偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏982帯名・大峠(山梨)馬頭観音

2021年06月28日 | 登山

帯那・大峠(おおとうげ) 馬頭観音(ばとうかんのん)

【データ】 帯那・大峠 860メートル▼最寄駅 JR中央本線・甲府駅▼登山口 山梨県甲府市上帯那町の竹日向集落▼石仏 天神峠の西、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより

【案内】 金峰山への参道の一つに、甲府の塚原から上帯那へぬけて塔岩へ出、ここから竹日向に向かい、金峰山の里宮である金桜神社に出るコースもあったという。その峠の一つ天神峠と塔岩を訪ねるため、竹日向の集落から目差した。


 閉鎖されている林道に入って歩き出すとすぐ、左手の土手に石仏が並んでいた。4基の馬頭観音と文字の馬頭観音、それに「明治廿四年」銘のある子安地蔵。少し上にこれも馬頭観音が1基。集落に入口の奉斎場といった印象である。

 林道はすぐ終わり、国土地理院の地図をみると天神峠へは左の沢沿いに登るようになっている。しかし道はない。右手にハッキリした踏み跡があるので、これをたどって尾根にでることにした。出た尾根は広い台地で、その片隅に馬頭観音が立っていた。高さ47センチの簡素な馬頭。後で立ち寄った竹日向の古老はこの場所を大峠と呼んでいた。峠の先にある畑に通う峠だったという。
 目的の天神峠はこの馬頭がある尾根の東になる。しばらく登ってみたが、岩尾根で踏み跡もないので引き返した。先の古老の話によると、塔岩へ行くには竹日向の集落の奥から山腹をトラバースする道を利用したという。その途中に地図上にある天神峠があるのだが、古老は天神峠の名はしらないという。結局目的の天神峠と塔岩行きは断念した。


【独り言】竹日向の集落で出会った老女にまぬかれて、古老と三人でお茶をいただきました。古老の話によると、竹日向の集落は武田の北の守りとして古くはもっと上に集落があって、山を越えた牧丘と交流があったそうです。それを裏付けるように、集落内には江戸時代初期に甲斐から上信で盛んに造られた石祠型墓石と、そこに納められていた双体像が見られました。



 竹日向の昭和40年前後の古い話になり、古老の若いころは集落まで車が入らず、老女が嫁いでくるとき昇仙峡から車道が開かれて、タクシーで嫁いできた最初の花嫁になったそうです。老女は車道ができるまえの人家と畑がたくさんあった集落の写真も見せてくれました。その畑にはいま木が植えられてしまい、狭い谷間の風景になってしまいました。古老は金桜神社が火事で焼失した時の写真集を見せてくれました。金桜神社は昭和30年12月の火災で境内13棟の建造物すべて焼失したそうです。

 老女はかつて細草神社だったという集落を一望できる高台の公会堂に案内してくれました。昔は歌舞伎や盆踊りで大変賑わったというそこには、甲州独特の一石六地蔵や庚申塔などの石造物が並んでいました。ここは神社とお寺が一緒になってあった場所で、神社は集落の奥に移され、墓地は昇仙峡の羅漢寺に移したそうです。
 一人になってしばらく公会堂の石造物を調べ、車に戻ると高台から老女が手を振っているのが見えた。車のハザードランプの点灯で挨拶を返しながら竹日向を後にしました。

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石仏981羅漢寺山(山梨)石棒

2021年06月25日 | 登山

羅漢寺山(らかんじやま) 石棒(せきぼう)

【データ】 羅漢寺山 1058メートル▼最寄駅 JR中央本線・甲府駅▼登山口 山梨県甲府市上帯那町の県営無料駐車場▼石仏 羅漢寺山ロープウェイ山頂駅、地図の赤丸印。青丸は萬霊塔、黒丸は県営駐車場▼地図は国土地理院ホームページより


