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『大分縣大分郡明治村々是』 明治45年発行 

村是の内容を原本のままに復元します。
また、明治村史(昭和54年発行)の抜粋を紹介します。

明治村史 その9 四、明治村政~三、公職追放

2014年11月26日 20時09分46秒 | 郷土史

明治村史目次

 四、 明治村政

 (一) 徳川時代の所轄所属石高

 葛木村以外は何れも臼杵藩稲葉公の管轄に属す。猪野村、小池村の石高不詳

  横尾村   石高八百石

  庄屋給料  二拾五石

  小庄屋料  弐石三斗外に紙墨料三斗

  山守     壱石五斗外に蝋燭代 若干

 小池原村は森町庄屋領内に属す

 葛木村 岡藩、延岡藩、臼杵藩の三つに分轄す 岡領三拾石  延岡領百石六斗

 (二) 明治以後ノ沿革

 明治四年廃藩置県の制を布き庄屋制を廃して区とす。

   区長      一名

   副区長     一名

   写学生     二名

  明治村、森町、高田村、松岡村と共に第三大区中の第九小区となる。

  用務所を岩舟に置き     区長 石川衝治郎氏(鶴崎町出身)

    区長の年棒     金拾五両

  横尾、小池、猪野、葛木ニ各々団長ニ名

 明治十二年に至り用務所を分離して各村に官選戸長を置き写学生若干名を配す。

    戸長

  猪野、葛木ニ村       戸長  葛城 嘉一郎氏

  小池原村           戸長  三宮 右馬八氏

  横尾村             戸長  安部 平兵衛氏

  安部兵兵衛氏辞職の後、中村茂氏となる。戸長の年棒 十三両なり。

 明治十七年に至り之等を合併し、猪野村外三村(葛木、小池原、横尾)用務所とす。猪野の庄屋葛城精一郎氏宅を官舎とす。

  戸長  藤 義澄氏     数年継続す。

  明治二十二年に至り町村制施行せられ四ケ村を合併し明治村となる。用務所を改めて明治村役場とす。 

 (三) 明治村の発端

  (1) 明治元年十月に役所より、明治と改元のの旨通告を受く。

  (2) 明治四年七月廃藩置県の詔勅が下がり大分県の管下となる。

  (3) 明治五年六月庄屋は廃止せられ戸長を置き、横尾の庄屋藤義澄氏、猪野の庄屋葛城精一郎氏が戸長となった。

  (4) 明治二十二年三月県令、訓令により町村制施行の手引書が順次配布された。

    (イ) 県令甲第拾号 明治二十二年三月二日

                             大分県知事  西村 亮吉

        明治二十一年法律第一号町村制第百三十七号に依り本年四月一日より町村制を施行す。

    (ロ) 訓令甲第拾二号 

        明治二十二年三月十一日

                             大分県知事  西村 亮吉

        町村制施行順序並日割予定

        第一より第十五に至る項目列記

         第一戸長、元戸長、町村長

      1. 町村常設委員組織並委員会規則

      2. 町村会会議細則並委員会規則

      3. 内務省令第二号、 歳入出予算表式

      4. 町村条例案並細則

        議員、吏員、使用料、加入金、選挙人等級条例、委員職務権限等各項に亘り事例を挙げて、解説指導に努めている。

    (ハ) 町村長、助役、収入役、書記、使丁、委員、区長の年報酬並給料年額等の例示 

<colgroup> <col span="30" width="21" /></colgroup>
職別/戸数 三〇〇戸 五〇〇戸 七〇〇戸 九〇〇戸 一一〇〇戸
町村長 96円 110円 127円 146円 168円
助  役 81円 93円 108円 120円 140円
収入役 67円 76円 88円 100円 115円
書  記 48円
使  丁 30円
委  員 7円
区  長 一〇〇戸に付6円
附  記 明治二十二年当時の報酬給料と比較すべきはないが、六十年後の昭和二十二年には鶴崎市長が月額千二百円、高田村長が月額八百円であった。明治はその中間をとりて月額千円に決定した。因に昭和八年の明治村長の報酬は月額二十五円であった。その当時の給与状況が類推されて面白いと思う。

注:この部分は明治村郷土史(大正四年 内田政蔵編纂)を基に下郡平治による加筆と思われる。

 (四) 明治村役場

 明治二十二年町村制施行後二十年間借家、猪野にありて三回転宅、明治四十二年三月葛木に移転、明治四十四年八月十二日、現在の役場落成す。工事費 八五三円

 安部堯平氏、百二十坪篤志寄付  大字猪野 三重ノ池 

 (五) 明治村役場時代六十五年間ノ三役

<colgroup> <col span="25" width="21" /></colgroup>
  就職年 村   長 助   役 収入役
初 代 明治二十二年 葛城精一郎 岩本春造 江藤賢吉
二 代 仝 二十六年 佐藤辰三郎 栗田兵一
三 代 仝 二十八年 事務管掌   三宅鉄太 薬師寺 新 江藤賢吉
四 代 仝 二十九年 岩本泰平 市原亀太郎
五 代 仝 三十一年 葛城精一郎 朝倉塩次郎 佐藤辰三郎
六 代 仝 三十四年 佐藤辰三郎 岩本孫市 関谷祐三郎
七 代 仝 三十六年
八 代 仝 四十二年 薬師寺 新 関谷祐三郎 佐藤梅五郎
九 代 大正   二年 竹中 澄
十 代 大正   六年 江藤成美 岩本由雄 山村 鼎
十一代 大正   九年 竹中 澄
十二代 大正  十三年 葛城堅吉 山村 鼎 那賀住四郎
十三代 昭和  三年 山村 鼎 那賀住四郎 佐藤数太郎
十四代 昭和  七年 下郡権治
十五代 昭和 十一年 山村 鼎 真鍋主計
十六代 昭和 十五年
十七代 昭和 十八年 那賀住四郎 丸井 登 二宮円平
十八代 昭和 二十年 那賀 要
十九代 昭和二十二年 下郡平治 安部繁夫 宮崎和一
二十代 昭和二十六年
昭和二十九年三月五ケ町村合併により鶴崎市となる。

