豊後落ち歩こう会のあゆみ

宮崎県西都市尾八重「伊東一族の豊後落ちの道」の紹介

平成25年1月27日 豊後落ちの道で伊東一族の悲哀を味う!

2013-01-28 18:17:23 | 日記
豊後落ちの道を歩こう会
・1月27日(日) AM 7:30ごろから、参加者が旧岩井谷小前の尾八重川の河原の焚火の周りに集まり始まりました。
          AM 8:00ごろ、大方参加が集いました。参加者は、遠くは延岡、日向、木城、小林、日南等から、それに宮崎市、西都市の近               郊から、やく70数名が、集合!
      
 初め、代表日高氏の挨拶がありました。それから、伊東一族の豊後落ちの概略の歴史紹介が、副代表からありました。
 伊東義祐に扮した殿役と警護の武者姿3名が、落人の雰囲気を醸し出しながら、ホラ貝の音を出す《ほら竹》を、吹き鳴らしながら、集合地点を出発しました。2.5KMぐらい歩いて、一つ瀬発電所近くにある歴史の道への入口に到着しました。
 そこで、西都市観光協会が設置した地図入りの歴史説明板を活用しながら、副代表の説明がありました。
 川向うの尾泊往還という尾根から下り、凍てつく急流を落人たちは渡ったそうです。また、追手の島津軍が迫り寄せてきていたので、家臣の親子が時間を稼ぐために盾になろうと、主君義祐にいとまごいをして、追手に向かって行ったそうです。一行が川岸にたどり着くと肝心の筏が向こう岸にあり、渡れずに困っているところに、近隣に住む豪族的場兵庫という方が、馳せ参じ凍てつく急流を泳ぎ渡り筏を引きよせ、一行は無事に渡られたそうです。この恩にと、義祐公は腰の「小烏丸」という脇差を兵庫へ贈ったそうです。そして、伊東家が再起した暁には、この脇差を携え訪ねてくるようにと、申しつけたそうです。
 一行と別れた兵庫は、家に戻り転寝をしているところを、追手の島津兵に打ち取られたそうです。

 歴史の道入口から、道は急な林道になりました。1時間ぐらいかかりようやく着いたところは、松八重屋敷跡でした。うっそうと杉の大木に包まれた屋敷の跡と、すぐわきに雑木の大木に包まれた屋敷に関係ある方々の墓地、氏神様を祭る祠がありました。説明では、毎年お正月前には関係者がきれいに清掃し、供え物をされるとのことでした。落ち葉に包まれてはいましたが、きちんとお参りされておられる様子が伺えました。

 川を渡った落人一行は、日が暮れて暗くなった急な山道を、声も立てずに、明りのたいまつも炊けずに、この松八重屋敷にたどり着いたとのことです。
 その日は、冷たい雨からみぞれに変わり、わらじは濡れ、身を切る北風と足から伝わる冷たさ、老いも若きも必死にこらえながらのつらい道のりだったそうです。
 屋敷とて80余名の全員が部屋に入れるはずは、ありません。重臣たちとて十分な暖をとるための火をたけるわけもなく、家臣どもは、軒先でみぞれを避けながら寄り添って夜を明かしただろうとのことでした。明ければ、一面雪の世界になっていて、こんどは、雪を踏み分けながらの逃避行になったそうです。

 屋敷跡からは、山腹の足場の悪い、滑りやすい細い山道でした。そんな道でしたが、参加者が歩きやすいようにと、事前に鎌でカヤを刈り、鍬で小さな道が掘ってありました。それでも、参加者の一人が、少しすべったので、そこには力のありそうな元気な方が道下に位置し、安全策を講じていただきました。
当時も、女子供を若武者たちが、このように助けながらの逃避行だったのだろうと思わせる光景でした。

 参加者がフウフウ喘ぎながら登っているときに、案内役の副代表が「今、歩いている道は、落人の一行だけでなく、戦前まで、尾根の集落にあった小学校に、一年生から毎日通っていたのですよ!」との説明があり、本当に驚きました。
 それから、1時間ぐらい山道を登りました。着いたところは、「経塚」というところでした。言い伝えによれば、落人の一行が無事に臼杵へ行けるようにと祈願して、山伏が左右の谷から500回ずつ尾根に石を運び、一夜のうちに塚を作ったという話です。真偽はともあれ落人を偲ぶには格好の史跡の一つでありました。そこでの説明の中、副代表が消えかかったふちがぼろぼろで外れかかった「経塚」の小さな看板を見せながら、これは、私が尾八重小学校に勤務していたときに作り、立てていた看板ですと説明されました。30数年の風雪を感じさせられました。