【案内】 羅漢寺山はロープウェイで簡単に登れる山。山頂のパノラマ台駅の右手に建つのが八雲神社。ご神体の石棒は拝殿奥、「宝暦八寅(1758)」銘のある大きな石祠に納められたご神体だ。神社の案内にはこの地を八王子山とし、「永禄七年(1564)建立。当地甲斐の国巨摩郡郡猪狩村の氏神で、古来より石祠内に石棒を安置して祀り、夫婦和合と武運の神」とある。八雲は祇園信仰で牛頭天王を祭神とした神社のひとつ。
 石棒については大護八郎氏の『石神信仰』(注)から紹介する。石棒は概ね縄文中期・後期のもので、関東中部地方から多く発見されている。目的は呪術的な祭祀に使われたものであり、女性を象徴する土偶に対し石棒は男性を象徴するものという指摘もある。この石棒は江戸時代以降、男根石の道祖神として祭られている例もわずかにあるが、多くは神社の御神体になっている。
 八雲神社の石棒は高さ約50センチの丸石棒。円形の整った形は男根型ではなく、道具類でもない祭祀の石であることは確かである。それにしても石奉を納める石祠は、台座を含めると150センチにもなる大きさだ。かつての金峰山には九つの登山口があり、その一つの敷島町(北杜市)吉沢からの道はこの八雲神社を通った金峰山修験金桜神社の参拝の道。八王子峰と称していたこの山は、天台の山王21社のなかの八王子を勧請したのが始まりだったのかもしれない。
(注)大護八郎著『石神信仰』1977、木耳社



【独り言】 羅漢寺から羅漢寺山の南の谷にあるかつての羅漢寺跡を訪ねたのは1年前でした。今回はそこから尾根を目指し、あわよくばこの谷にある一ノ谷・二ノ谷・三ノ谷のある石造物のいずれかを見るという目論見もありました。しかし羅漢寺からのコースはピンクのテープがつけられ、1年前とは様子が変わっていました。これはクライマーがゲレンデへ向かう目印のようで、一組が大きな岩にアタック中でした。このテープに惑わされて谷を右往左往してしまい、結局見たのは前回と同じお寺院跡の石垣と石祠と「佛心弘宗大和尚/天保十五甲辰(1844)」の卵塔だけで、一ノ谷などへ入るルートは見つけられないまま尾根に出てしまいました。

 尾根に出たところに倒れていたのが「萬霊塔」。台座に「唯時文化二乙天(1805)/當山十九世蘭山代」銘がありました。
 現在の羅漢寺は昇仙峡の遊歩道の近くに建っている曹洞宗の寺です。そこに立つ案内「羅漢寺縁起」によると、開祖は天台の有金僧都、大永年中(1520年頃)に俊屋桂彦和尚が中興開山して曹洞宗に改めた。これが慶安4年(1651)の火災後に現在地に移った、とありました。一方で、昔は北山筋(昇仙峡一帯の通称)の高野山と称し、真言宗だったこともあったようで、宗派からみるとこの寺の歴史は紛らわしい限りです。では羅漢寺の役割は何だったのでしょう。想像するに、この寺のかつての役割は金峰山へ入る天台・真言の修験者を支援する寺だったのではないでしょうか。金峰山への登山口は九つあって、もっとも知られていたのが敷島町吉沢の一の鳥居から御霊平・羅漢寺山・八王子峰を経て金桜神社へ下る尾根道でした。

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石仏980保呂羽山(岩手)成就碑

2021年06月21日 | 登山

保呂羽山(ほろわさん)成就碑(じょうじゅひ)

【データ】 保呂羽山 453▼最寄駅 JR大船渡線・千厩駅▼登山口 岩手県一関市藤沢町保呂羽▼石仏 保呂羽山山頂の保呂羽神社境内、地図の赤丸印。黒丸は登山口▼地図は国土地理院ホームページより

