鳥のように

鳥のように自由に飛びまわる、
そんな日々でありたいと願いつつ、
考えていることを書いていこうと思っています♪

旧友

2006年01月31日 | Weblog
ネットをするようになってから、
すご~く懐かしい友だちとの出会いがある。
びっくり!そしてかなり嬉しい。
20年以上も前、こんな再会があることを
互いに想像できたでしょうか?
小学生前からの友達が元気に社会人やってるわけで。

是非実際に会ってみたいな。
なんて。
一人はね、同じ日に同じ病院で生まれた近所の子で、
教会も同じところに通っていたのです。
今でも教会を通るたびにどうしてるかなって思ってたんだ。
ネット上ですが、また会えて本当に嬉しいです。

これからもネットを上手に使っていけたらと
思ったのでした。


最近正直、あまり元気がない。
信仰の面でよい状態ではないかなと思っている。
だから教会のお姉さまや妹たちに祈ってもらった。
乙女会を是非またやりたい。
互いのために祈ることができるとはなんと幸いなことでしょう。
そう思った。

姉さまから緊急の祈りの課題がきた。
祈るっきゃないけど・・・心配。
神さま、守って下さい。

「主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。」
詩篇121:5

洗足

2006年01月30日 | Weblog
なんて大げさな言い方をしたら怒られてしまうかもしれないけど、
デイサービスで入浴介助をするとき、
利用者さんの足を洗ったり、拭いたりすることがあり、
そのときに思うのだ。

あーイエスさまは弟子たちの足も洗ったんだ。って。
きっと泥だらけで汚かったんだろうけど、
でもそんなことよりもその人を家に迎えるときの
最高のおもてなし、仕える愛の姿勢を自ら教えて下さっていたのだな。
と何故かとても納得、感動してしまった。

正直やっぱり人の足というのはきれいなものではない。
利用者さんには実際、
申し訳ないけれど・・・水虫の方も多い。
指の間とかまで普段洗う事などめったにないから、
垢もたまっていることもしばしば。

だけどこのようなお仕事とならない限り
私は他人の足を積極的に洗うことなどなかったのだろう。
私はこのような仕事につけたことで
“洗足”の体験をできるのだ。

なぜか足を洗うという行為は
入浴の中でまた特別な感じを受ける。
足というのはその人の一番体重が掛かるところであり、
つまりはとても重要な部分だったりする。
だから日常でとても使うし、
その分とても疲れている。
だからケアしてきれいするというのは
特別な意味があるような気がする。

イエスさまは何を思って弟子たちの足を洗ったのだろう。
もっとイエスさまの思いに近づける
お仕事ひとつひとつになれたらなと思った。

目を開かれ 神をほむ 今はかくも

2006年01月29日 | Weblog
今日の礼拝のメッセージの分かち合い・・・
「神のみわざがあらわれるため」
ヨハネ9:1-12

弟子が生まれつき目の見えない人を見て、
その原因を追求しようとしたとき、
イエスさまがこう答えられた。
「『本人が罪を犯したのでもなく、
また、その両親が犯したのでもない。
ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。』」
ヨハネ9:3

弟子たちは誰が罪を犯したためか、
本人か、親か?
と二者択一の質問をしたが、
イエスさまは第三の答えをされた。

私はAかBか?という狭い選択肢しか浮かばないことがある。
そのまま具体的に祈るが、しかし、神さまは思いもよらないところで
私の祈りを聞いて下さる方であることを教えられた気がした。
イエスさまは私の思い、計画の限界を超えて働かれ、
あらゆる手段で最善の道へ導いて下さる方であることを
忘れてはいないだろうか?
と思わされた。
もちろんAやBだったりするかもしれない。
でもわたしが祈るとき
「しかし、ただみこころがなりますように」
とマリアさんのような祈りに変えられたい。
そう思いました。

そのあとの青年の分かち合いでも
○軽率な言葉を発していることはないか?
その質問の動機は何か?点検していきたいと思わされました。
○目の見えない人にイエスさまが泥を塗って
シロアムという池で洗いなさい。
といわれたように神さまは、
わたしが神さまのもとへ行かざるを得ない状態を
作ってくださってはいないか?
ということを考えさせられました。
だから神さまの声をきき、それに従うものにされたいです。

