と比べることなんて出来ないがね。やっぱり辛さはわかるようになったのではないだろうか。肉体的なものとか精神的なものとか。それが思いやりの心につながっていくなら、しめたものだぜ。私がヘルニャンになった本当の理由はここだね。








本邦初公開!正真正銘・ともこむのヘルニャン
(2006年11月撮影MRIフィルム)

(これ写真撮るの苦労した。洗濯物干しに吊るして、後ろから光当てて。しかもピント合わないし。面倒なので1枚で諦めた。写りが悪くてごめんあそばせ~)

MRIで撮ったものです。椎間板が押しつぶされ、背側に飛び出て神経を圧迫していますね。他の段の椎間板に比べて、黒く写っているのが分かるだろうか?これは、水分を欠いてしまっているためだとか。ぶしゅっと。かわいそうに…

まぁこれから1年近く経っているわけだから、状況が同じとは言えないけれど多分今もこんな感じで私の腰に居座っていると思われます。うふふ。


《ちなみに例によって、お得意の造語》
…少しでもヘルニアをかわいいものに仕立て上げようとする私の策略による。
ヘルニアの俗語=ヘルニャン
ヘルニア持ちの人=ヘルニャー
ヘルニア闘病歴=ヘルニア国物語
 (これはヘルニャーの間でブラックジョーク的に使われている用語)



今回ヘルニャンについて書く気になったのは、なんだろ。なんか書かなきゃって思った。ぶり返して。ヘルニャンなしでは語れないな、人生。そりゃ発症しなかったなら嬉しいけど!こんな痛み一生おさらばしたいけど!ヘルニャンがあったからこそ、得られたものって沢山あるのだ。この数日の間に考えたこととか見直したことがたくさんあって、きっと自分の中で色々変わった。たぶん、良い感じに。また痛みが引いたら大事なことを忘れてしまうかもしれない。けれど次に同じことを繰り返したら『今度こそ』はないと思っているから、もう二度と忘れないように、ぶれないようにしなくてはならにゃい。試練だわ。


あぁ、また長くなってごめんなさい。読んでくださった方、いらしたら本当にありがとうございます…本当は1つの記事で仕上げる予定だったんだけど、制限文字数(1万字)をゆうに超えてしまったので上・中・下に分けました。かなりさらけ出した感もりもりで、締めます。



ヘルニア国物語(中)

2007年10月22日 | おもひでポロポロ


     ★原因★


MIXIには椎間板ヘルニアだけでなく、腰痛にまつわる様々なトラブルや病気のコミュニティがあって、それらに苦しむ人々の数に正直驚いた。それほど、腰痛とは一般的な病気なのね。二足歩行の宿命だわ。世に腰痛持ちは多し、腰痛専門の医者の数も多し、みたいなエッセーを読んだことがあったな。中年~年配の方だけでなく、10代・20代のヘルニア持ちの人も数多くいてビックリしたと同時に、同年代の仲間がいることに安心した。みんなそれぞれ大変な生活や手術・リハビリを紹介していて、これは心して掛からないと、と覚悟を決めた。

ところで、何故私がヘルニアになったのか。まぁ昔から腰痛持ちだったのは知っていたけれど、一番はヘルニアになりやすい体質だったということだ。最初に訪れた整形外科で撮ったレントゲンを見て、私は普通の人より腰椎が一つ多い、と診断を受けた。詳しい説明は省くが、人の背骨は頚椎(7こ)+胸椎(12こ)+腰椎(5こ)の計24この骨が連なり絶妙なカーブを描いて出来ている。私にはこの、腰椎が6こあるのだ。この時は腰部だけしか撮っていなかったので、肋骨が一つ少ないのか腰椎が一つ多いのか確実には分からないが、まぁ腰椎の方だろうという結論に。恐らく、腰椎の下の仙骨から分離して出来た腰椎じゃないか、と言われた。

え、背骨が1こ多いの!?とその時初めて知った事実にかなりショックだったが、これは実はあまり珍しいことではないらしい。腰椎が多い人はたまにいるよ、と言われた。Google検索すると、これがかなり出てくる。で、腰椎が多いこととヘルニアになり易い体質との関係性は。詳しくはこちらのサイト(腰痛ナビ腰痛治療相談)に質問返答形式で書かれているので興味のある方は読んでみてください。通常の数の人よりもやはり、腰+椎間板に負担がかかり易いみたい…

もう一つ、腰椎の数と腰痛の関係を書いていたサイトがあったのだけれど、最近見たらその記事は消されたみたいで直接リンクを貼れないので、その記憶を頼りに簡単に説明。実際、科学的に確固たる根拠があるのかは不明だが…