【案内】 保呂羽山は北上山地の南、岩手と宮城の県境の山に多い里山。その山頂には立派な保呂羽山神の社殿が鎮座しているのに驚かされる。保呂羽は作神、五穀豊穣の神で、その本社は秋田県横手市にある式内社の一つ波宇志別神社。この山は古くから神が鎮まる神体山で、古代に蔵王権現を祀った修験の山でもあったことはこのブログの保呂羽山(秋田)で案内した。古代に金峰・大峰の蔵王権現を勧請して祀った山は、山形蔵王、秩父武甲、武州御嶽、甲州金峰などいずれも地方を代表する名峰で、大きな社殿が建てられた。岩手の一関藤沢町の保呂羽山もこの地方の名峰、山頂に大きな社殿が建てられていた。


 登山口を探して山麓を車で走っているうちに、山の東の峠に神社へ続く道をみつけて神社下まで入った。その社殿奥にあるのが修業成就の碑。
 「奉勉月並万行十二ヶ年/寛永四丁□(1627)」「奉千日供養為/子孫安全/天和二壬戌歳(1681)/當社栄昌」「奉誦大乗経典一千部」など四基の石碑が倒れていた。一つ目の碑はいろいろな修業を12年続けたというもの。二つ目は子孫安全のため千日の業をした。三つめは大乗経典一千部を読んだ。これらの業が成就した証に石に刻んで建てたと解釈した。石碑はいずれも江戸時代初期のもので、保呂羽山はこの時代に盛況を迎えていたのだろう。
 
【独り言】 平安時代から中世にかけて神社は仏教徒に管理されるようになりました。神仏習合というもので、神社の境内にこれを管理する神宮寺・別当寺を建て仏式で神社を運営し、これは江戸時代まで続きました。しかし明治の神仏分離で神社と寺が別けられ、神社を管理していた寺が排除され廃仏毀釈に発展して、寺院や仏像が廃棄・焼却された痛ましい時代がありました。それでも保呂羽山の神社には仏教修業をしたことを示す江戸時代初めの石碑が残っていたのは、ありがたいことでした。もっとも廃仏毀釈は地方により濃淡があり、東北の山間部の山を見る限り、それほど激しい動きはなかったように感じます。


 保呂羽山神社には鐘楼も残されてありました。鐘の銘には、貞享三年(1683)肥後熊本城主細川越中守の寄付で鋳造され、昭和17年に資源回収で供出されたとあり、それを昭和61年に鋳造したことが刻まれていました。細川と保呂羽山はどのような関係があったのでしょうか。『藤沢町史』(注)から拾い出してみました。
 まず永禄年間(1558~1570)に、製鉄の技術者として招いたのが切支丹に理解があった備中・宇喜多領地の者で、切支丹の兄弟でした。伊達政宗に登用された切支丹後藤寿庵はこの保呂羽山がある藤沢城主の三男で、支倉常長の海外派遣を陰で支えた人でした。慶長元年(1597)保呂羽村の修験大兵院が九州天草島で切支丹の洗礼を受けて帰村しこともあり、地域ぐるみで切支丹信仰がすすんだようです。この後切支丹禁止令が出て、元和年中(1616~1624)には保呂羽山神社の三明院が切支丹禁止令に触れ別当を追放されています。それからさほどたたない貞享三年(1683)に、切支丹大名だった肥後の細川が保呂羽山に寄進を始め、毎年代参を送るようになったきっかけは、切支丹つながりとの指摘もありますが、それを示す資料は見つかっていないようです。
 いずれにしても保呂羽山がある藤沢には戦国期から切支丹が伝わり、大籠がその中心地だったそうです。切支丹禁止後は、信者だった者はその親類まで調べ上げられ、類族帳を代々作成して藩に提出したそうです。それから三百余年の昭和27年に、切支丹の中心地だった大籠に聖堂が建てられ、今日に至っています。

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石仏979烏兎山(岩手)石祠・日の神

2021年06月18日 | 登山

烏兎山(うどさん)石祠・日の神(ひのかみ)

