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KYONのいろいろ練習帖

パソコン練習・イラスト練習・猫育て練習・猫仲間練習を綴る。
時々、生活や趣味の話題もネ!

🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️🔸(45) 【猫との暮らし・日常雑話】

2025-06-29 13:25:00 | 日記
🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️🔸     
         (その45)
【猫との暮らし・日常雑話など】
 プラス🔻「歩き🚶‍♀️‍➡️のお勉強」🔻
 〜歩いて 調べて その記録〜
************
🐈‍⬛ポン太郎
おかあさんが 
はしって かえってきた
ぼくのことが 
しんぱいだったんだって
あついからなぁ

るすのあいだ
ぼくのまわりに
たくさんの でんきせいひんをおいて
だいじょうぶ だったのか・・

エアコンのおんどは
よかったのか・・・

しんぱいばかりなんだ
ちょっと しんぱいしすぎだよ
まだ 6がつだよ
なつは これからだよ

     ★
家事はズボラ。
でも、猫のことは別だ。
たくさんの暑さ対策をした。

ところが、今度は
出かけた先で
安全対策が気になり、
心配で落ち込んでしまった。
「もう、帰れば!」
と、周りは呆れ顔。

帰宅したら、
部屋は、涼しくて快適。
明日は冷風扇をやめようと思う。
電気製品、並べすぎだ。

ポン太郎のつらそうな表情を見てからは
ケチな私が「電気代!」と
言わなくなった。
でも、酷暑対策には
リスクを増大させることもある、と聞いて
「ポン太郎の気持ちが知りたい」と、
思ってしまう。
 
、、、、、、、、、、、、、、、
〜歩いて 調べて その記録〜
 ★ちょっと 広尾歩き★
患者会有志で「大使館巡り」をすること
になった。病院に近い場所でありながら
行く機会はなかなかない場所だ。
「こんなチャンスは二度とない」と
私も急遽、参加することにした。

◉コース:
広尾駅〜❶有栖川記念公園〜
❷スイス大使館〜
❸ボスニア・ヘルツェゴヴィナ大使館
〜❹カタール大使館〜❺マダガスカル
大使館〜❻アルジェリア大使館〜
❼パキスタン大使館〜❽フィンランド
大使館〜❾パレスチナ大使館〜
➓韓国大使館〜●オーストラリア大使館
〜自由解散
    ★
❶【有栖川記念公園】
・台地から低地に向かう起伏に富んだ
 地形を活かした公園。

*公園の「騎馬像」って?
 *1896(明治29)年、有栖川宮威仁
(たけひと)親王の栽仁(たねひと)王
新邸造成の御用地へ。しかしながら、
熾仁(たるひと)親王はここに住むこと
なく亡くなった。
熾仁親王の騎馬像:1903(明治36)年
千代田区三宅坂の旧参謀本部構内に建立。
大正時代に有栖川宮が廃絶。
この地は高松宮殿下に譲られた。
故有栖川宮威仁親王の没後20年目
の1934(昭和9)年東京市(当時)に
賜与(しよ)。騎馬像は1962(昭和37)年
に首都高速環状線の拡張工事などにより
公園に移設。
1975(昭和50)年港区に移管(区立公園)へ。
(参考:「R100tokyo 」のコメント要約)
・有栖川記念公園では「都立中央図書館」
の案内が目立った。日比谷図書館の蔵書
を引き継いで開館。
蔵書数は、国内の公立図書館では最大級
の約229万冊。このうち、新しい図書を
中心に約35万冊を開架。
広尾駅から徒歩約8分。
❷【駐日スイス大使館】 
(駐日ノルウェー王国大使館の向かい)

茶色い洗練された印象の建物
スイス国民は正直・堅実・勤勉・実直・
真面目だと言われており、その国民性を
表しているような雰囲気。

❸【ボスニア
  ・ヘルツェゴヴィナ大使館】
普通のマンション風。  

ネームプレートは探さないとわからない。
(南東ヨーロッパ バルカン半島にある国) 
❹【カタール大使館】
 1971年 カタール独立宣言。
 1973年 大使館開設 
  (アラビア半島の国)
❺【マダガスカル大使館】
  1969年 大使館開設。

(アフリカ南東部沖に浮かぶ巨大な島国)  
❻【アルジェリア大使公邸】 



   白地にブルーの模様が美しい 
❼【パレスチナ大使館】 
 (西アジア 地中海東岸) 

➓【韓国大使館】 
 警備厳しく遠くから見ただけ。
 (仙台坂 南側)

★〜坂と歴史がある街〜
広尾の地形は、谷地形や高台地形が
入り混じり、起伏に富み、歴史ある
坂道が点在している。
・低地 :「広尾原」と呼ばれた荒野。
・昔  :「阿佐布」(漢字)
・旧町名:麻布広尾町
・延宝年間(1673〜81)の頃、
   百姓家・町屋の集落
   武家地と畑が点在


【南部坂】⬇️公園に沿うように美しい形
      公園南側に西に下る
有栖川記念公園は陸奥盛岡藩南部
美濃守20万石の大名屋敷(下屋敷)
だった場所→坂の名

公園内の坂や階段は、南部坂の傾斜
と地続き。
有栖川記念公園とドイツ大使館の
間を通るこの坂は坂下で広尾駅へ
とつながっている。
周辺に大使館が多い。
坂下には外国人向けのスーパーなど。
国際的な雰囲気もあるが、一方では
庶民的な温かい雰囲気の店もあり、
混在一体の地でもある。 
【木下坂】愛育病院前交差点から
     有栖川記念公園の脇を下る坂。
公園の北西側に南西に下りる坂道。
坂の北側に大名家の木下家の屋敷があった。



備中(岡山県西部)足守藩木下家2万5千石
  (江戸末期の蘭医,大阪適塾設立
     緒方洪庵は備中藩から出た)
屋敷の遺構は何もないが名は残っている。
【新坂】明治通りから有栖川記念公園
   まで続く坂道。光林寺交差点近く

