4月14日(木)9寺25分、一度目の地震が発生した。我が家では夕食を終え、風呂の水を入れ、テレビを見ながらゆっくりしている時間だった。
突然ドーンと家が揺れだし、私の後ろにあった本棚が崩れ落ちた。本を背中に当てながら立ち上がることもできず、揺れがおさまるのを待つしかなかった。少しおさまったので立とうとしたら、またドーンと揺れた。テレビをつけたら「震度7」という文字が流れ、震源地は益城ということだった。我が家の付近は「震度6弱」と言っていた。死者が出ているとも言っていた。
我が家の前は小さなお店で、何人か人が集まっていた。皆家を飛び出したと言っていた。私は地区の係をしていて、一人暮らしの人が二人いるのが気になり、懐中電灯を頼りに歩いて訪ねてみた。幸い二人とも無事で安心した。
余震も酷く、電気のブレーカーを落とし、近くのお宮の駐車場に避難した。車が15台ほど来ていた。夜中も何度も余震があり、ニュースでは死者が9人と言っていた。家が心配だったがとりあえず命が先と思い、まんじりともせずに朝を待った。
15日(金)の朝、5時半ごろ家に帰った。家は大丈夫だったが、屋根の東側の瓦が落ちていた。幸い天気が良く、娘夫婦に連絡したら来てくれて、ブルーシートで被災箇所を覆うことができてちょつと安心する。ただ、夜はまだ心配で我が家の庭に車を移動し、布団を持ち込み中で寝た。
16日(土)未明(1時25分)ドーンというすごい音でまた揺れ出した。すごかつた。車から飛び出した。こんな揺れは生まれて初めてだった。前回よりも大きかった。家がグラグラ揺れていた。「あー倒れる」と思った。隣の人達が家から飛び出してきた。さぞ怖かっただろう。
「マグニチュード7.3」だった。また益城付近と言っていた。しばらく庭の車の中にいたが、余震もあり、また昨日のお宮の駐車場に避難する。50台くらいの車でいっぱいだった。何回か揺れて怖かったが心配しても仕方ないと思い、とりあえず寝てしまう。
朝6時ごろ家に帰る。家は無事だったが、屋根の一番高いところの屋根瓦がほとんど壊れ、地面に散乱していた。ボーゼンとする。とりあえず中に入り、まず写真を撮る。二階を少し片づける。
あまり情報は無かったが、益城の被害が大きいことや、南阿蘇の方で揺れが激しく、阿蘇大橋が落ち、俵山トンネルが不通とか。熊本市内は熊本城がずいぶん壊れ、宇土市では市役所が倒壊しそうとか、大分もかなり揺れたとか言っていた。これは大変なことになつた。
知り合いからメールや電話がたくさんあった。教え子や友達、先輩や仕事仲間、コーラス関係。皆さんニュースを見て安否の連絡だつた。有りがたかった。北海道、沖縄、東京、栃木、千葉など。とりあえず心配ないと伝える。
お昼こ゜ろ自治会長さんから連絡が有り、炊き出しを手伝ってほしいとのこと。公民館に出かける。100食分の救援米を作り、有線放送で流し、配布する。一人暮らしの家には持っていく。喜ばれた。親戚の家が半壊していると聞き見に行ったら、車の中から出てこられ、二階から梯子で脱出したと言っていた。とりあえず無事でよかった。
ニュースでは新幹線が脱線し、高速道路も止まったと言っていた。阿蘇神社が倒壊した画面が出た。まさかと思った。以前すぐ近くに住んでいたのでショックだった。死者の数がだんだん増えていた。熊本はどうなるんだろう。
朝日新聞の記事
6時ごろ娘婿が来た。県立大で炊き出しを手伝つているという。米が不足しているとのこと。我が家で作ったお米30Kgの袋を二つ持たせる。こういう時はお互い様だ。早めに夕飯を食べ、またお宮の駐車場に避難する。
17日(日)夜半に雨風がひどかった。4時ごろ用を足したくて家に帰り、トイレを済ませ家の裏の広場に駐車したが、すごい風でまたお宮に避難する。夜明けを待ち、車のテレビを見ていたら、近くのガソリンスタンドが開いているというので6時ごろ移動する。着いたら給油の車が並んでいた。しかし丁度停電してしまい、電気がつくのを待つ。なんとか電気がつき給油できたので家に帰る。
娘から連絡があり、旦那の家が大丈夫とのこと。北区高平地区。8時ごろ移動する。熊本市内を通ったが、見た目はあまり被害がなさそうだった。9寺ごろ着いたが、着いたとたん眠くて二人とも寝てしまう。しばらくして起きて朝ご飯をいただく。そしてまた寝てしまう。車の中では熟睡できていなかったようだ。夕方おいとまする。帰って夕飯を食べる。死者が41人になっていた。
明日の合唱連盟の理事会は中止の連絡が入る。火曜日の富合町文化協会の総会はまだ連絡がないので、会長に電話したが不通だつた。心配だ。家のテレビは付かないので、またお宮に避難し早めに寝る。⒋日目が終わろうとしていた。
18日(月)4時ごろ家に帰る。また震度4の地震があった。お店のおじさんが起きていた。盗難があると聞いたから家から離れなかったと言う。こんな時に人の物を盗るなんて人ではないと思った。5時ごろ明るくなり、6時ごろまた雨が降り出した。車の中でテレビを見ていたら、スポーツニュースで熊本にエールを送ってくれていた。嬉しかった。
10時ごろ南区役所に水をもらいに行く。幸い地震のあと、電気は来ていたが水は止まっていた。我が家は地下水の水道があり、トイレの水は大丈夫だつたが、濁っていて飲むのはダメだった。昼ごろ娘の家族が来てくれ、一緒に昼食をとる。しばらくして高平へ行き、泊まることになり畳の上でぐっすり寝る。
【記事担当 指揮者 平江純一】
地震後に見回りに来てもらったお年寄りは、どれだけ嬉しかった事でしょう。そして、どれだけ安心されたことか。
その気持ちを思うと涙が出そうです。
私は一人で、阪神淡路大震災にあいました。(主人は単身赴任中でした) あの時の恐怖は、忘れられません。半年経ってもすっきりしない自分が嫌で、自動車免許を取る事で立ち直りました。(勤務後、夜間の自動車学校、54歳でした)
2回の地震を経験した今、どうしても気力が戻ってきません。
みなさんは、どうなのでしょう?