【データ】 烏兎山 323メートル▼最寄駅 JR大船渡線・陸中門崎駅▼登山口 岩手県一関市川崎町薄衣の金山沢集落▼石仏 烏兎山山頂、地図の赤丸印。青丸は男根の木祠、緑丸は稲蒼魂命神社▼地図は国土地理院ホームページより

【案内】 一関市の東部、川崎地区や藤沢地区に烏兎という山がいくつかある。その一つ、川崎町薄衣の烏兎山に登った。登山口は烏兎山南山麓の金山沢集落。中腹にある古峰神社への参道を利用した。


 登山口の手前に男根を祀った木祠と「早池峰山供養塔」「巳待塔」の石塔があり、登り出してすぐ「稲蒼魂命」の木札が納められた神社があった。稲蒼は穀物の神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祀った神社のようだ。境内の藪のなかに大黒天と雷神・山神の文字塔などが並ぶ。


 ゆるやかに登って行くと古峰神社の鳥居があり、「蠶影神(こかげがみ)/大正六年」銘の養蚕の神を祀った石塔が立つ。さらに登ると狛犬が護る古峰神社。山中にしては立派な神社である。

 山頂へは古峰神社社殿の右手の踏み跡を辿る。ほどなく注連縄が張られた山頂で、屋根・室部を含めた高さが50センチの同じ石祠が三基並んでいた。石祠に銘はない。これが烏兎の神なのか。下山して話を聞いた老女は、山頂の石祠は日の神だと話していた。烏兎の神は日の神なのか。それはお天道様なのか。よくわからない。
 藤沢町の高烏兎山も登ってみた。登山口は愛宕集落。山頂まで一直線の急坂の先に社殿が建っていた。しかしそれは愛宕神社。愛宕は火伏の神で、烏兎につながるものは何も見当たらなかった。

【独り言】 岩手の山では聞きなれない神社に出くわします。その一つに鵜酉神社がある卯子酉山(うねとりやま)があり、このブログでも案内しました。しかしこれと烏兎は違う信仰のようです。烏兎を調べてみると、語源は中国の伝説にある金烏玉兎(きんうぎょくと)の略だとあります。太陽には三本足の烏がすみ月には兎がすむ。転じて月日、年月の喩えとして使われるが、この伝説の詳細は不明のようです。
 ところで烏兎山の山頂には三基の石祠があります。これを烏兎の神としても石祠は一基残ってしまします。どうして三基あるのか、三本足の烏に関係があるのか、これもわかりません。九州の長崎県雲仙市に烏兎神社があるそうです。この神社と関係があるとは考えられませんが、このブログの次回・保呂羽山で、岩手と長崎・熊本がつながった話を紹介します。

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石仏978堂ケ平山(青森)山の神

2021年06月14日 | 登山

堂ヶ平山(どうがたいさん)山の神(やまのかみ)

【データ】 堂ヶ平山 496メートル▼最寄駅 弘南鉄道大鰐線・津軽大沢駅▼登山口 青森県青弘前市大沢の大沢駅▼石仏 堂ケ平山北山麓の桂清水、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより

【案内】 弘前市の南には、秋田との県境白神山地につながる山脈が続く。この一帯、かつては阿闍羅山を中心とした修験の山だった。その一角に神々が集まる堂ヶ平山がある。


 大沢の街から堂ヶ平山の中腹に通じる林道は桂清水への道。桂清水は森のなかの桂の根本から湧き出す清水。清水を中心に修験の行場があったらしい。そこにある案内には「鎌倉時代初期、この地方に大きな勢力を誇った熊野系修験の福王寺跡とされているところで、藩政期には金光山市応寺がおかれ一大修験場として栄えた」とある。その手前に「十一面観音」の扁額がかかる鳥居があり、踏み跡をたどると覆い屋のなかに木祠を祀った観音堂に着く=上写真=。道はさらに奥へと続き、淡島堂に出る。ここで道は二分し、左を進むと毘沙門堂、弁才天堂を通って桂清水に出る。右はここで案内する山の神への道。桂清水の背後にはもう一つの山の神がある。


