破 魔 矢
お正月になると、普段忘れていたいろいろななつかしい縁起物が目にはいり、幼い日の思い出や、郷愁をそそります。私にとって、破魔矢はそのひとつです。
神奈川県で育った私は、湘南のお正月を懐かしく憶えていますが、元日には、鶴岡八幡宮に初詣でをする人たちが鎌倉に押しかけ、戦前でさえも乗り物がえらく混雑していたものです。その大変な数の参拝者たちが、帰りにめいめい白い羽のついた矢を手に持っていたのが、非常に印象的でした。
私の家族はキリスト教系で、日本の伝統的年中行事は(いいか悪いかは別として)やっと最小限度に守っていたようなものでしたから、縁起物を買うこともほとんどしていませんでした。ただ、幼い私には、元日に通行人が持っていたあの矢が、魅力的でした。ある年、どういうわけか、父がお客様をご案内して鶴岡八幡宮まで散歩に行き、その矢を一本、手にして帰って来たのです。それが「ハマヤ」というものだとも、その字も、私は大人になるまで知りませんでした。
「あらあら、パパはこんなものを買っていらして」と母が言って、その矢を丁寧に床の間の隅に立てかけました。わが家にも来てくれたその矢は、羽の白さといい全体の長さといい、威厳があって、神秘的で素敵でした。私にはご利益を信じるなどという気分は全くなく、ただ、その清らかさに打たれて、何となくいい気持ちでそれを眺めていました。
あれから数えて、70年以上経ちます。最近、平泉の中尊寺で破魔矢を何千本も用意しておられる様子が、ニュースで報道されました。この矢を持ち帰る人がしあわせになるようにと、一本一本、祈りをこめて作られるのだという解説がなされていました。「それだ!」と思いました。大量生産にはない、「何か」です。
カトリックの古い教会とか巡礼地などでも、本人の宗教や知識を問わず、訪れる人たちの心が粛然となることが多いと言われます。それは、これまで数え切れない人たちが来て祈った建物や土地に、長年の間にしみこんだ「何か」があるのに違いありません。
コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会会員
シスター今泉ヒナ子
シスター今泉ヒナ子
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