人は、二足歩行をするために腰椎の数を減らす進化をしてきた。昔、人の祖先だった動物は腰椎が7こあったそうな。それがアウストラロピテクスになると6こに減り、ホモサピエンスは5つにまでなった。腰椎の数が多ければ多いほど、ねじりがきく。よくひねることが出来るのだ。しかし人は重い頭部を持ち上げ、両手を自由にし、二足歩行をするために、その背骨のねじり力を犠牲にしてまで、腰椎の数を減らしたそうな。で、その名残か何なのか今でも腰椎を6つ持つ人が生まれるらしい。そうか~アウストラロピテクスと一緒なのか~笑。通常通り5つしかなかったら、もっと背が低かったのかな~、それも嫌だな。この話を家族にしたら、その日から姉が私を『ピテ』(アウストラロピテクスのピテ)と呼び出したので、私は対抗して『サピ』(ホモサピエンスのサピ)と呼んでいる。

うん、確かに腰は昔から人より物凄く柔軟性があり、以上にねじることが出来た。腰をひねるストレッチは驚かれるくらいひねれたし、ひねるのが気持ち良かったし。腰をぐりっとやらないと落ち着かなかった。しかしそれが背骨に相当な負担をかけていたとは…ヒー。

余談だけれど、んでもってあんまり書くのもどうかと思うのだけれど。私ってちょいと骨格形成がおかしいんじゃないか、と自分で感じる。おかしい、というかあまり普通でない感じ?いや、普通でないというとじゃあ奇形(あぁこの言葉すきじゃないのだが)なのか、と聞かれるかもしれないが、そこまでじゃなくて。必要な骨はちゃんとあるし、一応形もノーマルだし、正常な働きをしているし。多分柔らかすぎるんだよね。関節が特に。手首とか腕とかやたら変に曲がる上、今は無理だけど開脚とかも。いや、骨を繋いでいるじん帯の問題かしら?スポーツ選手とかバレリーナとか特殊な身体能力持った人もこんな感じなのかもしれない。よくわからない。でも変なのだ。中国人に生まれてたらきっと雑技団に入ってたな。もしくはサルティンバンコとか笑。ダカラナンダって感じだが。

話は戻り、多分、ヘルニアになる原因は他にもいろいろあって、複合的になってしまったのだろう。水泳とかバレーボールとか空手とかバックパック旅行とか長時間移動とか山登りとかバイトとか…今思えばかなり脊椎に負担を掛け続けていたわ~。こえこえ。


     ★その後の調子★


その後、ヘルニャンがどうなったかについて。まぁ基本的に飛び出したもんは、切らない限りなくならないらしい=一生の付き合い。たまに自然に無くなっちゃうこともあるそうだが。発症してからはまじで辛かった。1ヶ月はコルセットが手放せなかった。冬だったから寒さがかなり脊椎に堪えたし、低気圧や雨の日が特に辛かった。バイトは当然しばらくの休みをもらって、就職活動もやる気が起きなかったし、とにかく安静を心がけた。

これからずっと、一生こんな生活が続くのか、と思うと心が沈んでひどかった。満月の夜に海で踊ることも出来ないし、山登りも出来ないし、バックパック旅行も出来ないし、運動も出来ないし、子どもも産めないだろうし、何もかもが出来なくなると思ったから。とにかくそれくらい症状がきつかった。

生理前や生理2日目までは一段と痛みが増した。朝起きるのが怖い。何もしたくない。くしゃみが怖くて出来ない。顔を洗うために腰を曲げて自分で立つことが出来ない。トイレで踏ん張るのさえ痛くて痛くて便秘になりそうだった。ビクビクしながら生活していた。腰に重くまとわりつく痛みが、とにかく憎くて仕方がなかった。スカートを脱ぐように、手で取り去ってやりたかった。たった1箇所、身体の要が壊れたら何も出来なくなることの恐ろしさを知った。

それから春になり段々暖かくなるにつれて、腰の痛みが和らいでいき、コルセットもモーラステープも痛み止めもいらなくなった。春万歳!!!って思った。暖かいって、日の光って、なんて素晴らしいのだろう!!!って多分誰より感激してたと思う笑。

普通に歩けるし、走れるし、旅行だって出来るし、軽い運動も出来るし、それでも気をつけながらだけど、とにかく痛みがないのが嬉しかった。健康ってなんて大切なんだろうって涙が出るくらい感謝した。それから、ちょっと無理をしたときや、生理のときには腰痛が出ることもあったが、発症時ほどではなかった。大分回復したのかな、と思った。


しかし。それはつい先日のこと。10月頭の話。


ある日、何か脊椎が痛いな~と思っていたがあまり気にせず1日の用事を済ませた翌日起きると、またあの発症時の痛みが襲ってきた。あの時ほど酷くはなかったが通常よりずっと痛かった。一気にまた怖くなって、後悔して、これは悪夢だと思った。またあのつらい生活に逆戻りかと思うと辛くて仕方がなくなった。完全に油断していたのだ。