明治時代に新しくできた坂ということ
が由来。明治維新前は備後福山藩
           阿部家の敷地。
江戸時代には外堀があり、外堀と溜池
の埋め立てにより新しく道路ができた。
★★コメント・感想★
●このあたりに大使館がいっぱい
あるのはなぜだろう。
かっての大名屋敷が並ぶ*武家地に、
明治政府は諸外国の大使館開設地に
選んだ。
 いまでは、その数も約40数か国に
なるという。
 そのため、広尾は外国人が多く、
インターナショナルな街となり、
また、セレブが住む街となっている。
その地名の由来や歴史を知りたいと
思った。
★[地名]
・検索①:広尾という地名は、
主に地形に由来するものと考えらる。
江戸時代に麻布村の一部分として記録
された広尾はもともと「樋蘢(ひろう)」
と書かれていた。
これが後に、広野のように広大な原野
だったことから「広尾」と書かれるよう
になったとされている。
・検索② :昔はこの地に多くのツクシ
(土筆)が生えていて「土筆ヶ原
(つくしがはら)」と呼ばれていたが、
広大な原野だったこの地は後に
「広野」となった。
また、「広尾原(ひろおのはら)」とも
呼ばれ、やがて「広尾」となったという
説がある。 
・検索③:江戸時代、広尾原は渋谷村の
一部で、鷹狩りをする鷹場だった。
また、1668年(寛文8年)にこの地の
一部に町屋が建設され、渋谷広尾町が
発足したとの情報がある。
その後、この原野は「広野」と呼ばれ、
さらに元禄検地(1688年~1703年)の
頃から「広尾」と呼ばれるようになった
と言われているそうだ。
・ついでに「麻布」の地名の由来だが、
検索すると(1)麻布地区では、古くから
麻を栽培し、それを織って布を生産する
活動が行われていた。
(2)江戸時代(明暦元年頃)に、この地域
で麻を栽培・生産する活動が一般的に
なり、「麻布」という地名が定着し始めた。
(3)以前:「阿佐布」などの表記も存在した
が次第に「麻布」に統一されていった?
(4)麻布山善福寺の伝承によると、昔、
この地に麻が降ったことから「麻布留山」
と呼ばれたのが由来という説。
(5)浅い草が生えていた土地を「浅生」
と呼び、それが転じて「麻布」になった
という説などが出てくる。
 しかし、地名に関して調べると、
「崩れやすい崖池を意味するアズと
その周辺を示すべ(辺)のアズべがアザブ
に訛ったもの。
麻布台地を巡る坂道や崖池の多い麻布
界隈の地形をあらわしている。」
ちなみに六本木辺りは「スリバチ地形」
の宝庫なのだそうだ。ますます、涎が
出てきそうだ。
以前、ある知り合いの学芸員さんが、
「地名は地形に関係することが多い」
と、小さく呟いていたことを思い出す。
だから、調べるのはおもしろいんだなぁ。
《参考資料: ①山内和幸著
「地形由来でみる東京の地名」まつお出版
②酒井茂之著「江戸・東京坂道ものがたり」
              明治書院》

★江戸時代、広尾は江戸の近郊の農村地帯。
郊外ではあったが、甲州街道・大山道・
目黒道などの幹線道路に近いことから
大名の下屋敷が点在。
   《参考資料: tokyorent》
・「武家地」とは?
 江戸の土地全ては幕府の所有地で、
「武家地」(初期は90%、末期70%くらい)、
「町地」「寺社地」に大別。身分別に居住。
大名屋敷には上屋敷、中屋敷、下屋敷、
蔵屋敷などの種類。
「下屋敷」とは、火災の避難所・別荘・
保養所、野菜の自給場所として利用。
《参考資料: 鈴木理生・鈴木浩三著
   「江戸・東京の地理と歴史」
   日本実業出版社》

★南麻布に大使館が多いのは旧大名家
から没収した屋敷の跡地を明治政府が
各国に提供したから。そして
「・それらに適した広い土地や大きな寺院、
大名屋敷がたくさんあったこと
・外国人たちが港や江戸城、東海道、
横浜に近い土地を望んだこと
・公使館が集まっていたほうが警備
をしやすいと政府が判断したこと」
が大きな要因なのだそうだ。
 《資料:「TOKYO坂道散歩なび」
    坂の街研究会編より抜粋》
・「大きな寺院」
新しいおしゃれな街並みの中に時折、
古そうな黒い瓦の建物を見つけたが、
近づいてみると、それは寺院だった。
新しいものと古いものが混在している
感じだった。
(古地図:寺院の位置がハッキリ見られる)
・東京で広大な面積を残す場所は、
ほぼ大名屋敷で、庭園や公園として
現代に残っているそうだ。
★[番外編]
そういえば、何も知らずに池袋から
ウオーキングでウロウロしながら急な
坂を下ると、大きな庭園があった。
肥後細川庭園で細川家下屋敷だった
場所だった。
(神田川の北岸から武蔵野台地の傾斜を
活かした庭園)
下屋敷でもあのように広いのだなぁ。
広尾の古地図では
確かに下屋敷が多い。上屋敷もあった。
さらによく見ると「小役人」と書かれた
屋敷が多数ある。
下級旗本が暮らし、内職で糊口を
凌いでいた。地域ごとに得意な内職。
(麻布は草花の栽培)
(他地域では鈴虫飼育、傘張り、
         金魚養殖など)
《資料》「古地図で歩く江戸・東京」
  江戸楽編集部著 メイツ出版
         ★
[感想など]
現在の街並み、おしゃれで高級な住宅
やマンションが建ち並び、ガレージには
高級外車がきれいに整然と並んでいる。
私たちが歩いた道は全く自分が住む環境
とは違っていた。
でも、駅近くに庶民的なお店もあった。
高級住宅街と下町の両面を持ち、
インターナショナルな雰囲気と落ち着いた
環境が特徴がある街のようだ。
・なお、大使館は、もっとお国らしさ
が見られるのかと期待していたが、
思っていたよりもシンプルで
「静かにある」という印象のものが
多かった。警備もたいへんだし、
仕方がないのかな。
観光地ではないことがよくわかった。
・歩き始めは、駐日スイス大使館など
目の前で写真を撮っていく人も多く、
自由な雰囲気でカメラを構えていた。
しかし、大使館によっては門に
警備員が居て、緊張感が漂っていた。
中には、はっきりと
「撮影はNG」の大使館もあった。
それ以後、だんだんとカメラを控える
ことになり、一番楽しみにしていた韓国
大使館は遠くから眺めるだけになった。
韓国風の文化をもっと近くから感じ取り
たかった。
●広尾あたりの地形は、坂・階段・暗渠
など、涎が出そうな魅力がいっぱいの
ようだったが、今回は集団行動である
ため、サラリと通るだけであった。
調べてみたら、寺院の石碑などおもしろ
そうなものもたくさんあるようだった。
●この歩きで感じたこと、それは自分が
「多摩歩き」を好む理由だ。
23区内の「歩き」用のガイドブック
も幾つも購入してきたが心が向くのは
そして行きたいのは多摩地区なのだ。
人混みの多さ、地下鉄の長いエスカ
レーター、連絡通路の長さ、これら
から自分は離れていたいのだ。
「緑の中を歩きたい」しみじみと思って
しまう。そんな思いに駆られている時に
電話が鳴った。
「次は・・青山を歩くよ!!」
  ……………次号へ………   
…………………………



🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️🔸(44) 【猫との暮らし・日常雑話】

2025-06-26 16:11:00 | 日記
🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️🔸     
         (その44)
【猫との暮らし・日常雑話など】
 プラス🔻「歩き🚶‍♀️‍➡️のお勉強」🔻
 〜歩いて 調べて その記録〜
************
🐈‍⬛ポン太郎
ねぇー おかあさん
ぼく あつくてたまらないよ

