私の実家は「呉」で
その中でも被害が大きかった安浦地区である。
山肌には
土石流の跡があちらこちらでみられた。
上から流れ落ちた岩や土砂、
生々しい被害の規模に身震いが起きた。
幸い、我が家は大きな被害は免れたが
庭には山水が流れ込んだ窪みができ
まだ修復できていない。
水没した安浦駅周辺も、まだ砂埃が舞い、
1階部分が倒壊した家屋があちらこちらに残る。
古くからあったラーメン屋を見ると辛くなった。
そして、
今回甚大な被害に見舞われた
呉・安浦「市原」という集落
ここは母の里だ。
私が幼き頃には祖母もおり、
亡くなってからも
お盆になれば親戚が集まり
孫である私たち7人ほどでにぎわっていた
「いちばらのおばぁちゃんち」だ。
今は空家で墓も移動したため誰もいかなくなったが
親戚みんなの里だ。
夏になれば川で泳いだ。
その思い出の場所が全て流された。
映像でしか知らないその場所へ足を踏み入れた。
ここは何だったか、
思い出せないほどの変わり果てた惨状。
この辛さを表す言葉が見つからない。
復興はまだまだ先と聞いた。
無力の自分がはがゆい。
その中でも被害が大きかった安浦地区である。
山肌には
土石流の跡があちらこちらでみられた。
上から流れ落ちた岩や土砂、
生々しい被害の規模に身震いが起きた。
幸い、我が家は大きな被害は免れたが
庭には山水が流れ込んだ窪みができ
まだ修復できていない。
水没した安浦駅周辺も、まだ砂埃が舞い、
1階部分が倒壊した家屋があちらこちらに残る。
古くからあったラーメン屋を見ると辛くなった。
そして、
今回甚大な被害に見舞われた
呉・安浦「市原」という集落
ここは母の里だ。
私が幼き頃には祖母もおり、
亡くなってからも
お盆になれば親戚が集まり
孫である私たち7人ほどでにぎわっていた
「いちばらのおばぁちゃんち」だ。
今は空家で墓も移動したため誰もいかなくなったが
親戚みんなの里だ。
夏になれば川で泳いだ。
その思い出の場所が全て流された。
映像でしか知らないその場所へ足を踏み入れた。
ここは何だったか、
思い出せないほどの変わり果てた惨状。
この辛さを表す言葉が見つからない。
復興はまだまだ先と聞いた。
無力の自分がはがゆい。