 案内する山の神は右の道、燈明杉という大杉へ登る。大杉の奥に祀られた木祠に山の神が祀られている。高さは40センチ。垂髪であご髭をたずさえ、鉞を持って右ひざを立てて座る姿。これは秋田地方に多い山の神・三吉さんと同じである。堂ヶ平山のふもとを通る羽州街道は、南の矢立峠を越えると秋田久保田領の大館市。大館の里山にも三吉さんがあり、そこで見た山の神は大館太平山で案内した。もっとも、桂清水のもう一つの山の神には「大山祇神」と書かれた鉞を持つ山の神の絵があった。
 堂ヶ平山山の神の前には高さ45センチほどの小さな狛犬が鎮座していた。




【独り言】 桂清水で休んでいると軽トラックが登ってきました。挨拶すると、堂ヶ平山の神々を管理していて見回りにきたという年配の男でした。男の話によると、この山にある十一面観音も山の神もかつては別の山にあって、祭りには一か所ずつ回ってお参りしていたそうです。しかし祭りをする人もへってきたため、この堂ヶ平山に集め祀ったというのでした。男はその中心になって、山の神や狛犬を背負って運んできた話をしてくれた。
 それから男の話をもう一つ、清水が湧き出している桂の根本には石造の龍がはめ込まれ、清水は龍の口から流れ出しているという。のぞき見ると、たしかに桂の根に飲み込まれた龍の顔が見えた。傍らの「桂清水」銘のある石碑には「大正九年」とある。石の龍も同じ頃に取りつけられたのでしょう。
 男に阿闍羅山を中心とした修験がどのようなものだったのか尋ねたが、それはわかりませんでした。仏像の解説書に、阿闍羅はサンスクリット語のアチャラナータ(不動明王)からきているとあります。前に津軽の久渡寺山を案内したとき「昨日はボンジュネ今日またアジャラ」というシーハイルの歌を紹介しました。そのときに、このボンジュネは梵珠山でアジャラが阿闍羅山だったことも案内し、今回は阿闍羅山も登るつもりでしたが、雨がひどくなってきたので断念しました。

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石仏977岩木山(青森)狛犬、地蔵菩薩

2021年06月11日 | 登山

岩木山(いわきさん) 狛犬(こまいぬ)、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)


【データ】 岩木山 1624メートル▼最寄駅 JR奥羽本線・弘前駅▼登山口 青森県青弘前市の津軽岩木スカイライン終点●▼石仏 岩木山山頂、地図の赤丸印。青丸は避難小屋と地蔵▼地図は国土地理院ホームページより


【案内】 津軽岩木スカイラインとリフトを使うと簡単に雲上に出る岩木山だが、そこから山頂までは岩尾根を30分以上歩くことになり、5月初めの頂は雪に埋まっていた。そこで見た石造物は「岩木山神社奥宮」の石柱と社殿を守る小さな狛犬だけ。その狛犬も一体は凍り付いていた。山裾のリンゴ畑は花盛りでも、山はまだまだ冬だった。
 岩木山の山頂は、最高峰の岩木山に東の巖鬼山南の鳥海山の三峰から成っているところから、ここに熊野の三山を勧請して岩木山に阿弥陀、巖鬼山に十一面、鳥海山に薬師を祀って岩木山三所権現としたのは中世の始めごろか。その痕跡が石造物で残っていないものかと登ってみたが、残雪が多く石仏探しには早すぎた。

【独り言】 9年前に赤倉神社から観音石仏を見て岩木山に登りましたが、風雨がひどく8合目で引き返しました。今回はそのリベンジでした。とはいっても5月の岩木山は雪が残っていて、荒れると冬山状態です。そこで車、リフトを利用して簡単に登る一番安易なコースで登山をすることにしました。
 スカイラインのゲートが開いたのは8時、そこから30分もかからず8合目に到着です。9合目まで架かるリフトは9時30分からで、30分以上も待たされるので雪面をキックステップで登りました。久々の冬山気分です。年甲斐もなく浮かれて雪面を登ってしまったのは、車・リフトを利用した安易な登山のせいです。天気は下り坂、風も出てきてきました。