ひえひえの まっと しーと
ぬれタオル
よしず しゃこうカーテン
たくさん よういしてもらったけれど

ぼくは こおりまくらが
いちばん きもちいい と おもうよ

   ◉
暑い日々が続き、
ポン太郎の留守番をどうするかで
悩んでいる。
彼はエアコンが好きではない。
さすがにこの暑さでは苦しそうで
対策を考えている。
・葦簀ヨシズ➕段ボールで日陰
 遮光カーテン
・濡れタオルのカーテン
・氷枕
・冷え冷えマット&シート
・扇風機・冷風扇
 (でも、結局、エアコンにする)
・とにかく、人間が早く帰る!
こんなに心配して、
あの手この手で対策を考えているのに
氷やタオルの交換時には、
人に爪を立ててしまうポン太郎君です。
毎日、「捕獲されるのか」(通院)という
不安でいっぱいの彼です。
……………………………………………

★「きよき土なり」の町を歩いて
  〜志木街道沿いコース〜
          (その14)
いつからだろう。
健康のために始めたウオーキング。
そこで出会った、いろいろな石碑・戦跡。
しかし、
知識もなく、スルーすることが多かった。
後になって悔いることが多かった。
でも、
途中からは、調べることも楽しくなった。
「〜歩いて、調べて、考えて〜だ。」
そして、
先輩の勧めで知った
   志木街道沿いの歩きコース。
地図をいただき、
歩いたのは1月の冬の日。
早歩きならば、
半日もあれば歩くことができる。
さらに、この地を知るために別の日に
御殿山・円通寺・所沢:城山神社を訪ねた。
見つけることが出来なかった庚申塔の
写真1枚を撮るために(10分だけの滞在)
再度、向かった場所もあった。
そして、あれこれしているうちに
まとめの掲載が6月になってしまった。
秋津や神社巡りなど、
まだ行ってみたいところもあるが、
そろそろ他の地も歩いてみようと思う。

知らない町を歩くのはおもしろい。
特にこの「志木街道沿いコース」は
面白かった。
ひとつの土地に絞って、関連を考え
ながら調べるのは初めてだったから
かもしれない。

古くからこの地に暮らす人から昔話を
聞くこともできた。
また、[地名の言われ〕を考えるのも
おもしろかった
(村名の由来は古くからの集落
である「清戸」と その北側を流れる
「柳瀬川」から一文字づつ採った、とも
いわれる。)
        ★
「清き土なり」から始まって、
  「土」から「戸」へ
・そもそも「戸」は門口や出入り口を指す。
(小 学 館 の 国 大 辞 典 :「 戸 」 について
 「 人 戸 、 民 家 、 戸 籍 」 と あ る。) 
・地名で言う「戸」とは?
・清戸村は安松(現:所沢)の人が開いた
新田で、菅沢村(現新座市)の入口という
説がある。「清」はスガと訓読みできる。
・いずれにせよ、不明。
★★ 番外編)
・個人的な予想では、、、
街道と馬🐴及び厩は密接な関係があり、
東北のように地名と馬に関係があるのか
と、思ってしまった。 
でも、清瀬では違うようだ。
・ちなみに東北の地名の場合はこうだ。
             面白い!
🐴 【東北の場合】
「戸」の由来は、
厩(うまや)の戸という意味。
別の「戸」の由来になったのはこの地区で
作られていた雑穀の「ヒエ」が「戸」の
語源という。
・この地区で作られていた雑穀の「ヒエ」
が「戸」の語源。
ヒエの実は人が食べ、脱穀後の殻や茎を
馬の飼料にし、堆肥は雑穀畑で活用する
“循環式農業”が早くから定着。
「ヒエ」は生命力が強く、天明・天保の
大冷害による飢饉をこの「ヒエ」で乗り
越えた。
厩(うまや)の戸、ヒエからの語源から
の「戸(へ)」、どちらも循環式農業から
の由来として「戸(へ)」の地名。
《参考資料:「くまさん自然農園」HP》

       ★
・歴史ある寺院、
・土蔵や屋敷林に覆われた旧家(農家)の
             文化遺産、
・さらに下宿に進むと
    魅力的な文化が残されていた。
・・・歴史を調べたくなる町だった。
        ★
志木街道沿いの歴史は面白かった。
⚫︎奈良時代
・清戸下宿は、市内で最も早くから
 発展した集落
⚫︎戦国時代
・後北条氏の勢力下に入った戦国時代
 末期に集落(三清戸)が発達
・清戸下宿のあたりは軍事的な要衝
 「清戸番所」が置かれたという説有り
・戦国時代末期創建といわれる「長命寺」
・1579(天正7)年に社殿が造営された
 ともいわれる「日枝神社」
⚫︎江戸時代
・鷹狩のための負担
・青梅で採れる石灰などを新河岸川の
 引又河岸へ運ぶ街道としても賑わい
・三清戸から江戸へ向かう道(「清戸道」)
 の発達 (収穫された野菜を江戸へ)
⚫︎明治時代
・1889(明治22)年、三清戸などが
 合併し「清瀬村」誕生
⚫︎昭和時代
○(戦時中)
・白壁の蔵は、仕切って疎開者が生活
・寺院での学童疎開の受け入れ
・樹木の供出
 (太い幹回りのもの:船の材・鉄砲の材、
         松根油)などなど
○(戦後)
・1954年(昭和29年)「清瀬町」へ
・1970年(昭和45年)「清瀬市」へ
          ★
いろいろな学びがあった。
(決して!
向日葵と人参だけの町ではないのだ)
・自然と屋敷林のこと
・「講」という地域のつながり
・民の信仰と願い
・物流と街道
・他地域とのつながり
(青梅)
(隣接する柳瀬川から新河岸シンガシ川、
江戸への水運の利便性:
新河岸川は川越藩が江戸への物流の大動脈
と考えている河川)
(新座、朝霞、東久留米、練馬、
        江戸、所沢など)
       ★
しかし、
多摩地区の歴史の本や資料は
少なくて困った。
図書館にも資料があまりなくて、
幾つかをまわることになった。

図書館といえば、
この土地は、そのことで揺れている。
テレビ、ラジオ、新聞などで全国に
その図書館問題は
     知らされることになった。
市民への説明なく、
いきなりの6館中4館の閉館の通知。
本屋も閉店へ。
読書や調べ物好きな人のショックは
大きいだろう。
バス停でご婦人達から、いろいろな
生活面の愚痴を聞かされた。


市内のすべての公共施設再編計画で
一気に、生活が不便になっているのだ
そうだ。
社会生活が時代とともに変わっていく
のはある程度仕方がないのかもしれない
が、なんだか寂しい気持ちになる。

これからも
この土地の文化的遺産が
     守られていきますように。
学習させていただき、
     ありがとうございました。

「『きよき土なり』のあるき
      〜志木街道に沿って〜」
今号をもって、とりあえず、終。


《追記》
この歩きで、猫との遭遇はなかった。
動物団体が頑張っているのだろうか。
(いや、
 1箇所のみ見かけたぞ。チラリ!)