メッセージのあとの賛美を心から捧げることができました。
感謝でした。

“神なく望みなく”
「神なく望みなく さ迷いしわれも
救われて主をほむる 身とはせられたり
われ知るかつては 目見えざりしが
目を開かれ 神をほむ 今はかくも」

救われて神様の素晴らしさを知ることができた。
今もしその開かれたはずの目がくもっているなら
はっきり見えるようにしてください。
そして、もっとあなたのことを知って、
その声に聞き従い、
あなたのすばらしさに体験していくことが
できますように。

健康第一

2006年01月27日 | Weblog
人は一人で生きていけないことを実感し、
健康であることをどれだけありがたいと思ったことか・・・。
そんな一日でした。
神さま守って下さってありがとうございます。

今日は父の誕生会をした。
4人で久しぶりに浜○山のレストランにお食事へ行った。
家族がそろう時が一番幸せを感じる♪
今までが導かれたことを心から感謝します。
そしてまた完全に治りますように。

もしも・・・

2006年01月26日 | Weblog
またまた“チソン愛してるよ”
から感動してしまった文を・・・

チソンさんがお母さんにこう質問した。
「『お母さん、もしも、もしものことよ・・・
わたしとお母さんと取り替えられるとしたら、取り替えてくれる?』
『1千回でも1万回でも取り替えてやるよ・・・。
それができるんなら、1千回でも1万回でも』
言葉を継ぐことが出来ませんでした。
涙が溢れてきて・・・もう何も話す事ができませんでした・・・
後ろを向いて、母の愛に感謝する以外何も出来ませんでした。」

神さまの愛は、チソンさんのお母さんの中にも
見ることができるのかもしれない。
神さまは私の苦しみを代わりにでも担いたい。
そう思って下さる方なのかもしれない。
お母さんが一緒に苦しみを感じることができても
代わることは難しいだろう。
でも「もしも」それが可能ならばそうしたいと思える。
それが本当の愛ではないかと思った。



自慢話でも何でもないが、
私は命を何度か救われたと思っている。
それは母が日本昔話のように小さい頃から
聞かされている3大奇跡ストーリーにこそ思う。

奇跡その1
出産がうまくいかず、
生まれたとき真っ青で出てきた。
出産後すぐガラスケースに入れられ、
すぐには家に帰れなかった。

奇跡その2
お店の前が線路の踏み切りだったので、
両親が仕事で忙しかったとき気づいたら2歳くらいの私が
閉まった踏み切りの中にいた。
それを母は無我夢中で線路に入り、
気づいたら電車が近くまで走ってきていたけれど、
そのまま引き返す時間がわずかにあったので、
ふたりとも助かった。

奇跡その3
家族でお店の上に住んでいた3歳ごろ、
外に出る急な階段の2階からボールのように
落ちてきたところをたまたま通りかかった
お店の従業員さんが受け取って何の怪我もしないで済んだ。
その階段の一番下は固いコンクリートの足場があり、
もしも・・・を考えてたら今頃頭がどうなっていたか・・・
と母はいつもそう話す。

そして最後に
「あなたが生きているのは神様のおかげとしか考えられない。」
と言う。
わたしも
「あ~私は生きてるんじゃなくて、生かされてるんだ。」
と思う。

チソンさんとは比べ物にならない経験だろう。
でも人は皆もしかしたらいつどうなっていたか
分からないのかもしれない。
絶対に明日生きている、事故に合わないと確信をもって
言える人はいないのではないだろうか。
ならば、生きているのではなく、生かされているのだろうと思うのだ。

わたしに命を与えた方がいるのだとすれば、
その方は私を愛してやまない方なのだろう。
そして命を与えたその方は
もしも私が苦しむときがあるなら自分の命をも捨てて
代わりたいと思うのだろう。

事実そのような方がいらっしゃる。
だからわたしはとっさに命をすくってくれた
母の愛に感動すると同時に、
それ以上の愛をもって私を愛して下さっている
神さまに感謝せずにいられない。
そのような神さまが私とともにおられるなら、
私はどうして日常に恐れることがあるだろうか。
恐れる必要などないはずなのだ。

