オタクだけに、個人的には笑顔で管

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確かに赤ちゃんの泣き声は兵器だが、聞き様によっては未来への架け橋である

2012-11-26 | 戯言
時事ネタになるが、現在某有名マンガ家が飛行機内で泣き続けた赤ん坊に腹を立て、その母親に苦言を述べ、飛行機企業にもクレームを申し立てたことが、ネット上でちょっとした話題となっている。
また、そのニュースは全国ネットのワイドショーでも取り上げられ、事はネット上のみに止まらないものとなった。
私が最初にこの話題を聞いたのは、普段から遊んでいるネット仲間からで、その時の第一印象はとにかく「大人げも無くつまらない事でクレームを入れるものだ」というものであり、また同時に「どれだけ有名な漫画家か知らないが、こんな下らない話題がニュースになるのだから、日本は本当に平和な国だなぁ」とも思えた。

誰が何と言おうと、この話題は下らない。しかしながら、こういう普段の生活に蜜に結びつく話題が大きく取り上げられるというのは、私としてはかなり有意義なことであるとも考えている。
そういう意味では、この漫画家の批判を恐れずに問題提起した姿勢は、非常に感嘆する部分が多い。
こんな誰が見てるか見てないか分からないような場ならまだしも、それなりにファンもいるであろう漫画家が、賛同を得にくいどころか批判を浴びる可能性がある事を公言するというのは、かなりの勇気が必要だっただろうと思われる。

とかく、普段から自分の中では当たり前のように考えている事でも、また、他人も同様に当たり前のように考えているであろうと思っていることでも、事実としてどうなのかというのは、いちいち聞き取りすることもままならないものであり、なかなかに確認できることではないものだ。
本当は、当たり前と考えているのは自分だけで、他人は全然別のように考えているかも知れない。
そういう事項は、普段の生活からでも結構思い当たるものがあるのではないだろうか。
故に、このように当たり前と思えることに対しての他人の意見を見れるということは、非常に貴重な機会となるのである。

ともあれ、今回のこの件はまさに賛否両論となっているようだ。
私個人の意見は、「赤ん坊が泣くのは至極当然のことであり、それを咎める方がどうかしてる」というものだ。
確かにあの赤ん坊の泣き声というのはかなり耳につく。その時の気分や体調によっては相当にイライラさせられることは事実であろう。
しかしそれは、個人の工夫でどうとでもなるものだ。私などは出かける時は必ずiPodを持ち歩いているので、赤ん坊の泣き声に負けないくらい、ちょっと音量を大きくしてやるだけで全てが解決する。
私のこの対処法が「正解」という気は全く無いが、私の中ではこれが「当たり前」だ。重ねて言うが、赤ん坊が泣くのは、それこそ「当たり前」のことだと考えているからだ。

しかしきっと、赤ん坊の泣き声を咎める人もそこは同じだと思う。彼らは、恐らく「公共性」について問うているのではないかと私は考えている。
赤ん坊を泣き止ませるのは母親の仕事。しかし赤ん坊だって人間だ。常に泣き止んでくれるとは限らない。
そこを重々承知した上でも、しかしだからといってどうしてこちら側だけが一方的に我慢をしなければならないのか、という理不尽への問いかけなのではなかろうか。
確かに、それはそれで理解できる部分が無いとは言えない。

先に述べたワイドショーでも紹介されていたのだが、この件に伴ってもう一つの物語が注目されているそうだ。
それは30年前にあった実話であり、それは「バスと赤ちゃん」というタイトルで、中学校の道徳の本にも載っているそうだ。



管は本当に便利だなぁ。何でもあるのねw
しかしこれでは16年前の話になっている。ワイドショーが間違ったか私の記憶違いかな。

実際のところ、ここまでカッコイイ運転手がどれほど居るのかは少々の疑問符が沸いてこないでもないが、こういうことが言える人間が実在し、そういう人間性が育まれる土壌を持っているということが日本という国の良いところだと思う。
私のように古い人間は、男は当然のことだが、女だって「誰かのために生きる」ことこそが人間のあるべき姿だと考えている。
「自分のために他人を曲げる」のではなく、「他人のために自分は我慢する」ようにありたいと考えている。
一見すると損でしかない生き方かもしれないが、実はそれこそが最も幸せに近い人生を歩めるのではないかと、私は真剣に考えている。