そっと、でも、逞しく、
皆に愛されて、この地で生きてほしい。
、、、、、、、、、、、、
《参考資料》
①itot   ②「きよせ中里だより」
③「日本の古い町並み」  など
・・・・・・・・・・・・


🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️🔸(43) 【猫との暮らし・日常雑話】

2025-06-25 14:56:00 | 日記
*…………………………………………*
🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️🔸     
         (その43)
【猫との暮らし・日常雑話など】
 プラス🔻「歩き🚶‍♀️‍➡️のお勉強」🔻
 〜歩いて 調べて その記録〜
************
🐈‍⬛ポン太郎
ねぇー おかあさん
ぼく あついよぉー
ぼく ハァ〜ハァ〜しちゃう

おみずを たくさんちょーだい
くれないと
ぬれタオル
チューチュウ すっちゃうぞ

*(吐きぐせがあるため、
お水は少しずつなのです。
暑さ対策で、ケージのそばに
ぬれタオルを2枚、
ぶら下げているのですが、
チューチューと吸っていてビックリ)
**************
👤🗣️
♦️【きよき土なり】のおべんきょう♦️
   歩いて、調べて、考えて・・・
          (その13)
志木街道に沿って:史跡の歩き
 おべんきょう報告の続きである
⤵︎いよいよ、テーマは「きよと道」!
知りたいことがいっぱいのテーマだ。

★「『きよと道』って?
  『きよと道』とは「なんだろう?」
この地域の郷土史に興味ある人の
ほとんどは、「きよと道」について
知りたいのではないだろうか。

「きよと道」をテーマにしたブログは
たくさんあるようだ。
しかし、ハッキリしないことも多くて
なんだかスッキリしない。
幾つか、気になった資料を紹介する。

*****************
資料⑴】
◉江戸川橋から北西へ
  約5~6里(20~24㎞)の
武蔵国多摩郡清戸(現清瀬市)を
結んだ古道。大正4年武蔵野鉄道
(西武鉄道の前身)が開通するまでは
練馬・石神井・大泉から市中へ出るのに
この道が最も近道であった。
起点は江戸川橋であるが、終点は
はっきりせず複数の道があるようである。
   《ブログ「気ままに歩く」より》
 *******************
資料⑵】
◉【TOKYO 854くるめラ FM85.4MHz
    パーソナリティブログ】
きよと道をめぐって説明が詳しく紹介されて
いて、大変面白いと思ったので、その一部を
掲載させていただく。
   …………⬇️…………
○その昔、清瀬市は「清戸」という地名
だった。今も上清戸・中清戸・下清戸
という地名が残っている。
下宿も清戸下宿と言われていた。
その清戸を目指して江戸から続く
「清戸道」という道があった。

・1885年(明治18年)の『渡辺(東京)
府知事管内巡回記』に五街道の中山道
並みに重要な道路として登場
・『北豊島郡誌』では1918年(大正7年)
度に行われた交通量調査で、清戸道の
交通量は川越街道よりも多かった!
、、、、、との記述があるそうだ。

郷土博物館の説明によると
江戸時代前期に武蔵野一帯は尾張藩の
鷹場で、1670年代から1780年頃、
現在の清瀬市中清戸に「清戸御殿」
と呼ばれる藩主や近習が鷹狩の際に
使用した御殿があり、尾張藩邸から
清戸御殿への道が整備され、
それが清戸道の始まりではないか・・・
との話だ。

清戸道の起点は神田川にかかる江戸川橋
そこから練馬区内までは旧目白通りと
いうことはわかっているが、練馬から先
清瀬までのルートが不明で様々な説が
ある。

○「清戸御殿跡」          
現在、清瀬御殿山緑地保全地域には
清戸御殿跡の碑も説明書きもない。
練馬や文京には清戸道の説明書きに
清戸御殿が登場したりしているのに
清瀬では「清戸道」も「清戸御殿」も
その存在を知る人は少ない。
清瀬の歴史・文化・財産として市内
でも多くの人に知ってもらえたらと思う。

各所の資料館で得た情報を整理すると、
①清瀬市郷土博物館では
「清戸道は尾張藩の鷹狩の際に使われた
      清戸御殿に来るための道」
②豊島区立郷土資料館では
 「江戸城から練馬城・石神井城を抜け
   滝の城、そして川越城に続く道」
③練馬区立
   石神井公園ふるさと文化館では
 「清戸を抜け、清瀬橋を渡り、
    所沢・飯能・秩父に至る道」
④新座市歴史民俗資料館では
 「清戸方面に向かう道は、 
   みーんな清戸道なのでは?!」

〈仮説〉
・江戸川橋から大泉学園までは
          旧目白通り
・大泉から清瀬までの「所説あり」
という地域では、時代によって目的地が
違い清戸道が変化したのではないか?

○時代とルートは主に次の3つ
① 戦国時代
清戸番所があった(?)清戸下宿(現、
清瀬市下宿)に向かう道としてメジャー
な存在に清戸道と言われる所以は
「清戸番所」がルーツなのでは?
② 江戸前期
鷹狩りの際に使用された清戸御殿がある
中清戸に向かう道として整備された
③ 江戸後期以降
農家が江戸に傷みにくい農作物や薪など
の木材を運ぶ道として発展
「東京都道24号・練馬所沢線」が
その名残りではないか

その後、大正13年(1924年)に武蔵野
鉄道(現、西武池袋線)清瀬駅が開駅した
ことで道の必要性が低下し、その役割を
終えたのではないか。

練馬区・豊島区・文京区では、農作物を
神田市場に運んだ道として歴史に刻まれて
いる。小中学校で郷土史を学ぶための
副読本にも必ず「清戸道」がでてくる。
石碑も街道沿いに点々と・・・

《TOKYO854くるめラ FM85.4MHz
     パーソナリティブログより》
*****************
【資料⑶】 
◉「清瀬市史研究9号」では齋藤隆雄氏
が清戸道について執筆されているので
その要点を紹介する。
♦️「清戸道」:江戸から見た名称
  始点 江戸川橋→目白坂
  江戸時代に神田川に架かる江戸橋
  が起点。
  (当時の主要道のひとつ)
(⛩️幸神社には清戸道の説明掲示有り)
→目白通り→不忍通り合流→清戸坂
→目白駅前→練馬 千川通り目白通り
の一部→西大泉→分岐
そのひとつ 新座:栗原、
      東久留米:神宝町金山町
→野火止用水→新堀交差点→新座市
 (「練馬所沢線」/ もと「松井高田線」)

♦️「江戸道」:清戸から見た名称

【資料(4)】************
✴︎✴︎✴︎石地蔵🪨と清戸道
    (分岐点に立つ石地蔵)✴︎✴︎✴︎
      新座市新堀2丁目
台座の正面 
   ◇*右)「きよと カワコヱ道
道標 ひまわり通り→新小金井街道
  →中清戸駐在所交差点(志木街道)
      🟰上清戸と中清戸の境
   ◇*南)「江戸みち」
    (上清戸村の絵図に
    「江戸道」と記されている)
   ◇*左)「ところ沢 ちゝふ道」
         (練馬所沢線)
     十字路左→2度右折→→
  →元町1丁目大岱道オンタミチへ
           (八王子道)
  →小金井街道となって所沢→秩父
✴︎清戸:「きよと」(本来は「きよど」)
***************
【資料(5)】
◉「多摩の歴史2」では
当時のエピソードも紹介されている。