神さまの愛はもっと大きくて、
もっと広くて、もっと深い。

「人が友のためにいのちを捨てるという、
これよりも大きな愛は誰も持っていません。」
ヨハネ15:13

どんなときも

2006年01月25日 | Weblog
イ・チソンさんの本を地下鉄で今朝読んでいました。
あぶないあぶない。
涙が出そうでした。

心に残ったチソンさんのことば。
“天の神さまは、わたしが落胆して、
泣いているときも働いておられました。
本当に素晴らしい・・・・・・
すばらしい神さまです。”

昨日の日記とつながっているかもしれないけれど、
目に見えないけれど、
その見えない神さまに信頼していきたい。
だって、神さまはどんなときも私をしっかりとらえ、
導いて下さっている方だから。

神さまが一緒におられる

2006年01月24日 | Weblog
今「チソン愛してるよ」という本を読んでいる。
女子大生イ・チソンが交通事故で顔も身体も
真っ黒焦げになるほどの大やけどをおった。
こんな姿になるなら生きていけないと普通は思うかもしれない。
しかし、チソンさんは神さまへの信頼をもって大きな証をしている。
この前もすっとKANTOで特別講演をするため来日していた。

まだ本は途中だが・・・
お兄さんのチソンさんのことを綴った日記の中の言葉が心に留まった。
「人間としての限界を抱えながら見まわせば何の対策もないように見えるが、
天の神さまが一緒におられると信じて乗り越えていきたい。」

チソンさんとお兄さんの
苦しみを味わいながら、しかしひとつひとつの問題を
神さまに具体的に祈り、求め、信頼する信仰を見た。

私の悩んでいることなんか欲の欲にすぎないかもしれないと思った。
AかBかそういうことを言っている場合ではない・・・と思った。

もっと純粋にシンプルに神さまを愛し、
神さまだけを慕い求める信仰にならせていただきたい。
そう思った。

ばとぅん3回目

2006年01月23日 | Weblog
ばとんがそうちゃんからまわってきたよ。
やってみましょう♪
でもおかしな質問になってないかな!?
まっ、そこは気にしないで下さい(笑)

①PCもしくは本棚に入ってる『教会』
●PC
お気に入りには自分の通っている教会のHPアドレスがあります。
●本棚
リックウォレンの「教会成長の鍵」
(タイトルさえ覚えていなくてあやしいですが・・・すみません。)

②今妄想している 『教会』(すごい質問になってますが・・・)
→今思い描いている教会のビジョンと訳してよいでしょうか?勝手に。
教会員一人一人が生き生きしている教会。
初めて来た人もここは神さまの愛が満ちている、
何かが違うと感じられるような教会。
来て良かったな。また来たいな。って思えるような教会。
誰か一人でも真に心のうちを知ってもらい、
祈れる友、家族が与えられている所。

③最初に出会った『教会』
今通っている荻窪栄光教会です。
「お母さんのおなかにいるときから
(←お決まりセリフ)・・・通っています♪」

④特別な思い入れのある 『教会』
同じ答えの繰り返しのようですが、
今通っている教会が一番思い入れがあります。

⑤あなたにとって『教会』とは
また行きたいなって思える居場所と言えるような場所
になったらいいなと思っています。
今もすでになっているのかな・・・。
本当に家族だなって思ってます。
共に悲しみ、つらさという重荷を負い合い、
また楽しいときには一緒に心から笑い合える家族のいるところ。

⑥バトンをまわしたい人 とその【お題】
 @yamaさん→「兄弟」

神さまに信頼する

2006年01月22日 | Weblog
今日は教会に行った。
去年の夏にミッションツアーできてくれた韓国人青年が
旅行で遊びにきてくれた。
同じ賛美を一緒にできること、
また祈り分かち合えることは本当にすてきだなと思った。

今日得た恵みを早くも書き留めておこうと思う。
忘れてしまいそうだから・・・。

◆教会の礼拝メッセージの分かち合い
ヨブ記よりお話があった。

“人生におけるいくつかの重要なものがある。
家族、財産、健康、友達、隣人・・・
このことを通して神様は私たちを祝福してくださる。
しかし、これらのものはいつかなくなる一時的なものに過ぎない。
だから私たちは主に従って、主の命の綱につながって、
永遠ののぞみを待ち続ける。