ちなみに、そのワイドショーでは、もう一つ同様にバスと赤ちゃんの話を紹介していた。それはアメリカのバスでの出来事だ。

とあるバスに、やはり同様に泣き叫ぶ小さな子供を連れた母親が乗っていた、
バスは座席が埋まる程度にほどほどの込み具合を見せており、母親はその一番後ろの座席に居た。
いくらあやしても子供は泣き止まず、バスの中は相当に泣き声が響き渡っただろうと思われる。
そうしているうちに、バスの運転手が母親の前に来て、こう言った。
「その子が泣き止まないと発進できないのだが」
母親は成す術も無く、無言でバスを降りていった。


内容はバスの防犯カメラの映像だったため、車内の様子も母親の様子もしっかりと記録されている。
どうやら、誇張や切り貼りで作られた作品ではなさそうだ。
先述した日本の「バスと赤ちゃん」と対比すると、見事なまでの真逆ぶりに思わず感心させられる運転手の悪辣な態度だが、この映像には続きが存在した。

運転手が母親と子供を追い出した後、一人の若者がおもむろに席を立ち、そのままバスの外に出て行った。
それを皮切りに、まるで堰を切ったように続々と乗客たちはバスから降り、とうとうバスの中は空っぽになってしまったのだ。
それは紛れも無く運転手に対する抗議であり、バスから降りた乗客の一人は、追い出されてしまった母親に「みんな貴方を応援するためにバスを降りたんだよ」と声をかけたそうだ。


「なら母親が降りる前に運転手に一言言えばいいじゃん」などと野暮を言うべきではない。
アメリカと日本、形は確かに違うが、やはり人間の基本は優しさで出来ていると思える、少し安心してしまうエピソードであろう。
もちろん毎回毎回これほど美しく話がまとまるとは限らないだろう。しかし、赤ん坊に対し、その母親に対し、大切に考えてくれるというその暖かさは、やはり万国共通なのだと思いたいところだ。
そして、そのあたりは、きっと今回の問題を提起した漫画家も同様なのだと私は考えている。

ぶっちゃけて言えば、この漫画家が言っていることも理解できるのだ。
この漫画家に限らず、乗客は全員金を出して飛行機に乗っている。そこには代金分の「快適に旅をする権利」もまた発生しているのだ。
その権利を、「赤ん坊だから仕方ない」という理由一つで、全員分まとめて覆していいのか、という問いかけなのだと私は解釈している。
確かにそれは理不尽と言えなくも無いものであり、公共性や公平性の観点から見れば問題が皆無とは言えないだろう。
しかし、やはり私の意見は変わらない。
一個の「生物」として、一つの「種」として、未来へ繋がるその存在を全面的に認め、許すことこそが「大人の義務」であると私は思う(あ、教育はまた別ね)。
「義務」を果たしていない者に「権利」を主張する資格など無い。
故、子供を前にして大人は膝を折るべきだと私は考える。子供に対して何かをするのなら、まず大人としての責務を果たしてからなのである。

そう。責務だ。責務を全うしてこその自由。故に、私にも唯一つ例外がある。
それは、赤ん坊がわんわん泣いているにも関わらず、一切見向きもしないバカ女の事だ。
子供が泣くのは、親に何かを訴えている時だ。それを受け止め、子供の不満や不安を取り去ることが親の務め、責務なのである。
それを放棄し、スマホや買い物に没頭するバカ親を稀に見かけることがある。
そういうのはまるで例外であるため、私の理論の中には無い。
ああいうのは本当に何とかならないものかな。刑罰化してさえいいと私は思っている。

子供は親を選べない。しかし、子供には親しか居ないのだ。
その親にそっぽ向かれてしまったら、その子供は一体どうすればいいのだろうか。
また、そういう子供はどういう大人に育っていくのだろうか。
先述した「バスと赤ちゃん」のイカした運転手のような人材は、今の日本から、今の若者から生まれてくるだろうか。

某都知事あたりが「日本人の質が落ちている」と述べたことがあったようだが、仮に本当に質が悪くなったとしても、子供から先に悪くなることは有り得ない。
「最近の若者は・・・」と思うことは私にもあるが、それを生み出したのは自分達であるということは、努々忘れないでおきたいものだ。

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