⚫︎三清戸は志木街道を挟んで作られた
街村。江戸に通じる道を江戸道と
呼んでいたが、江戸の人は「おわい
街道」と呼んでいた。
江戸に野菜を運んでの帰りに
車いっぱいに「おわい(人糞)」を
積んで帰って来たのでそう呼ばれた。
⚫︎昭和の初期、
志木街道から川越街道を通って神田など
の市場に野菜を出荷した頃の苦労話
(夜道、坂道、休息地など)も残って
いるようだ。


【資料(6)】**************
★坂上幽霊坂出合いの目白通り寄りに
文京区の説明板。
「延宝4年(1676年)、御三家尾張徳川家
の御鷹場が中清戸(現 清瀬市)につくら
れた。将軍もしばしば出かけて鷹狩りを
行った。これが現在の目白通りである。
首都高速道路(5号線)護国寺出入口
(護国寺側)から 目白通りに向かって
の広い道は昔から〝清戸道に登る坂″
ということで『清戸坂』といわれた。    
****************
【資料(7)】
*「大根街道」 
清戸道(きよとみち)は、江戸と清戸を結ぶ道。
清戸(清瀬)への道なので清戸道。
昔の道路は、たいてい行き先の地名で呼ばれていた。
(清戸や練馬では「江戸道」、あるいは途中、
鬼子母神のある町の名をとって「雑司ヶ谷道」
と呼んでいた。)
明治初期には中山道、川越街道などと並ぶ
主要道として「清戸道」があげられている。
小榑村(現:練馬区西大泉)から先は、
3本に分かれ、それぞれ上清戸道、中清戸道、
下清戸道とも呼ばれていた。(榑クレと読む)
御鷹場への道として整備されたこの道は、
やがて近郊農村から野菜を運び、また下肥を
汲んで帰ってくる道として利用された。
(沢庵大根として名高い練馬大根の産地は、
この道沿いに広がっていた。
発祥の地、生産地、後の生産地である
新座などはこの沿道にあり、「大根街道」
とも呼ぶべき道であるそうだ。)
《資料:「やとじぃの江戸ノ背通信 
   水路ー谷戸ー歴史ー野菜」》


・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・【コメント・感想など】
★私は文京区で一時、過ごしてきた。
坂道に興味があり、文京区関口と清瀬
を結ぶ清戸道という名の古道があること
を知っていた。
郷土館学芸員さんに詳しいことを聞いて
みたいと思っていたが、ここでも清戸道
については諸説があるとの説明だった。
★今でも「清瀬市」と聞いて、
「どこにあるの?埼玉?」「千葉?神奈川?」
「そこって、都内?ヘエ〜」という知名度。
それなのに、あの当時に
小さな集落の名がついている道
        とはなんだろう。

★清戸の旧家の大きな屋敷や蔵
   *写真:再掲載 「蔵」

・清戸にある一家の墓地のための庵
・清戸の「一家稲荷」(イッケイナリ)
   例:上清戸稲荷神社
・あちこちの石造物の寄進者
   (掘られている特定の名)

      *写真:馬頭観音
・鷹狩のおもてなしをした農家

〜集落には裕福な農家が
    あったのだろうか?〜

当時、水田はごく一部に限られ、
畑地が広がっていた、と
聞いているのだが?
どんな土地だったのだろう?
なぜ、目的地・行き先の地と
なったのだろう?
当時の生活は
 どんなだったのだろうか?
  
      *写真: 現在のネギ畑
★江戸時代の上清戸の古地図で
見てみると志木街道から(現在の)
中清戸駐在所の角を曲がると
「江戸道🟰清戸道」のようだが
歩いてみると普通の道で地元の人も
知らないのではないかと思われた。
★個人で歩いている人たちの報告を
ブログで読んだ。
郷土史に興味ある人たちが集まり、
〈清戸道を歩くウオーキングツアー〉も
あったそうだ。
・「きよと道」の手作り地図を作成し、
地域の文化祭で調査発表をした人も
いるそうだ。   すごいなぁ!
私のような「ニワカ歩き人」が扱う
テーマではないらしい。
(ここまで来て恥ずかしくなった)
でも、資料を読んでいくと、面白くて
紹介したいと思ってしまうのだ。
でも、まだまだわからないことだらけ。
   *写真:「三清戸」(再掲載)

・・・今号も抜粋が多くなり、気が引ける。
・・・・・・・・
【追記】: (後日、追加した)
文京区の坂について調べていたら、
「清戸坂」は「清坂」とも呼ばれ、坂の
北西部には「雑司ヶ谷清土村百姓町」
があったことが書かれていた。
読みも「せいどざか」
文京区教育委員会による説明では清戸道
・清戸坂について「将軍が鷹狩りに通った
道」から説明しているが「寛文11年-13年
の新板江戸外絵図 小日向、牛込、四ツ谷
に目白通りが既に描かれている。
また、尾張家の鷹場に通ったのは尾張藩主
であり、将軍が通ったというのも誤り」
という指摘を見つけた。
さらに雑司ヶ谷の鬼子母神が出現した
現在の雑司ヶ谷あるいは目白界隈の一部
の地名も「清土」(せいと)と呼ばれていた
ようだ。他にも清戸道を「せいとどう」
ではないかという説もあった。
だから、歴史は面白いのかもしれない。
《資料》
①「江戸・東京坂ものがたり」
 酒井茂之 著 明治書院
②ブログ「落合学」落合道人 
③「hira214のブログ」   
   そして、次号へ・・・・
……………………………………

🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし (42 ) 【猫との暮らし・日常雑話】

2025-06-21 20:43:00 | 日記
🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️🔸     
         (その42 )
【猫との暮らし・日常雑話など】
 後半:🔻「歩き🚶‍♀️‍➡️のお勉強」🔻
   歩いて 調べてその記録
ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•
🐈‍⬛ポン太郎
ぼくは おかあさんがきらいだ
あみをかぶせて
どこかしらないところに
つれていったりするんだよ

だから
「しゃぁ〜」を
  いっぱいしてあげるんだ
  ちかよるな!
ボクに ちかよるな!!

ボクのゆったりおひるねタイム〜
 (ちょっと前の5月のバラ!
 あちこちでハート型に咲かせている
        お庭があったよ。)
私)
ポン太郎の通院には
捕獲だけで
とても時間がかかります。
これまで、何回も諦めてきました。
手袋をしていても
私の手は、いつも名誉の負傷。
でも、
彼は凶暴な猫ではなく、
「たいへんなビビリ猫」なだけです。
猫の館に行くと、
もっともっとビビリ君がいます。
強力なシャーしゃ〜威嚇、
大きなカッ・カッの舌打ち、

ポン太郎なんて、
かわいいものなのです。
………………………   ……
…………………………………
続)歩きのお勉強(その12)
 〜「清き土なり」
  志木街道をあるく〜
★★「御殿山」をさがす
志木街道の
日枝神社と長命寺の中間左手辺り
遠くを眺めると、
そこだけこんもりと緑の林が見えた。
     (とりあえず、カメラ)

市史に詳しい人は、
「志木街道から、
御殿山が見えますから!」と
       言っていた。
「はて?」
「御殿山って、なんだろう?」
周りの人に聞いても
誰も知る人はいなかった。

5月、
「ふせぎ」参加のために
バスの中から遠くを見ていると、
緑の木々のかたまりが見えたので
あれは、きっと御殿山だと思った。

そして、さらに後日、
その辺りを探すことにした。
あれ? ない!