 

 (六) 明治村役場時代六十五年間二十代の村長

     明治村歴代村長生存者(写真)

 

 (七) 明治村歴代小学校長       <省略>

   (1) 猪野小学校

   (2) 横尾小学校

 (八) 明治村巡査駐在所        <省略>

   (1) 駐在所建設の経緯

   (2) 歴代駐在巡査

 (九) 昭和20年代の重要事項

 (一) 議員の任期延長

  ◎ 議員の任期延長が昭和十六年、昭和二十八年、昭和三十八年に夫々の目的をもって行われた。参考に挙げることにした。

 (二) 農地改革と食糧供出

  ◎ 村の内外を問わず、終戦後昭和二十一年より昭和二十五年頃迄に起きた農村社会の革命的事項は農地改革であり、食糧供出のことであった。

 (三) 公職追放

  ◎ 村内各方面の指導者の地位、身分に於ては公職追放のことであったと思う。之等の問題についてその一端を記録して読者の資料に供することにした。

  一、 議員の任期延長の特例

 (1) 昭和十六年二月二十二日法律第五号に依り県議会議員、市町村会議員等の任期が一ケ年延長された。不必要なる摩擦競争を避け挙国一致の国防国家体制を堅持するため。

 (2) 昭和二十八年九月一日法律二五八号

 町村合併促進法により町村合併後一ケ年間、当該町村の議員の任期が延長された。

 明治村に於ては鶴崎市合併の際、適用された。

 (3) 昭和三十八年五月十日法律一一八号

 市の合併の特例に関する法律により当該市町村の議員の任期がニケ年延長された。大分市、鶴崎市、大南町、坂ノ市町、大分町、大在村の二市三町一ケ村の合併により、大分市が建設され、其の当時の鶴崎市議会議員に適用された。

  二、 農地改革

 終戦直後の村政を思う時農地改革を除外しては考えられない。昭和二十年十二月に小作人の解放、自作農の創設を図るために、連合国により第一次の農地改革が指令された。不在地主を認めない。在村地主の保有地を五町歩まで認めるというものであった。之を不徹底として第二次農地改革が昭和二十二年から二十四年にかけて実施され、自作農創設特別措置法、農地調整法が公布された。農地委員会の運用により不在地主の全小作地と在村地主所有の小作地一町歩を超える部分を国家が買収して小作人に売り渡すことになった。残りの小作地も小作料は金納とし額を制限することになり、従来反当、玄米三俵乃至四俵の物納であったものが、反当七十円の金納になった。昭和二十三年前後は食糧危機の時代で一升の闇米は百円で取引され、一反歩の小作料は七十円で米一升にも足らぬという有様であった。食糧管理法は呵責なく励行された。

 昭和二十五、六年迄は村政最大の問題は食糧供出の督励にあった。米は勿論、麦も、甘藷も作付と同時に供出割当が要請された。今日の水稲転作割当と思い合せて全く隔世の感を深める。

  三、 公職追放

 村内の指導的立場にあった者が昭和二十一年一月四日付連合国最高司令官覚書該当者としてその地位から追放された人も多い。

  公職従事に適さない者の公務からの除去に関する件

   法務庁令第四二号届出(村長の㊙専決事項)

   職業軍人、特高警察、憲兵、郷軍分会長、翼賛支部長、翼壮団長等の職にあった者が該当者である。当局の指令要請に反し隠匿等の場合は、逐一違反に対する罰則として峻烈な虚罰をうけた。

   「昭和二十一年二月県庁地方課より村長宛覚書該当の動向監査について」より抜粋

 (1) 逐一違反と講和条約の締結

 覚書該当者が追放令に違反する場合が多ければ多い程、我国の民主化について諸外国の信用は薄くなり、延いては講和条約の締結も遅れるので我々日本人は覚書該当者の逐一違反行為の絶滅を期さなければならない。現に占領軍においてもこの種違反については深い関心を持って注視しておるところであり、我々事務担当者としても法令の周知徹底に努める等日夜逐一違反防止に努力している。

 (2) 四月選挙に伴う覚書該当者の監査について

 (3) 逐一違反に対する罰則の適用について

 (4) 逐一違反容疑に対する情報の通報について

  (イ) 違反容疑を発見した場合は事の軽重を問わず直ぐ県地方課に通報すること。

  (ロ) 方法、如何なる方法でもよいが電話連絡が最も適当である。

      文書による場合、通てう、私文書、無記名投書何れでも可。

  (ハ) 動向監査内容、徹底して監査をする必要はない。何時、何処で、誰が誰に対して何のことでどうした。

  右六項目につきなるべく速報すること。之を要するに迅速を主眼とすること。

 この外、各種の項目が並べられているが当時の官庁当局が占領軍の指示に対して、如何にオロオロしたものであるかを端的に物語っているので列記した。

 



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