コングレガシオン・ド・ノートルダムの花畑

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CNDシスターズエッセイ4  「破魔矢」   シスター今泉ヒナ子

2014年12月20日 | 日記


破 魔 矢


 お正月になると、普段忘れていたいろいろななつかしい縁起物が目にはいり、幼い日の思い出や、郷愁をそそります。私にとって、破魔矢はそのひとつです。
 神奈川県で育った私は、湘南のお正月を懐かしく憶えていますが、元日には、鶴岡八幡宮に初詣でをする人たちが鎌倉に押しかけ、戦前でさえも乗り物がえらく混雑していたものです。その大変な数の参拝者たちが、帰りにめいめい白い羽のついた矢を手に持っていたのが、非常に印象的でした。
 
私の家族はキリスト教系で、日本の伝統的年中行事は(いいか悪いかは別として)やっと最小限度に守っていたようなものでしたから、縁起物を買うこともほとんどしていませんでした。ただ、幼い私には、元日に通行人が持っていたあの矢が、魅力的でした。ある年、どういうわけか、父がお客様をご案内して鶴岡八幡宮まで散歩に行き、その矢を一本、手にして帰って来たのです。それが「ハマヤ」というものだとも、その字も、私は大人になるまで知りませんでした。

 
「あらあら、パパはこんなものを買っていらして」と母が言って、その矢を丁寧に床の間の隅に立てかけました。わが家にも来てくれたその矢は、羽の白さといい全体の長さといい、威厳があって、神秘的で素敵でした。私にはご利益を信じるなどという気分は全くなく、ただ、その清らかさに打たれて、何となくいい気持ちでそれを眺めていました。
 
あれから数えて、70年以上経ちます。最近、平泉の中尊寺で破魔矢を何千本も用意しておられる様子が、ニュースで報道されました。この矢を持ち帰る人がしあわせになるようにと、一本一本、祈りをこめて作られるのだという解説がなされていました。「それだ!」と思いました。大量生産にはない、「何か」です。

 カトリックの古い教会とか巡礼地などでも、本人の宗教や知識を問わず、訪れる人たちの心が粛然となることが多いと言われます。それは、これまで数え切れない人たちが来て祈った建物や土地に、長年の間にしみこんだ「何か」があるのに違いありません。





コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会会員  
シスター今泉ヒナ子


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CNDシスターズエッセイ3「何をしているのだろう?」 シスター兼松益子

2014年12月14日 | 日記


何をしているのだろう?


私の中で、時々起きてくる問いかけがあります。社会の中でたくさんの方々が、人々のために良い働きをしておられます。それを見たり、聞いたりするとき、“その方々の方が私よりよほど献身的に人々のためによく生きておられる、脱帽だ!私はこの小さなところで一体何をしているのだろう?修道者って何だろう?”という問いが起こることがあります。


現代は、個々人が人々の必要に応えて、世界の至るところで、望めば大きな働きができる時代です。40年、50年前は、政府や行政が十分に手が届かなかったために、修道会が学校や病院や福祉などの面で貢献することがとても大切で意味のあることでした。そして、それがまた神、キリストを証することになりました。しかし、昨今のように、広い世界で大きな働きを個々人ができるようになると、その方々の献身的で勇気ある働きに圧倒されることが非常に多くあります。むしろ、修道会に入っていると、思うように動けないと感じることもあります。“修道者って何だろう?私はこの小さなところで一体何をしているのだろう?”と思うことがあります。

そんな時には、マザーテレサのことばがよいヒントになりました。「わたしたちはソーシャル・ワーカ-ではないのです。人々の目からは、わたしたちはソーシャル・ワークをしているように見えるでしょう」(『愛する子どもたちへ』38頁)。「わたしたち自身の苦しみがなければ、わたしたちの仕事はただの社会事業になってしまいます。とてもよいもので、人々の助けになりますが、イエス・キリストのための仕事ではなく、主の贖いのみわざの一部にもなりません」(『聖なる者となりなさい』」44頁)。「わたしは神の手の中にある小さな鉛筆のようなものです。神が考え、神が書くのです。鉛筆は何もしません。鉛筆はただ使われるだけです」(『わたしはあなたを忘れない』32頁)。


神父様方がキリストの仕事をしておられるように、私たち修道者もキリストの仕事、働きをしているのだということをもっと深めることが大切だと改めて思ったことがあります。


そして、また私はコンパスを思い出します。コンパスは主軸があって、始めて支点が動きます。決して、支点だけで大きな線を描くことも、遠くまで届く線を描くこともできません。どこで、どのような線を描くのかは支点が決めることではありません。支点は、主軸がしっかり固定されて、初めて大きな線も、遠くまで届く線も、あるいはわずかな小さな線も描くことができるだけです。コンパスの主軸は神、支点は私たち、支点は主軸が望むことを描けばよいのだと思ったことがあります。


また、旧約聖書を読んでいて、こんな言葉に出会ったときに、はっとしました。「あなたがたは、自分の好む場所で焼き尽くす献げ物をささげないように注意しなさい。・・・あなたは・・・主の選ばれる場所に行かなければならない」(申命記12章13節・26節)。私たち修道者は、主が望まれる場所で、望まれる時に、望まれることを、望まれるように行って生きるものなのだと。この言葉が、修道者の立ち位置を見事に言い当てていると思ったことがあります。みんなで神の国をつくるように招かれています。修道者がたとえ、大きな広い働きができなくても、神との関係を深く掘り下げ、神の道具として生きることができたらどんなによいことかと思います。すでに始まっている「奉献生活の年」を、神の招きに応えて大切に生きていきたいと思います。
  
コングレガシオン・ド・ノートルダム会員
兼松 益子


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