 経塚からは、わりと平坦な道になりました。それというのも、すでに参加者は尾根まで登りつめていたのでした。経塚は、尾根の集落の守神的な存在だったのだろうと思いました。15分ぐらい歩くと、右も左も遠望できる広い場所に出ました。ここで、参加者全員の記念撮影がありました。さすがに標高も高く、山また山の素晴らしい風景でした。山腹の平地があるところに家が点在していました。説明によると、今、常時住んでおられるかは、定かでないとのことでした。不思議なことに、家が点在しているのですが、ある標高に一致しているようでした。すると、日当たりがよくて、田畑ができて、1年中水が得られる地点に家を作ったのだそうです。おのずと、ある標高のところになるのだそうです。
 記念撮影のあと、道はすぐロッククライミングのような部分になりました。怖そうでしたが、みな挑戦しました。ここでも、滑り落ちないように、下に支えられる方を配置してくれました。こうして午後1時前に昼食場所の小八重という小さな集落のゆずの畑がいっぱいある民家の庭先に到着しました。 ここで、ゆっくり昼食となりました。朝食も早く、それに1時前という時刻、途中の大変な上り坂の連続等々、参加者のお腹はぺこぺこ!本当においしい弁当になりました。

 昼食の後、全員集合した時に、「代表=日高氏による 第2回 豊後落ち再現の旅 臼杵城入場場面の口上」が始まりました。
 今回の参加者の一人が、インターネットで、日高氏が「宮崎の自然」という本に、寄稿した「豊後落ち再現」を、見て感激したので、ぜひ口上だけでもここで再現して欲しいとの依頼があったそうです。
 「17~8年昔のことで、記憶もままならないが、その時の場面は脳裏に刻まれているのでやってみます。」とのことでした。臼杵までの概略を述べ、やがて口上が始まりました。当時は、落人の身を示しながら、中腰での一族郎党の受け入れ依頼の口上を、300KMに及ぶ長旅と落人の悲哀を全身に浴びながら述べられたのだっそうです。
 83歳の高齢で、少し体調も崩されておられるので、立ったままで、口上を述べさせてもらいますと前置きされてから、口上が始まりました。
その口上は、臼杵城での落人の党首が、遠縁とは言え強者に威厳を持ちながらも助けを請う心境を参加者に感じさせるに十分なものでした。口上が終わると、参加者の中から、大きな拍手がわき起こりました。

 そして、ほら竹の音を合図に、出発しました。
途中、旧岩井谷小跡の記念碑を見ました。私たちが、2時間半ぐらいフウフウ言いながら登ってきたこの道を、毎日子供たちが通いここで勉強していたのでした。驚くばかりでした。
 ゆず畑の中の道を通り抜け、ほぼ平坦な落ち葉に覆われた尾根道を1時間半ぐらい歩きました。落ち葉でふわふわした感触を靴底に感じながら、冷たいがおいしい新鮮な空気を吸いながら、汗も出るかでないかぐらいのちょうどよい体温で気持ちよく歩ける行程でした。こうして、やがて尾根道の今日の歴史の道の終点に到着しました。
 ここで、これから集合地点までの行程説明や林道での車への注意等を受けて、一路帰路につきました。出発地点の近くで、尾八重活性化委員会の方々のご協力によるしし鍋がふるまわれることになっているとのことでした。
 副代表の説明によると、急ぎ足で早く着き、しし汁を食べようとすると、しし汁の上澄みでおいしくないので、あわてず足を痛めないように、ゆっくり歩きましょうと、冗談混じりの注意に笑いが起こりました。これまでは、落ち葉のクッションを受けて気持ちいい歴史の道でしたが、帰路はアスファルトで、堅くて衝撃がもろに足に来るのでした。こうして、三々五「ひむか街道=林道」下ったのでしたた。

☆ しし汁のふるまい場
 ・大きな釜から、つぎつぎ参加者へ、しし汁がふるまわれました。その味は、本当においしいでした。一日中歴史に浸り、森林浴に浸り、それにお腹はペコペコ・・・・しし汁は2倍も3倍も素晴らしい味になっていました。寒風の吹き始めたころの到着で、しし汁の温かさが冷えてきていた身体の五臓六腑に浸み渡りました。

 参加者は、今日一日満足されたような顔で、担当者の皆さんへお礼を述べながら、三々五々帰路につきました。

「地元の歴史を大事にしながら、この36年もの長い間、広く県民に宮崎の貴重な中世の歴史を当時と同じ場所で、当時と同じ極寒の中、伝えることができて幸せです。」との、担当者の言葉でした。       


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