12月26日
先日行った「山の辺の道」の続きを歩いてきました。
スタートは崇神天皇陵だけど、ひと駅手前の巻向駅で下車。
大和王権の発祥の地です。
ここで生まれ育った人と、大和王権を教科書だけでしか学んでなくて現地を知らない僕とでは、印象に大きな違いがあります。
2000年近くも前なんだから、風景が大きく変わっているのは当然だけど、それでも感じるものはあるし、行くと行かないとでは大違い。
本来は「纏向」がみたいだけど、そもそも「まきむく」とは読めない。
「纏」に一字だと、江戸時代の町火消しの「まとい」
歩いていたら、偶然、町の消防団の櫓(やぐら)と、そのてっぺんに古そうな半鐘も見つけたけど、「纏向」とは関係ないよね。
北海道にも難しい漢字の地名は多いけど、それはアイヌ語由来の地名からの当て字なので、知ると「なるほど」とすぐに納得できるけど、関西にはとんと予想もつかないものが多く、難易度も遥かに高い。
そうなると、ゴールに設定した「三輪」も、素直に「みわ」と呼んでいいのかと、胸がザワザワと疑わしくなる。
三輪にある「おおみわ神社」は「大神神社」と書くんだから混乱しちゃうけど、理由を知りたくなる気持ちが湧いてくる。そういう気持ちに自然となれるのは、いいことだと思っています。
地図の相撲神社の位置を、すっかり間違えてしまい、ゆるい坂とはいえなかなかの距離を遠回りしたあげくに、相撲神社を二度訪問しちゃいました。
この日は、途中小雨にあったりした中、滑りそうな石畳に気をつかいながらだったけど、37000歩を疲労感なしで歩きました。
過去の肉離れで右のふくらはぎが少し変形していて、むくみやすくはなってるけど、仕事の引退後にもこれだけの健脚を維持できててよかったです。
相撲神社は、大和の国に力自慢がいるとの噂を聞いた垂仁天皇が、家来の中の力自慢・野見宿禰(のみのすくね)を対戦させたところで、それが初の天覧相撲だったと言われています。
野見宿禰は、殉死を禁止した垂仁天皇に埴輪を代わりに埋葬することを進言したことから、この地は埴輪の発祥の地でもあるのです。
垂仁天皇といえば、「不老長寿の果物を見つけてこい」と家来の田道間守(たじまもり)に海を渡らせ人だけど、その時(インドあたりから)持ち帰った「橘」を植えたのもこの相撲神社のあたりで、「みかん栽培発祥の地」でもあるそうです。
以前、垂仁天皇陵を訪ねたときに、垂仁天皇と殉職した田道間守のお墓が、お濠の中に小さな島のように在ったのを思い出していました。
町の境い目とか意識してなかったけど、今回は「桜井市」の中がほとんどだったと思う。
そういえば、北海道でお世話になった獣医さんが奈良県出身の「桜井さん」で、こういうところで育った人は逆に北海道のような土地に憧れたりするのかなぁ とか思ったりもしてました。
このへんも大小の古墳だらけで、地図上に古墳を見つけると「数百メートルなら寄ってみようかな」という気持ちがムラムラと湧いてくるけど、それをしていたらきりがない。冬は日が短いし、夕方5時ころには灯りがいっぱいあるところに戻らないといけないしね。
今回も、人のいないところが多かったけど、大兵主神社(だいひょうずじんじゃ)別名・穴師座神社(あなしにいますじんじゃ)では、薄暗がりに黒い服のおじいさんが居て、よく見たら三脚を立てて撮影中でした。
一瞬、妖怪かと思っちゃってビビったけど、「鳥ですか?魚ですか?」って訊いたら、「浮いている落ち葉と沈んでいる落ち葉がいいでしょ?」って、一眼のデジタルカメラの画面を見せてくれました。僕も真似をしてやってみたけど、うまく撮れなかったな。
物静かで、威張った感じはちっともなく、品のいいおじいさんでした。
細い道で、たまにすれ違う人の中には、登山者のように「こんにちは」声をかけてくれる人も多くて、
それって、寂しい道ですけど「わたしは怪しいものではないですよ」って意味もあるんだろうけど、黙ってすれ違う人も少なくはないし、こちらから積極的に声をかけていいのかはまだ迷っているところなので、でも軽く会釈だけはするようにしています、