地元の人たちに聞いても
「知らない」と言われてしまった。
けやき通りから撮った写真も
あるのだが? あれ? あれ?

     (勘違いの写真??)
道で迷ってしまい、
おじいさんに聞いてみると
「見たのは、日枝神社じゃないの。」
「市役所で聞いてみたら」とのこと。
しかし、
市役所受付の職員も知らなかった。
検索して調べてもらって、
やっと、目的地に着いた。

ここに来るまで、長かった。
小学校と団地と住宅地の間に
お目当ての
「御殿場山緑地保全地域」は、あった。
とても歴史ある土地なのに
保存されていた緑地は
予想よりも小さかった。
林の中の道を歩いてみたが
すぐに通りに出てしまった。
昔は
広々とした緑地だったろうになぁ。













今後も鳥や虫たちの憩いの場として、
残ってほしい空間だ。
でも、どうして地元の多くの人に
知られていないのだろう?

〜さぁ、調べてみよう〜
◉「武蔵野一帯は江戸時代、
御三家の尾張徳川氏の鷹場。
寛永18年から延宝4年にかけては
現在の東久留米市に宿泊所が設けられ
    「前沢御殿」と呼ばれたが
これが現在の清瀬市に移転したものが
    清戸御殿である。
清戸御殿はその後、
安永年間まで使われた。

現在、御殿山緑地保全地域として
自然が保存されている地域が
かつての清戸御殿。」
    《参考 「web清瀬市」》

⚫︎この雑木林は、武蔵野の面影を
残す平坦な林で一部にアカマツが
混じるほか、
ほぼ全域がコナラやクヌギ。
また、この雑木林の中にはいろんな
草花、昆虫類、鳥がいる。
 《参考資料 「東京都観光局」など》
………………………………………………

◉時代劇を観ていると、
鷹狩りの場面がよく出てくる。
また、
現在でも鷹匠の伝統は続いている。
知っているようで知らない世界。
    「鷹狩り」とは?
 〜 もっと、詳しく調べてみよう 〜
●小平の「市史」に
尾張家の鷹場に関する経過が
載っていた。
(「きよと村」についても触れている!)
*「尾張家鷹場」    
[江戸の西部に広がる多摩郡には、
御三家の一つ尾張家の鷹場が設けられた。
尾張家鷹場は、「尾州様御鷹場御定杭
(さだめくい)場所書上帳」(史料集二一、
六頁、以下「書上帳」と略す)によれば、
寛永年間(一六二四~四四)に尾張家
初代当主の徳川義直が入間郡内の坂戸
(現埼玉県坂戸市)と比企郡高坂(現埼玉県
東松山市)に鷹場を与えられたことに
はじまる。ただし、幕府の記録『徳川実紀
(じっき)』寛永一〇年二月一三日条には、
「尾紀水三卿に放鷹の地をくださる」
(第二篇、五八五頁)とあり、
寛永一〇年のこととする。
 寛永年間、尾張家当主や世嗣などの
鷹狩りの拠点として、入間郡扇町屋村
(現埼玉県入間市)に御殿が設けられた。
のち御殿は、同郡所沢村薬王寺地内
(現埼玉県所沢市)、さらに多摩郡前沢村
延命寺地内(現東久留米市)へ移動した。
延宝四年(一六七六)には、「書上帳」に
よれば、鷹場の西北部には谷や峰が多く、
数度山狩りをしたものの冬鳥の居付きが
悪いため、遠い山を返上し川越藩領内で
二四か村を受け取り(史料集二一、二二頁)、
これにともない、清戸村(現清瀬市)に
御殿を設けた(史料集二一、二二七頁)。]
 《資料 「小平市史」
    ただし、一部ふりがな略》

●検索:[鷹狩りの歴史]
日本では
西暦355年、仁徳天皇の時代に
大陸から鷹を輸入→
朝廷を中心に
公家の遊びとして親しまれる。
もっとも盛んになったのは江戸時代。

徳川家康が鷹を独占した後、
三代将軍家光と八代将軍吉宗の時代には
鷹場を設置、
鷹狩りの法律を定めて
幕府自ら管理するようになった。

●検索:[鷹狩りの目的]
①娯楽:
鷹を使い
鳥や小動物を捕獲する狩猟の一種
(貴族や武士の間の嗜み)
②権威の象徴:

  天皇や武将などの権威を示す儀式
  また、武士の基礎的な素養として
③健康維持:
野山を駆け巡る
      →健康維持のため
(特に徳川家康は
生涯にわたって鷹狩りを楽しんだ)
・《資料》将軍家の公式な記録
         『徳川実紀』
「鷹狩は遊娯の為のみにあらず(中略)
山野を奔駆(ほんく)し、身体を労働して、
兼(かね)て軍務を調達し給は(たまわ)ん
との盛慮(せいりょ)にて」
(山野を駆け回って運動することが健康
維持に役立つと考えた家康は、鷹狩りに
励み、生涯で千回以上もの鷹狩りをした。)
・人質であった今川時代にも、
 鷹狩りを好んで行う。
・家康は天下統一を成し遂げた後、
 鷹狩りに使う鷹の売買を禁止
 →鷹はすべて徳川の独占
 →鷹狩りは権威の象徴
・明治時代に入っても天皇家に
 美しい鷹が奉献される
・(ちなみに海外では現在でも
  鷹狩りはステータスの高い趣味)
④軍事訓練:

  (武士の基礎的な素養として重視)
・鷹狩りは戦の練習として最適!
〜鷹狩りは戦いのシミュレーション〜
・徳川幕府による全国統治
→戦乱の時代がひとまず終わる
→武士達は
 戦いの実践を体験できなくなる
→万が一の実践に備えての戦闘訓練
・目的のために
 少人数を自分の意のまま素早く動かす
→号令の出し方、隊の効率的動かし方
・獲物を敵に見立てて戦う
        実践的な訓練の場
・敵の動きを封じるための
       効率的な配陣
・地形や地面の状態を見ながらの 
           瞬時の判断
⑤贈答:
 鷹狩り用の鷹、
 また、鷹の獲物は贈答品
⑥領地視察:
 領内の民情や敵地の情勢を探るため
・組織が巨大化
 →現場の実態がつかみにくくなる