信仰とは自分に備わっている強い精神力ではない。
信仰とは神さまからくるものである。

苦しみは優れた人格を築く事がある。

私たちが暮らす社会は様々な事が起こる。
しかし、神さまは最後まで私たちを守って下さる。
今年もひたすら主に信頼し、主に頼って生き続け、
祝福される一年を過ごしたい。”

「しかしヨブは彼女に言った、
『あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。
われわれは神から幸いをうけるのだから、
災いをも、うけるべきではないか。』
すべてこのことにおいてヨブはそのくちびるをもって
罪を犯さなかった。」ヨブ2:10

ヨブのように神さまへの信頼を最後まで貫き通し、
従順の限りを尽くすその信仰に習いたい。
自分にそのことを求め、期待をおくのではなく、
神さまからの信仰を頂いて、
信仰から信仰に成長したい。


◆5つの目的の読書会の分かち合い
「神さまに信頼する」
ということを一番示された。

ノアの話があげられていた。
ノアが箱舟を作るというかみさまの命令に従う時、
問題が3つほどあった。
・雨というものをみたことがなかった
・船をどうやって海まで運ぶか
・動物の世話をどうやってするか
でもただノアは神さまに信頼し、
人生の十分の一を箱舟を作る時間に費やしたことになる。

わたしのいる職場の1年前を思い出してしまった。
「いったいどうやっていけばいいのだろう。」
という目の前のやる事がすべて手探りの状態だった。
先が見えない真っ暗の中スタートした。

でもそれは私の信頼が足りなかったことを神さまに悔い改めたい。
実際とても1年前には想像できなかった状態が今あるのだ。

神さまの業、奇蹟を体験させてもらった。
神さまに信頼する上司、先輩の後ろを
ただついていくだけの私だったが、
道を明確に知って先導して下さった先輩の前に
神さまの存在を認めざるを得ない出来事だった。

だから将来はまったく分からない。
明日でさえ不透明でぼやけている。
むしろ真っ暗かもしれない。
でもノアのように
雨という恐ろしい何かが私を襲うとしても、
また、今の与えられた使命を果たし続けて
何年後かにどうそれが実を結ぶのか分からなくても、
それらの具体的な不安によらず、
ノアのようなただ神さまに信頼する信仰を与えられ、
日々与えられていることを果たしていきたい。
そう思った。

他のメンバーの分かち合いでも
仕事や将来について話された。

ていねいに・・・必要なら付け加えるなど最後まで忠実にやっていく・・・
そのような同じ仕事でもやり方や心の思いにおいて神様に従っていきたい。
神さまはその心を見ておられるから。
そのことを覚えて仕事をしてきたいと思った。

「主は、主を礼拝し、その愛に信頼する者たちを喜ばれる。」
詩篇147:11

今日も恵みの時を与えられたことを
神さまに感謝します♪

雪の一日

2006年01月21日 | Weblog
今日はいつもと変わらず6時起床。
カーテンを開けたらびっくり。
真っ白でまぶしかった。
雪が降っていた。
練馬のデイサービスに実習1日目。
行ったら挨拶する間もないほど、
職員さんが電話対応と雪かきに負われていました。

もしかしたら雪で営業できなくなるかもしれなかった、
と聞いて今日営業していて本当に良かったな思った。
もし今日実習できなかったら、もうこれ以上休み延長できなかったから。
風邪も治ったし、雪でも実習できて、
本当に神さまに守られていることを感じました。

他のデイサービスに行くことも良い経験だなと思いました。
事務的業務、プログラム、食事、送迎、リハビリ、入浴・・・
「こんなやり方もあるんだ!」と発見が多かったです。

そして逆に私の職場の良さも発見できました。
うまく表現できないんだけど、
なんとなくアットホームな「あったかさ」があることに
気づきました。
だからこれからも利用者さんがあったかさを感じられるような
職場であったらいいなと思いました。


朝は足跡ひとつない雪道をあるいていた。
なんだかため息がでそうなくらいきれいな銀世界だった。