小雨の降る中で「桧垣神社はこっちでいいのですか?」と声をかけてきたカップルがいて、
「すぐそこです。雨宿りすることもあります。雨、大変ですよね」と答えると、女性が陽気に笑ってました。
天気予報には雨マークはなかったし、女性はとくに、髪の毛とかお化粧とかが崩れちゃうし、イライラする人もいるんだろうけど、軽く笑えちゃうのはいいよね。
道端には、あちこりに万葉集が刻まれた小さな歌碑がひそやかに立っていて、「万葉集」を教科書で習ったことを、歩きながら肌感覚で思い出すのです。
柿本人麻呂とか額田大とかね。とくに中学校の先生が(女性)が額田さんで、その名前に誇りを持っているようでした。僕が在学中に結婚して苗字が変わったんだけど、そっちの名前は記憶にないです。
声の低い女性で、とても印象に残っている先生のひとりでした。
狭井神社(さいじんじゃ)あたりから急に人が増え始めました。
調べたら、そこは大神神社の摂社で、そちらから流れて来た参拝客でした。
大神神社はとても大きな神社で、さらに人が増えて、参拝客以外にも、初詣の準備作業をする人も多かったです。
そのあとに食事をした店で、店員さんが大神神社のことが書かれた冊子を見せてくれて、ヘビと縁の深い神社なのを知りました。
お店のかたが見せてくれた冊子には、大神神社のことが紹介されていて
読むと、ヘビとの関わりの深い神社だと知ることが出来ました。
御神木には、白蛇に姿を変えた大物主大神は棲んでいると言われているんだそうです。
だから、御神木にも参拝者がいっぱい集まっていたんだね。こんなに人気のある御神木は見たことがなかったし、お供え物にはヘビの好物の卵がいっぱいありました。
拝殿にあった、矢を咥えたヘビの大きな絵馬は、新年にまつわるものかと思っていたけど、もともと白蛇の伝説があったのでした。
その店に入らなかったら、なにも知らずに帰ってきちゃってた。年末のこのタイミングで、次の干支のヘビとの関わるの深い神社を偶然訪れることになり、なにかの縁だと感じるし、来年が少しでも良い年になるといいな。
朝8時に、JR万葉まほろば線の巻向駅に到着
巻向。いにしえからだと「纏向」らしい。どっちにしても「まきむく」とは読めない。
このあと、あの山の麓を歩きます。
ここは、電車から見えたので、まっ先に行ってみました。
大和政権時代の、なんらかの大きな建物群の遺跡が見つかり、柱だけが再現されています。
演歌歌手かな?桜井市出身って書いてある
箸墓(はしはか)古墳が見える。
諸説ある中に、箸墓古墳は卑弥呼の墓というのもある。
國津神社
この日、最初に出会ったこの神社は、箸墓古墳のそばにありました。当地訪問のご挨拶代わりに、お参りしました。
屋根の下に山車があった。
ホケノ山古墳
崇神天皇の皇女(「皇女とは、天皇の奥さんか娘のことだそうです)の墓と言われている
復元されたものだと思うけど、石がゴロゴロと並べられている
ホケノ山のてっぺんから、信仰の対象になっている三輪山を眺めました
こっちに見えるのは、箸墓古墳
ホケノ古墳の麓から見た、箸墓古墳
巻野内石塚古墳
小川塚西古墳
平塚古墳
古墳だらけで・・・、小さな古墳とか、名前が間違っていたらゴメンナサイ。
消防団の櫓(やぐら)が見える。
半鐘が見える
消防団の建物の向かいに、なんとも雰囲気のある家が。
こういう古い家にも、たくさん出会いました。
地図を読み間違えて相撲神社に行く途中に、見つけた石碑
このあと、景行天皇陵にも行ったけど、その住まいがあったということかな。
宮跡の周りはこんなかんじ
初の天覧相撲があったという相撲神社が見えてきた
予想外に小さな神社だった。
ブルーシートの下に土俵があるんだね。
徳勝龍、令和2年の優勝記念碑
平幕の、しかも幕尻の番付で優勝したんだよね。奈良県出身だったんだね。
地図を読み間違えたせいで、相撲神社の奥に大兵主神社もあったのに、寄らずに降りてきてしまった。
あとで、もう一度来ることになっちゃいました。
この木は・・・?