・鷹狩りと称しながら領地を視察
 →実態把握可能
 *以上、歴史・目的について
  《参考資料 
  ①ブログ「和楽 武将こぼれ話」
  ② 「Google検索」 など》
【感想】
●若き将軍がひ弱であるため、
鷹狩りに出ることを勧められる
時代劇のシーン(場面)を観た。
一日中、野を駆け巡ったら、
さぞかし運動量は多いだろう。
そして、
「お供もたいへんだろうに」
と思っていた。
鷹狩りについて調べることになり、
戦いのシュミレーションの場であった
などの説明は、なるほどと思った。
●その鷹狩りを行うためには、
見えない所でたくさんの人の
いろいろなご苦労と準備がある
のではないかと、住民側から
振り返りたいと思った。
そこでは住民は人足や経費の負担、
役人の往来に対応するなど、
様々な役割があったに違いない。
………   検索続行  ……
【鷹狩りのために
     住民が負う役割負担】
①人足の負担:
 鷹場への役人の派遣
→住民は人足として世話をする役割

②経費の負担:
 役人の宿泊や食事や馬の世話
  など関連する経費の一部を負担する義務

③役人の対応:
 
 鷹狩りの際には、役人が村を訪れる
→住民は役人への対応、情報提供など

④許可の取得:
 鷹狩りを行う場所や時期、
 また、
 鷹狩りに関する活動を行う際には、
 領主からの許可を得る必要

⑤鷹場への貢献:
 特別な地域として、
 住民は鷹場を維持・管理する役割
⑥その他:
 道標、道の整備、道案内など


★【鷹場村々の負担】 
      《資料 船橋市》
[鷹場の村々は、鷹狩りや訓練の
時には人的、経済的な負担を負いました。
(略)鳥見役と呼ばれる役人の来村の
際には人足や経費を負担しました。
御捉飼場では訓練の時や野廻り役という
役人の来村の際に、同様の負担を負いました。
 それにもまして鷹場では、日常の生活に
種々の規制が加えられていました。
雁・魚等を捕らないこと。
稲刈りの後の田に水を張らないこと。
病鳥や落鳥があったら役人に届け出ること。
鷹の訓練の時には犬をつなぎ、
口つきのない馬に乗らないこと。
家作や道路の普請も鷹場役人に届け出ること。
訓練の時は川等に小橋をかけ、御鷹御用
の者以外は使用させないこと
(この橋を鷹匠橋といいます)。
訓練の時は、かかしを取り払っておくこと。
芝居や開帳など人が大勢集まるような
行事をしないこと
  ―など実に細かい規制でした。]

★「鷹場人足負担」
《資料抜粋 小平市図書館》
[寛延三年(一七五〇)一〇月、野中
新田善左衛門組は、鷹場預り案内の
下田孫右衛門に対して、寛延元年に
同新田は鷹場となり、翌二年に鷹場
役人の旅宿(りょじゅく)となった。
他方、新田であるために農民の生活は
苦しく、遠方の御用は勤められない、
このまま旅宿を勤めるのであれば、
清戸村(きよとむら)の鷹狩の御成り
御用人馬を免除してほしいと願っている。]

★当時に関する詳しい記録が「練馬区史」
にある。「きよとむら」についても記載が
あるが、かなり長いので、かかわりの
ありそうな部分のみ紹介する。
[江戸初期より鷹狩りと称して尾張藩主
の御成りの道筋になっていたことの説明
*・練馬・清土村・朝霞(膝折)・新座
 (十二天:現在、片山)・三芳町(上富)
    など、鷹狩りに関する地名
 ・食事休養のために寄った寺名、
 ・関係する年月日  ・出猟記録
 ・脇本陣の旧家名の記録
        など詳細な掲載。
*休泊・休憩・昼御膳の説明部分で
中清戸の全龍寺の名がある。
*「正保元年1644年10月、
御殿 東久留米前沢の延命寺に移転」
(鉄砲を主体とした鹿猪を中心とする
狩が中心であったこと)
「延宝4年1676年、中清戸 
小寺宇左衛門方に御殿三転。
現在、小寺作一郎氏の裏山を御殿山
と称し、以前には小高い丘状を呈し
周囲には堀がめぐらされていたという。」
*「『新編武蔵風土記稿』によれば、
『中清戸村此辺すべて尾張殿の鷹場なり
昭和の頃までは、かなりの御殿など
云もありしと云』と記されている。
おそらく安永期1772〜8)に至って
廃止されたものであろう」]
《参考資料 「練馬区史」 練馬図書館》

★資料: 【東久留米 「前沢御殿」】
・楊柳沢御殿(前沢御殿)見取り図
・鷹狩日程表(1641〜1675)
     1676年廃止
・通常300人に及ぶ大人数で
        行われたこと
・現在➡️旧延命寺跡の墓地
    などの記載があった。
「くるめの文化財」平成16・3 :「19号」
   (教育委員会生涯学習課発行)

【コメント】
・・遺構は何も残っていないそうだ。
しかし、何も説明する案内板がない
のは残念。
知らない市民(近所の人まで)が多い。

⚫︎「清戸御殿」の概要はわからないそう
だが、、、しかし!
清瀬市史によると、御殿廃止の
1784年天明4年の敷地の略図が
尾張藩作事方の記録にあり、
令和5年に
名古屋蓬左文庫の「清戸之図」
画像データを入手することが
できたそうだ。
規模、機能、上司との応対、儀礼
などの推測から、さらに研究が
進められそうだ。期待❗️

●「清戸村」の資料もあまり残って
いないのだろうか。
あれこれと探し、いくつかの資料を
見つけた時は嬉しくて声をあげて
しまった。
(今号は資料抜粋ばかりになってしまった)
他の区や市史・冊子に登場する「きよとむら」
の記載を見つけると、あの御殿山の
周辺の当時の住民の声をつい想像
してしまった。
そして、ぜひ、郷土研究を進めて
いただきたいと思ってしまった。 
………………………次号へ……

🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️🔸(41 ) 【猫との暮らし・日常雑話】 

2025-06-10 14:50:00 | 日記
🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️🔸     
           (その41 )
【猫との暮らし・日常雑話など】
 🔻「歩き🚶‍♀️‍➡️のお勉強」🔻
歩いて 調べて その記録
ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•
🐈‍⬛ポン太郎
あじさいが きれいだ
6がつだね
ぼくは 12さいになった(たぶんね)
どうやら ぼくは 
へびどしの5がつにうまれたらしい

そういえばこの5がつは 
あかちゃんねこの わだいがおおかった
いぜんよりも へったけれど
まだまだ 
あかちゃんねこは 
       ほごされているらしい

ところで
プンたろうくんは スクスクそだって
せんぱいたちに ちょっかいかけて
あそんでもらっているらしい
おおきくなるのは はやいね
         《写真⬇️》



どんどん大きくなっていくプン太郎君

この日は、午前中に
小さな子どもたちの相手をさせられ
疲れ切って眠っていた。
ピー子も同じく、爆睡中。

ふたりを並べてみると、こんな感じ。


・・・…………………………・・・
👱🗣️「歩き」の続き!
♦️【清き土なり】のおべんきょう♦️
 (11)「長源寺」
      〜志木街道沿いを歩く
★★長源寺★
・長命寺から東へ、
  志木街道沿いに長源寺の入口がある。
   (寺名が似ていて、ややこしい?)
「長命寺から近い」と教えられ、
帰り時間が迫っていたので
走って向かうと息切れし結構きつかった。
近いけれど、500mほどあるようだ。