その日は1日寝たきりだった。翌日も。なぁんにも動けなかった。なぁんにも出来なかった。ひたすらひたすら天井を仰いで痛みを受け止めた。しばらく使っていなかったコルセットを押入れから取り出して、また腰に巻く生活が始まった。バイオシャークも飲み始めた。

痛みがぶり返した原因はいくつか思い当たるものがある。無理をしていたのもあるだろう。自分でも疑問に思うことが多々あった。それに、冬の到来がおそらく再びあの痛みを呼び起こしたのだ。あの寒さ!低気圧!これほどヘルニャンに堪えるものはない。これから益々寒くなるのに…それにこれから一生冬が来るのをビクビク待っていなくちゃいけないのかと思うと、辛くなった。あぁ冬のない国に暮らしたい、と思った。

ただ、今回幾分以前より楽観できたのは、また時が経てば多少痛みは和らぐと感じていたから。絶えずこの痛みが続くというより、ヘルニア部分が炎症を起こしているような状態で、ある一定期間を安静にしていれば治まるような気がしていた。勿論それは治った、という意味ではないし、もしかしたら更に悪化しているのかもしれないが。

それで実際、2週間ほど経った今はある程度痛みはひいてコルセットなしでも学校へ来れるほどに回復した。(落ち着いた?)それでも勿論油断はならない。無理は出来ない。いつどんな拍子で悪化して、もっとヘルニアが飛び出してしまうかわからないから。それを思うと怖い。あぁ完全に振り回されている。




ヘルニア国物語(上)

2007年10月22日 | おもひでポロポロ

書きますか。椎間板ヘルニアについて。あんまり公言してこなかったけれど一生の付き合いになりそうなのでこの際ブログにも登場してもらいましょう。


椎間板ヘルニア…その響きはどう聞こえるだろう?ばばくさい?痛そう?うん痛いよ。『ヘルニア』なんて、昔読んだブラックジャックの一ストーリーで、腸がへそ部分を押し出してボコッと飛び出しちゃう病気、みたいな認識しかなかったのにね。まさか自分がなるなんて思いもよらなんだ。しかも椎間板。なんじゃそりゃ。


     ★物語の始まり★


発症は、ちょうど1年前くらい。2006年11月の半ばだった。あの日は、生理2日目だったけど休むことも出来ず披露宴の配膳バイト(2件)に行って、朝から晩まで立ちっ放しで、8人分もの料理や飲み物を抱えながら、(腕の力ないから女の子は腰を逸らせて抱える)広い会場をあっちへホイホイこっちへホイホイ走り回って。夜、バイトが終わる頃には腰痛が半端なくて、ちょっとしゃがんでたらオジサンの先輩に叱られて、辛すぎて不覚にも泣いてしまって。何がわかるんだ!って思ったけど何も言わなかった。同じ事務所の人達がお酒飲み飲み、優しく慰めてアドバイスくれて、働くとは何か、配膳とは何か、その他もろもろ熱く語ってくれて、色々な発見をした日だった。

そして翌日の朝。同じ場所でまた披露宴のバイトが入っているのに、目が覚めて身体が動かない。腰に激痛。上半身と下半身がちぎれて別々になったんじゃないか、と思った。起き上がれない。動けない。歩けない。階段が下りられない。トイレさえ辛い。とにかく何をしても痛くて痛くて涙が出るくらいだった。何が何だか分からなかった。生理のときの腰痛とは何かが違うことは分かった。

それでも、バイトは登録制の配膳バイトで派遣先の電話番号も知らされてなかったから、無断で休むわけにもいかず、事務所は日曜日で連絡もつかず、仕方なくとりあえず状況を説明しにバイト先(お台場)まで直接行くことにした。今思い出してもよくやったと思う。本当に痛かったのに、責任感から自分の身を奮い起こした。歩くのも慎重に一歩一歩、おばあちゃんみたいだった。いや、実際に何人ものおばあちゃんに先を越された。自分の身体、なんだって思った。階段さえ満足に昇り降りできないんだもの。

何とかお台場のホテルまで着いて、向こうの責任者に事情を説明してバイトは休むことが出来た。腰痛はこの仕事には馴染み深いものだから、向こうもすぐ了承してくれたのが助かった。無理矢理働けって言われてもきっと逃げ出してただろうけど。

また来た道を戻って自宅へ帰った。本当に辛かった。それからはとにかく寝た。痛みから解放されたかったから。でも寝てても痛みは襲ってきた。悪夢だ、と思った。中学時代にバレーボールでかなり腰に負担をかけていたため昔から腰痛は度々あったから、なんとなく覚悟(?)はしてたけど、こんなにひどいもんだとは想像もしていなかった。