橘 かな?
土建屋の砂の山まで古墳に見えちゃった
景行天皇陵。大きい!
ヤマトタケルノミコトは、景行天皇の息子なんだと初めて知りました。
景行天皇陵のすぐ近くに、崇神天皇陵があります。こちらも巨大です。
すぐ近くの車道は、狭いけど交通量が多い
古墳の向こうに三輪山
お濠に小さな島があったけど、垂仁天皇陵の田道間守のお墓みたいに、殉職した人のものだろうか?
しかし、こんなに目立つのに、どう検索しても何も出てこない。気になる・・・
景行天皇陵も崇神天皇陵も、長さが300mくらいあって、トップ10に入る巨大さ。
最大の通称「仁徳天皇陵」は平らな土地に在って住宅地も迫っているので俯瞰で観ることは難しい。堺市役所の展望室からで全貌は見えにくいのです。
そのてんこちらは、周囲は田畑で高い建物もなく、奥の山に向かってゆるゆると坂道になっているので、全体が見やすいのです。
再び景行天皇陵。今度は、裏側に来ました。
奥の大和三山は、雲がかかって見えなかった。残念。
古墳の周りで花壇作りなどの作業をしている人たちがいました。
雰囲気も明るくて、楽しそう。
山の辺の道のあちこちに万葉歌碑がある。
額田王の歌のようなので調べたら、「三輪山が雲に隠れいて見えず、悲しい」ってかんじみたい。
僕は、さっきの展望所から大和三山が見えなくて、惜しい思いをしたところでした。
神籬(ひもろぎ)遺跡 という看板があったので寄り道したけど、わかるのはこの石碑だけでした。
道標など、いっぱいあるので安心
また坂をあがって、相撲神社に再び来ました
相撲神社の左を通り抜けて・・・
穴師座兵主(あなしにいますひょうず)神社、別名・大兵主(だいひょうず)神社の参道
三人の神様を祀っているので、魅力的な拝殿の後ろにある本殿は三棟。
その屋根が三つ並んでいるのが見える。かっこいい!
なので、参拝したあとに後ろにまわってみた。
拝殿と本殿を結ぶ階段
誰もいないと思い込んでいたので、びっくり!
しかも、微動だにしないので、妖怪?かと思った。よく見たら、三脚を立ててた。
水面を指差したので「鳥ですか?魚ですか?」と訊いたら、「落ち葉がね、浮いてるのと沈んでるのとで綺麗でしょ?」と一眼のデジカメの画面を見せながら教えてくれました。
乙な老後ですね。
真似して撮ってみたけど、うまくいかなかった。
落ち葉を掃除している人に「お疲れさまです」と声をかけて、穴師座兵主神社をあとにしました。
山茶花を(さざんか)見たのは初めてかも。冬の花だということは、大川栄策の演歌で知りました。
♪咲いて 悲しい さざんかの宿♪ 歌っちゃうよね。
相撲神社の裏を通って檜原(ひばら)神社に向かいます
相撲神社は、穴師座兵主神社の摂社という位置づけなのも知ることが出来ました。
万葉の歌碑によく出会います。
柿本人麻呂が巻向の川音を詠んだ歌みたい
廃屋にも出会います
年老いてスロープに手すりを設置したものの、ほどなく天に召された・・・という物語を想像してしまいました。廃屋の前の手すりだけが目新しい。
水の音がそこかしこから聞こえてきて、水の豊かな土地なのを感じる。
万葉の詩人たちも、そこをテーマにいくつもの歌を詠んだのでしょう。
ナポ君?