・長源寺は
『全龍寺』を創建した東久留米市の
「浄牧院」第九世の玉室應珍
  (1613年・慶長18年寂)
      が開山となり創建された。
 正式名称は、清戸山長源寺(曹洞宗)
(新編武蔵風土記稿による長源寺の縁起)
   御本尊: 釈迦牟尼仏
・門柱が立つ入口から境内に入ると
         静寂、厳粛な雰囲気。
境内には、お参りのご夫婦のみ。
正面に本堂が立ち、
参道左脇には、
お目当ての六地蔵が並んでいた。
竹林が美しいと聞き、
遠くからそれを目印に
探し探し歩いてきたのだが
確かに
竹林が禅寺らしい凛とした静寂さを保ち
爽やかな雰囲気を醸し出していた。
そして、掃除も行き届いていた。
・本堂

銅板葺き、入母屋造り(屋根の上部が本を
開いた時のような2方向の勾配)屋根
*平入り(*建物の入口が平側にある棟に
平行な長辺側に玄関がある)
流れ向拝(屋根の流れを延長して正面に
突き出した部分のこと)
・本堂の前、両脇に一対の立派な石灯籠 
 正徳2年(1712)
どちらにも、文昭院(6代将軍徳川家宣)
と刻まれている。
徳川六代将軍家宣の霊廟前に奉納された
石灯籠である。
(「長命寺」同様に増上寺にあったもの)
(曹洞宗寺院に浄土宗増上寺の石灯篭が
あることに疑問をもつ人もいると思うが、
その経緯については、長命寺を調べた際
まとめたので参照してほしい。)

・このお寺は、客殿が大変立派である。

突出した、唐破風屋根の玄関(からはふ)
:  中央部分が盛り上がり(弓形)
 左右両端が反り返った曲線状、
  弧を描くように反転した形状の破風)
壁面の雰囲気やデザインに惹かれる人も
多いだろう。
⚫︎丸彫りの六地蔵菩薩立像 
天明2年(1782)  赤い衣装の六地蔵
その赤の鮮やかさは背部の竹林の緑に
よって際立って見える。

蓮台、敷茄子、石塔ともにそろって
しっかりと立っている。
・頭部には補修跡なし。
 尊顔にも大きな損傷もないようだ。
・石塔の正面に「念佛講中」とある
            ものもある。
・各石塔の側面に願主名。
  さらに武州下清戸村、
  その横に造立年月日が刻まれている。

⚫︎本堂の手前、参道左脇の植え込みの中
 に丸彫りの地蔵菩薩塔
  享保6年(1721)
 このお地蔵様も錫杖・宝珠ともに欠ける
 ことなく美しいお姿。
・塔の正面中央「奉造立地蔵尊」
 両脇に造立年月日。
 右側面に武州下清戸村。
 右側面に願主 一名の名前。
 その横に講中二拾六人と刻まれている。
●清瀬の名木
「巨木百選No.28サルスベリ」が
あるそうだが、残念ながら後で知った。

竹林の前、
前列に三基の【角柱型の石塔】
⚫︎右 :【馬頭観音塔】文字塔 
   文政13年(1830)
 四角い台の上の石塔の正面に大きく
         「馬頭觀世音」
 塔の左側面 :武刕多摩郡清戸村。
 台の左側面に願主 石井・・・。
 塔の右側面に造立年月日。
 台の右側面、こちらにも願主とあり、
    小寺・・・と刻まれている。
⚫︎中央 :【三界万霊塔】 
    安政2年(1855)角柱型の石塔。
 正面に大きな字で「三界萬霊等」
 下の四角い台には銘は見当たらなかった。
 塔の右側面 
 天下泰平 國土安穏 五穀豊穣 萬民快樂。
 塔の右側面にはこの三界万霊塔造立の
 経緯が記されている。
⚫︎左 :【名号塔】 安政2年(1855)
   ニ段の台の上 角柱型の石塔
  正面に徳本上人の独特な書体で
         「南無阿弥陀仏」
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〜石仏の細かな説明などについては、
 石仏研究の先輩の資料を参考に
 させていただいた。
 資料:《ホームページ
     「私家版さいたまの石仏」》
・・・・・・・・・・
・建築様式については幾つかの資料を
参考にした。
   《資料:JUGEMブログなど》
*また、仏教に関する基本的な知識が
ないため、意味を調べながら 
考えることになった。
   (初めて聞くことばが多い!)
❶「三界」とは・・・
生まれ変わり死に変わりする世界のこと。
「欲界」「色界」「無色界」の三つを指す
・欲界というのは、
  食欲・性欲・物欲など欲望の世界
・色界は欲望が無くなった世界
・無色界は
   形あるものから離れた純粋な世界
→よって三界万霊はそれらにある全ての
              精霊を指す
「三界万霊碑」にはご先祖の供養だけで
なく、生きとし生けるもの全てに対して
平和な世の中であってほしいという願い
が込められてきた。
そしてその願いを過去・現在・未来へ
と、途絶えることなく続けていくために
建立
❷「奉造立地蔵」は地蔵菩薩を信仰する
人々が地蔵菩薩を祀るために像を造立し、
奉納する行為を表す。
地蔵菩薩の慈悲深い心と人々の願いを
叶えてくれるとの信仰を共有する行為
であり、特に子供の安寧を祈る母親や
亡くなった人を偲ぶ人々によって行われた。
❸「名号塔」とは?
名号塔とは塔面に南無阿弥陀仏の六文字
            を刻んだもの。
特に独特の書体の徳本上人のものが有名。
❹「まいる」・・・参る?詣る?
「まいる」は、
「参る」なのか、「詣る」なのか
むずかしく感じた。
いろいろな説明文を読んだが、日本の伝統
や文化に基づいたことばの意味するものは
深そうだ。
……[コメント・感想など]……
観光地ではないので、緊張してしまった。
長く滞在することは避けたく、
焦って大急ぎで出てきたため、
本堂の左の大きな観音像と
その左脇の前列の三基の角柱型の石塔
に気づかなかった。
竹林だけ見て、
サルスベリにも気づかなかった。
ほとんどを帰宅してから、
調べることになった。

日本の伝統建築・寺社仏閣などの
専門用語は、全くわかっていないし、
どこに見るポイントがあるのか
わからない歩きではあるが、それでも
おもしろいと思える歩きだった。

竹林を見ることはあまりなくなってきた。
久しぶりの竹林だ。
いや、
東久留米には「竹林公園」があった。
そこだけが、
ヒヤリと冷たく不思議な空間だった。

長源寺の竹林には、
その清々しさや静けさが
参拝者の心を鎮め
見る者に悟りを促す効果
あるのかもしれない。
清廉、剛直、長寿の願い、
そこに吹く風も
違うのかな。

竹林の管理、ありがとうございます。
……………………………次号へ……