 尾根に出てひと登りで鳳鳴ヒュッテ。昭和39年の冬に遭難した秋田県立大舘鳳鳴高校4名の霊を鎮め、再び遭難が起きないようにと建てられた避難小屋です。近くの岩場の陰に、4体の地蔵菩薩とそれを見守るようなもう1体の地蔵菩薩が立っていました。

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石仏976谷地山(青森)四国八十八霊場本尊

2021年06月07日 | 登山

谷地山(やちやま) 四国八十八霊場本尊(れいじょうほんぞん)

【データ】 谷地山 180メートル(国土地理院地図に山名無し。浅虫温泉の南西、浅虫トンネル上の180.6三角点)▼最寄駅 青い森鉄道・浅虫温泉駅▼登山口 青森県青森市浅虫字山下の陸奥護国寺▼石仏 護国寺の裏山一帯に点在、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより=下写真は弘法大師=

【案内】 浅虫温泉の裏山に建つ陸奥護国寺は真言宗の寺。寺の案内によると、創建は不明だが、津軽家の高野山菩提所の寺の縁で津軽に別院として建てられたが、僧の派遣が滞り廃寺に。これを大正末青森に再興したのは尼僧堤隆興だった。浅虫温泉の現在地に移転したのは昭和10年、このときに四国八十八霊場の本尊石仏も造立されたと伝えている。霊場本尊は本堂の裏山の尾根を大きくめぐるように置かれている。いまでこそ歩きやすい周回コースになっているが、石仏運搬のころは難工事だったようで、石仏は女性の髪の毛で編んだ毛綱で運ばれたという。
 石仏はどれも新しく、表情が明るい。本尊の高さは110センチ、二重の台座の上に寺院銘と尊銘、下に寄進者の銘が入る。ぶら下がる白い笊は賽銭入れ。


【独り言】 上の写真、あまり見たくない光景です。すべての石仏に白い笊がひもで固定されていました。お賽銭は台座に直接置いた方がご利益ありそうですが……。




 弘法大師・空海の四国八十八霊場の本尊は薬師如来が多く、阿弥陀や大日の如来もあります。観音では千手や十一面です。移し八十八霊場の石仏もこれを忠実に再現しています。同じような石仏が並びますから、これを一尊ずつカメラに写しながら登ると、正直あきてきます。そんなとき気を紛らわせてくれるのが、ちょっと珍しい仏菩薩です。四国霊場の本尊では9番法輪寺の寝釈迦、20番鶴林寺の地蔵菩薩、63番吉祥寺の毘沙門天、70番本山寺の馬頭観音などが気分転換になります。寝釈迦は涅槃に入った場所にあった沙羅双樹も彫ってある石仏もありますが、この谷地山の涅槃物にはありませんでした。鶴林寺の地蔵には鶴が彫られていることがありますが、これもありませんでした。谷地山の石仏は押しなべて平凡です。

 空海と縁の深い虚空蔵菩薩も三体あります。空海は記憶力を倍増させる虚空蔵求聞持法の修行を行い、四国の室戸岬の洞窟で修業中に習得しました。当時仏教経典を覚えるためにはく求聞持法は必須の修行でした。その場所は南に空が見える洞窟が最適とされていました。室戸岬の洞窟もそのような場所です。

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伊藤介二・昭和の石仏写真館(44)葛飾の寺と石仏

2021年06月06日 | 石仏写真館

葛飾の寺と石仏(東京都葛飾区)
金蓮院(東金町)

金蓮院・愛染明王

光増寺(東金町)

光増寺・馬頭観音

半田稲荷(東金町)

半田稲荷・狐

南蔵院(東水元)

