名もなき旅の記録

名もなき日本人の名もなき旅の記録。ささやかでありがち、だけどかけがえのない日々の記録、になる予定。

中東のスイス、中東のパリと呼ばれた国

2009-12-04 05:15:44 | ヨルダン・シリア・レバノン・イスラエル
レバノンとの国境はシリアのホムスからミニバスでたった1時間で着いた。


今回なぜわざわざダマスカスまで南下しながら、再びホムスまで北上したかと言うと、ホムスから国境を越えると日本人はビザがなぜか1ヶ月無料で発給されるという情報があったため。


同じ国なのに越える国境が異なると、ビザのルールまで変わるって一体どうなんだと思いつつも、タダならタダにこしたことはないとわざわざ再北上した次第。
(結局、情報は本当で日本人は無料だった。後日ダマスカスから来た日本人に聞いたら、きっちりビザ代を取られてた)





レバノンに入ってからも、車窓の景色に劇的な変化はない。中東は狭い地域に国が集中しているので、それはそれでしょうがない。


時折見られる標識や看板も相変わらずみみずのようなアラビア文字。国境近辺なのでやたら多いアーミーの軍服がおしゃれになったくらいか。


しかし、道路脇に日本の地蔵のような小さな祠が立ちだした。上部に十字架が付いている。そういえばこの国にはキリスト教徒が多いんだっけ。キリスト教徒もアラビア語を話しているのかと思うと変な感じがする。アラビア語、特に新聞や公的なものに使われるフスハー(標準語)は、もろにコーランの言語なのに。


この日はバールベックに宿を取った。その日のうちにバールベック遺跡の観光も済ませる。感想は特になし、ジュピター神殿はアテネのパルテノン神殿よりも大きいらしいが、確かにパルテノン神殿より若干見ごたえがあった。


そういえばこの日、結婚式のパレードを街中で見かける。
ラマダン明けは結婚シーズンになるって、どこかの国でも聞いた気がする。
インド以西のアジアでは結婚式の後で親族一同が何台もの車に分乗して街中をよくパレードしているが、着飾った子供や全身真っ黒に身を包んだお母さんが車に箱乗りしている光景は初めて見た。
この国は今までとちょっと何か違うのかもしれない。





翌日、ブシャーレに向けて発つ。
このルートは公共バスがないらしいが、幸運にもブシャーレ方面へ帰るというおじいの車に安くで乗せてもらえることになった。


車は真っ直ぐ西へ。
レバノン山脈が目前にぐんぐん迫ってくる。
荒野にぽつりと建つ教会が車窓を過ぎていく。中東から突然ヨーロッパに戻ったかのような錯覚を覚える。


これからレバノン山脈への急な登りにさしかかるというところに、廃墟となったガソリンスタンドが見えた。荒野と青い空と潰れたガソリンスタンドが妙にいい雰囲気だったので、カメラを取り出したら、そのすぐ裏手に軍のチェックポストが出てきた。一応上部を隠しているが、戦車が一台停まっている。
やっぱりここは中東だと感じると同時に、もう少しタイミングがずれてたら面倒だったなと安堵する。


車は急勾配の道をぐいぐいと登っていく。草木がほとんど生えていないので見晴らしはいい。車のフロントガラスだけを見ていると、まるで空に上っていくかのよう。


レバノン山脈の頂上、峠にあたるところで、おじいが気を利かせて車を停めてくれた。東にベカー高原、北になんとかというレバノン一の高峰が、そして西に大地がばっくり裂けたかのようなカディーシャ渓谷、レバノン杉の小さな森も見える。そして緑の渓谷の向こうに、真っ青な地中海が。


いいじゃないか、レバノン。
「中東のスイス」には疑問符が付くが、むしろここはここで最高じゃないか。





その後ブシャーレの村に着き、おじいに宿探しを手伝ってもらったりした後、宿というより民家としか呼べない宿に落ち着く。宿の人は英語よりフランス語が得意というのがなんだか中東らしくない。ちなみにここの一家もキリスト教徒。


そのまま早速レバノン杉を見に行く。
渓谷にそって約2時間の散歩。どことなくパキスタンのフンザを思い出させる光景。ただ違うのはモスクの代わりに教会が建っていることか。物価さえ安ければ、ここに長逗留する旅行者はきっと多いに違いない。