翌日、母に連れられて病院へ行った。整形外科だ。診察をして、レントゲンを撮った。寝転んで真っすぐにした脚を先生が胴体の方へ曲げるんだけど、それが90度にもならないうちに腰に激痛が走った。腰椎の間隔が狭くなっていることからも、椎間板ヘルニアの疑いがある、と言われた。あ、やっぱり、と思った。

1週間後、市内のMRI設備がある別の整形外科に行って今度は腰部のMRIを撮った。レントゲンでは軟骨質の椎間板が写らないからだ。(この間、学校は休んだ。授業にまったく出られないのが本当に辛かった。)ちなみにMRIを撮るのは2度目。浪人時代、脳のMRIを撮ったことがある。初めて見た自分の脳はきれいだった。何の異常もなかったしね。私が脳に興味を持つようになった一出来事。その年の年賀状のモチーフにしようと思っていたのに、病院にフィルムは没収された。強引に貰っておけば良かったな笑。

その腰椎のMRI写真は、見事に、私の椎間板が飛び出して神経を圧迫する様子を写していた。そして医師から椎間板ヘルニアです、と宣告された。ヘルニア国物語が幕を開けた。


     ★治療★


手術するほど深刻ではないと言われたので(背中を10センチも切る手術は嫌だ、とも思った)、リハビリをして様子を見ましょうということになった。モーラステープを患部に貼り、コルセットを装着して、痛み止めを処方してもらってその日は帰った。牽引は怖いと思ったし、そんな引っ張って治るようなものだとも思えなかった。それで余計にひどくなったら元も子もない。結局1年経った今も、一度も牽引に行ったことがない…まずいかな。

コルセットは、腰に巻きつけるようにマジックテープで留め、その上から骨盤と腰椎を固定するためのバンドで留める。ガチガチに腰を固定するから、椎間板への負荷が幾分減りラクになる。2006年の冬はコルセットと共に過ごした。しかしコルセットをいつも装着していると、腹筋や背筋が弱くなってしまい、本来の自分で支える力が弱まってしまうと知ったので調子の良いときはなるべく外していた。それに腹回り腰周りが余計に(笑)太くなりズボンのボタンが留められなくなって困った。椅子に座ったときにコルセットが後ろから見えてしまうのも嫌だった。トイレの際も面倒。背中に変な線出ちゃうし。まぁでも痛いときはそんな事言っていられないのだけれど。

痛み止めは幸い、このときに処方されたものだけで何とか過ごせた。今はもう飲んでいない。モーラステープはヘルニャー御用達の湿布らしい。市販はされていないため、一々処方箋を出してもらわねばならないが、これも今のところ2回しか貰っていない。また貰いに行かなくちゃ~と思っていたら、北海道から昨年末に亡くなったおばあちゃんが使っていたモーラステープが大量に送られてきた!ラッキーである。

腹筋と背筋の力が弱くなっているから鍛えろ、と言われたが、腰が痛くてどうやって腹筋運動をすれば良いのか分からなかった。無理して鍛えたら余計に悪化するんじゃねべか。なるべく丹田に力を入れたり背筋を伸ばしたり、日頃の何気ない動作から気をつけるようにした。背骨のS字カーブが緩いですね、とも言われたので、背骨を引っ張ってカーブをつける大腰筋を鍛えるストレッチを始めた。

それと、母親の知り合いには腰痛持ちの人が多く色々な情報を仕入れてきてくれた。サメの軟骨を飲むと腰痛・骨形成(?)に効く、という話を聞き通販で買ってくれた。バイオシャークと呼ばれるサメの軟骨粉末と、錠剤だ。詳しく値段を言ってはくれなかったけれど、これは高額なのでかなり多く出費してくれたのだと思う。軟骨を飲んで実際、椎間板復活に効くのか疑わしかったが、それから服用に努めた。

しかしこれ、特に粉末の方は最初飲むのにかなり苦労した。何しろ粉末が細かすぎて、普通に飲み込めない。喉に張り付く感じ。大量の水と一緒に、チョビチョビ流し込みながら服用しなければならない。(一度、喉に粉が水と半分混じって変な状態になって詰まり、呼吸困難に陥ったことがある笑。ブッホブッホ粉を空気中に吐き出して事なきを得た。その間飼い犬がめちゃめちゃ不思議そうな顔で私の様子を見上げてた笑。)その上、かなり魚臭い。むわっと。これがサメの匂いか~みたいな。今は大分慣れたかな。

あと、連日バイオシャークを1袋服用してたら、ある日胃が痛くてチクチクし出した。多分かなり胃に負担のかかるものなんだろう。親も一緒に飲んでいたのだが同じように不調を訴えていたから。それからは半分ずつとか2日に1回、として飲んだりした。結局その後ヘルニアの調子は大分良いため、全て飲みきらずに(多分まだ4分の1くらいしか服用していない)今も棚に入っている。生理で痛み出したりしたら飲むようにしている。