南蔵院・しばられ地蔵

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伊藤介二・昭和の石仏写真館(43)馬捨場跡

2021年06月06日 | 石仏写真館

馬捨場跡(東京都荒川区)












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おおたま学

2021年06月05日 | 


「おおたま学」2021年3月、大玉村

福島県大玉村の教育委員会から「おおたま学」をいただきました。
 大玉は安達太良山の南東山麓にある山と田園からなる風光明媚な村です。村の歴史は『大玉村史』上下で編纂されていますが、「おおたま学」は村の様子を子供から大人まで分かりやすく案内するための一冊です。写真と読みやすい文章で、村の自然・歴史・産業・民俗・文化を紹介しています。
 Ⅰ 自然編 馬場ザクラなど11編
 Ⅱ 歴史編 台田遺跡と複式炉など18編
 Ⅲ 産業編 おおたまの稲作にあゆみなど12編
 Ⅳ 民俗編 本揃の田植踊など29編
 Ⅴ 文化編 斉藤良夫など10編
 総合 友好都市など9編

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国東半島の庚申塔総覧

2021年06月04日 | 


「国東半島の庚申塔総覧」2021年5月

 大阪の小林幸弘氏から「国犀半島の庚申塔総覧」をいただきました。
 大阪にお住まいの小林氏が大分・国東半島の庚申塔を見たのは大学生時代の旅行のときでした。そらから50年近く、国東の多くの人にお世話になりながら、徒歩と自転車で訪ねた庚申塔は1096基。これをまとめたのがこの一冊です。1基ずつ所在地・主尊・銘・コメント・写真で紹介して323ページにもなる、まさに総覧です。
 国東半島について
 庚申信仰と庚申塔
 豊後高田市(旧豊後高田市)の庚申塔(112基)
 豊後高田市真玉地区(旧西国東郡真玉町)の庚申塔(65基)
 豊後高田市香々地地区(旧西国東郡香々地町)の庚申塔(75基)
 杵築市(旧杵築市)の庚申塔(166基)
 杵築市大田地区(旧西国東郡太田村)の庚申塔(71基)
 国東市安岐町(旧東国東郡安岐町)の庚申塔(163基)
 国東市武蔵町(旧東国東郡武蔵町)の庚申塔(82基)
 国東市国東町(旧東国東郡国東町)の庚申塔(254基)
 国東市国見町(旧東国東郡国見町)の庚申塔(107基)
 姫島村の庚申塔(1基)
 庚申塔所在地一覧
 所在地未確認の庚申塔
 地区別庚申塔造立年表
 主な参考文献
 あとがき

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八千代新川千本桜 21-06

2021年06月03日 | 


 アジサイが咲き出しました。今年はアジサイの根元まで草刈がされていて見栄えがいいです。4月末に移植したアジサイも根付いたようです。


 今年もアジサイの挿し木をしました。昨年挿し木した陽光桜は2本成功し、一昨年の1本とあわせて3本育っています。桜の挿し木は難しいですが、今年も挿しました。

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伊藤介二・昭和の石仏写真館(42)蓮田子育地蔵

2021年06月01日 | 石仏写真館

蓮田子育地蔵(東京都荒川区)














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屋上菜園2021-06タマネギ・ニンニク収穫

2021年06月01日 | 屋上菜園


 5月末にタマネギとニンニク収穫しました。タマネギは今年も豊作でした。ニンニクは茎が太かったので期待していたのですが、球が思ったより小さいのでガッカリです。植える間隔が狭かったためでしょう。欲張ばり爺さんは昔からダメと決まっていますが、つい欲が出てしまいます。

 今年も夏野菜、トマトは苗を植えあとは種蒔きから始め、つるなしインゲン、ラディッシュは芽が出てきました。モロヘイヤとツルムラサキも種から育てることにしました。




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伊藤介二・昭和の石仏写真館(41)羽二重団子屋

2021年06月01日 | 石仏写真館

羽二重団子屋(東京都荒川区)






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