レバノン杉。
かつてはこの国のどこにでも生えていたレバノン杉は乱伐で今ではほとんど残っていないらしい。
そういえばエジプトにしろ、ペルシャにしろ、歴史に出てくる古代の王国では「宮殿を建てる際にレバノン杉を運ばせた」という文句が決まって出てくる。
フェニキアが航海術で地中海を支配できたのも、この杉がここに生えていたから。
もちろん今でもレバノン杉はこの国の象徴として国旗から看板から、果てはトラックのペイントにまで、この杉のデザインを目にしない日はない。


道路のすぐ脇に立っているものは、この国で2番目に古いものらしい(多分)。樹齢は6000年。てことはこの樹は全部見てきたわけか。エジプト古王国時代からアレキサンダーの遠征、ローマ帝国も、キリストの誕生も、アラブも十字軍も。
そんな生き物がまだ地上に存在することが不思議でもあり、ちょっと嬉しくもある。





ブシャーレからはトリポリへ。


宿はブシャーレのおじいが勧めてくれたところへ。
ここもどちらかと言えば民泊に近い。内戦時の銃痕が残る建物の3階にあるその宿に入ると、出迎えてくれたのは4人のお婆さん。宿、というか家も清潔に保たれて、部屋中のあちこちにファンシーなぬいぐるみが置かれている。なんだこの宿。
今までいろんなところに泊まってきたけど、老婆たちが経営しているところは初めて見た。
受付デスクに置いてあった宿のパンフレットを見ると、この宿のキャッチフレーズは「Miss your granma?」と書かれていた。やるじゃないか。
ちょっと涙が出そうになった。


ところでこの街に来て初めてトリポリ石鹸なる名産品を知った。
早速旧市街の石鹸スークへ行って話を聞いてみたところ、なんでも全部で約1600種類の製品を扱っているとか。
アロマの種類も相当あり、レバノンだけに杉の香りなんてのもあったりする。
しかも効能も製品ごとに異なり、30分くらいかけてひとつづつ説明を聞いたが、多すぎて今は何も覚えていない。


試しに1つ買って試してみたが、明らかに泡立ちが違う。ジャスミンの香りも濃厚で、驚くほど肌がしっとりする。今まで各地で名物石鹸を試してきたが、断トツでトリポリがベストだと言いたい。アレッポ石鹸なんて足元にも及ばない。


あとこの町で初めて試したが、レバノンはコーヒーが安くて異常に旨い。
この町ではいたるところでコーヒー売りのおっさんが歩いている。
一杯15から20円程度。そのどれもが絶品。
なぜレバノンで?? そしてなんだこのクオリティの高さは??
不思議でしょうがない。


人は明るく、街も発展している。
でもよく見ると銃痕だらけの廃虚がそこここにあり、港近くでは錆び付いた蒸気機関車が放置されている。


シリアとは比べものにならないくらい人が穏やかで紳士的。
内戦を経験したら、人は詰まらないことには動かされなくなるのか?
時々、態度は紳士的なのに目だけが異常に鋭いおっさんに出会うことがある。
ついそこに見てしまう。内戦の跡を。





トリポリからは首都ベイルートへ。
かつて「中東のパリ」とも呼ばれた町。


アテネのプラカ地区や、イスタンブールの仏蘭西小路など、某ガイドブックには「まるでパリのモンマルトルのようだ」となんとかの一つ覚えのように書かれているが、実際はごみごみした路地にオープンテラスのレストランが並ぶだけの繁華街で、がっかりした記憶がある。
「パリ」とさえ書いておけば日本人は満足するのか??なんかそれっていろんな意味でおかしくないか??
だったらベンガリートラはバラナシのパリなのか??サダルはコルカタのパリでいいのか??
んで、ベイルートはなんぼのもんやねん。


ベイルート旧市街。アジアを抜けてきたある旅行者はこう言った。「あれのどこが“旧市街”なのか、自分には全く理解できない」と。


実際に訪れた自分の感想を書くと、
「あれは確かに“旧市街”だ」、「ただし、“ヨーロッパの旧市街”だ」。
どちらかと言えば、規模的にパリというよりドルトムントの旧市街に近い。
(ドルトムントの旧市街は近代的で、小規模で、ヨーロッパ的にかなりのがっかり感あり)


舗装された道路はライトを照り返し、華やかなレストランが軒を連ね、着飾ったレバノン人が闊歩している。
アジアによくある、埃がもうもうと立ち込める路地の迷路はここにはない。
しかし、久しぶりに「ヨーロッパの旧市街」を歩いているような気分が味わえ、個人的には悪くなかった。





総合的に、レバノンではかなり楽しい時間を過ごすことができた。
個人的には中東で一番好きな国かもしれない。



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