奈良県警のマスコットキャクターみたい。遷都くんよりカワイイ。危険を感じた子供などが、駆け込める家ということかな?
雨が降ってきた。
檜原神社に来ました
不思議な姿だ。奇妙と言ってはいけないのかもいしれない。
拝殿も本殿もない、横に三つ並んだ鳥居が繋がっている、しかもその鳥居には格子があってくぐれないのです。
この鳥居は、伊勢神宮の式年遷宮のときに出た、古材から造られたものでした。
檜原神社は伊勢神宮と深い関係にありました。
崇神天皇の時代、皇居内で祀られていた天照大御神をここに移しました。その後各地を巡ったあと、最後に落ち着いたのが今の伊勢神宮。
なので、ここは「元伊勢」とも呼ばれているそうです。
三ツ鳥居の左にある小さな祠は、ここに移すことを託された、皇女「豊鍬入姫(とよすきいりひめ)」が祀られています。
檜原神社の境内の大きな木の下でしばらく雨宿りをして、また歩き始めます。
濡れた枯れ葉が滑りやすくなっちゃってる
濡れた石畳も滑るから注意しなきゃ
玄賓庵(げんぴあん)
靇神神社(おかみのかみじんじゃ)気になったので細い坂をあがってみた
池の向こうにも祠が見えたけど・・・
ここから先は、ちょっと怖くて、引き返しちゃいました。
滑りそう・・・
「貴船神社」の、真新しい小さな祠がありました。京都の貴船神社との関係とか、よくわかりません。
狭井神社に来ました。
この辺から参拝客が多くなってきた。
ここは、大神神社の摂社で、そっちから流れてきている人たちなんだと、あとから気がつきました。
二本の柱に注連縄(しめなわ)これが鳥居の原型らしいです。
大神神社に向かっています。
この立派な建物が、大神神社の拝殿かと思ったら、勘違いでした。
山の辺の道を境内の逆側から入ってきちゃってるからなぁ・・・
ここは「祈禱殿」でした。
初詣の準備が進んでいました。
こちらがほんとうの拝殿。
僕は、この日まで、大神を「おおみわ」とは読めなかったし、本殿が三輪山(みわやま)そのものであることも知りませんでした。「神」を「みわ」」と読むことからして深いよね。
日本の最古中の最古の神社なので、知識の超浅いミーハー初心者としては、検索して公式サイトで由緒を読むと「へぇ~~、そうだったんだー」とても面白かった(感動あり)です。
。
御神木を拝む人も絶えることがなく、こんなに人気のある御神木は初めて。
その理由は、あとから知ることになりました。
紅葉のピークには、石段の途中で足を止めて参道を振り返り、カメラを向ける人も多かったと思う。
平等寺に来ました
こんな旗が立っていたので、帰ってから調べてみました。
薩摩の兵を率いて関ヶ原合戦に西軍として参戦した島津義弘は、敗れて薩摩に帰る途中で追っ手から身を隠していたのが平等寺だそうです。
敵から逃げながらの、関が原から奈良、奈良から大阪、そこから船で薩摩まで。
陸路だけではなく船でも襲われたらしいから、少し考えただけでも神経がおかしくなりそう。
関が原の「脇役」と言っていいのだろうか。少なくとも主役級ではない武将たちのことを、もっと知りたいとも思ったのでした。
平等寺を創建したのは聖徳太子。像がありました。
平等寺も、廃仏毀釈から復興したお寺でした。
崇神天皇の宮があったところに来ました。
ということは、檜原神社に移り、最終的に伊勢神宮に落ち着いた天照大御神が最初に祀られていた場所は、ここということになるのかな?
磐座(いわくら)
祭りごとを行うときに、神さまに降臨してもらった岩が四つ並んでいる。
磐座は「岩倉」とも書き(なるほど)、調べると、御神木のように巨岩や奇岩を崇拝する意味も少しわかりました。
金屋の石仏
もともとは、さっき訪ねた平等寺にあったのですが、廃仏毀釈の厳しい時に運び出されて生き延びた石像でした。
喜多美術館は、年末年始の閉館中
かつての伊勢街道。雰囲気が残っている気がする。
と
海柘榴市観音堂に来ました。
海柘榴市ってそもそも読めないんだけど、「大阪市」みたいな地方自治体?だと思い込んでいた。
「つばいち」と読む。「市」だけで「いち」と読むのに、前三つの漢字三文字で「「つば」って読むなんて・・・
古くから、すぐ近くを流れる大和川の水路と陸路、両方の交通の要衝で、「市」が立って賑わったので、こういう地名なんだそうです。
、
いいのかなぁ・・・と思いながら、お参りのあと賽銭口から撮りました
観音堂と軒を重ねるようにキレイなトイレがあって、助かりました。
ベンチもあったので、ただボーーッと、ひと休みしました。
大和川
大和川についても、大阪に来る前はほとんど知らなかった。江戸時代の付け替えとか、そこからの新田開発や木綿栽培とか、土砂の流入で境港の衰退とか・・・
そもそも「大和川」なんだから、奈良つまり大和が源流なのも、ここに来て改めて気がついた(愚か)
日本で指折りの「汚い川」らしく・・・それって、もっと下流に行ってからの水質なのかな。
大和川の堤防の手前の石柱に「左 いせ(伊勢)」と刻まれているのが読める。
サギのエサになる魚が棲んでいるんだから、この辺は水質が悪いとは思えない。
土手の上に、「仏教伝来之地碑」が立っていた。
交通の要衝でもあるこの地で、経典をたずさえた百済からの使節が、大阪に上陸したあと大和川を遡ってここに着き、天皇の宮に行ったことが仏教の始まりもあった、ということでした。
土手の下
ドキッ!としたわ
万葉まほろば線の短~~い鉄橋の下のレンガに食いつく自分
向こうに酒樽が見える
酒造りの歴史も深く、大神神社のに祀られている大物主大神(おおものぬしのかみ)は酒の神でもあるそうです。
ここは素麵のお店でした。
「素麺」という字が読めます。
古くから素麺の起源は三輪に在り、伊勢参りに向かう人たちも素麺を「名物」として食べたそうで、大神神社では、素麺に関する神事もあるみたいです。
この建物はなんだろう。右には「イノウエ薬局」とある。
気になったけど、わからなかった。
ただただ、趣を感じる建物を撮ってみた
瓦屋根が歪んでしまっているけど・・・
玄関先の「水」とはなんだろう。昔の防火用水かな?
大神神社の拝殿からはかなり離れているところに、一の鳥居がありました
鳥居のそばに小さな石橋。
昔は小さな川が流れていたのかな?
近くに、度肝を抜く大きさの大鳥居が立ってた
デカい!
土台も大きい っていうか、こんな土台のある鳥居も初めて見た。
高さが32mと書いてあったから、ビルの10階以上の高さだ。
桜井市埋蔵文化財センターに来ました。
と思ったら、ここは体育館でした。あんな屋根なのにねー。
こっちだった。
田んぼの遺跡に残っていた足跡を、石膏でとったもの。
古代人の体温が伝わってきそうな気がするのです。
三輪素麺を食べられるお店を探したけどわからなかった。
おみやげとして売っているお店はあったんだけどなぁー。
腹ペコで入った「利休庵」というお店。
お蕎麦も炊き込みご飯も美味しかったです。
ここの人が、大神神社のことが書かれている冊子を見せてくれて、そこで初めて知ったことがいっぱいありました。勉強不足過ぎだよね・・・ありがとうございます。
朝早く出てきたけど、今回もすっかり暗くなってしまいました。
三輪駅から帰ります。
下校途中の高校生がたくさんいて賑やかでした。
みなさん、それぞれにそれぞれの良い年越しを。
そして、良い年を迎えてくださいね。