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象形文字

2022-05-31 21:48:10 | 随想
 昔書いた文章を引っ張り出してここに載せてみる。

象 形 文 字

 英語は左から右に,アラビア語は右から左に読む.わが日本語は縦書きにすると右の行から,横書きにするときは左から読む(ちなみに,昔,横書きでも右から読むように書かれていることがあったが,これは一字が一行の縦書きなのだそうだ).
 しからば,エジプトの象形文字はどうだろうか.実は,これが上から読むときも右から読むときも左から読むときもある.
 それでは,象形文字の書式はいたっていい加減なのかというと,そうではない.
 はっきりしたルールがある.
 鳥とか獣とか人とかの顔の向いている方向に読むのだそうだ.
 象形文字だから表意文字かというと,これがまたそうとも限らないからおもしろい.表意文字の象形文字の隣に表音文字の象形文字でフリガナをうっているときがある.
 送り仮名まであるかどうかは知らないが,日本語とよく似ているものである.

 象形文字を自分の力で読めるようになりたいと勉強を始めたが,辞書がなくて挫折した.
 シヤンポリオン(フランスのエジプト学者)は子供のころから象形文字の解読を夢に見,解読に必要な古代エジプト語(コプト語)を学習し,機が熟してから解読にとりかかったという.

 困難なテーマに対するときは,それ相応に綿密な準備と強い意志がいるようだ.
 つくづくわが身と引き比べるこのころではある.

小機関誌に掲載(昭和62年頃)

文豪論

2022-05-16 23:08:14 | 随想
 前回のブログで漱石について触れたので、関連してその数年後に書いた雑文です。(2022/05/16)

文豪論

 文豪というと漱石ですが、読んでいてもう一つぴんと来ないところがあります。日頃感じていたことを書いたのですが、突如、「則天去私」か…と思いついて、辞書で「作家の小主観を挟まない無私の芸術」に行き当たりました。それでも六部作は暗い印象しか残らない…。 2/17

 夏目漱石、森鴎外は文豪である。芥川龍之介は文豪とは言わないようである。三島由紀夫も文豪と呼ぶのを聞いたことがない。
 谷崎潤一郎は、文豪と呼ばれることがある。
 川端康成は文豪だろうか。太宰治は…。
 芥川、三島、太宰等は夭折である。どうも文豪と呼ばれる人は、長生きで高齢になっても著作を続けていた人のようだ。
 文豪を広辞苑で引くと、「文章・文学の大家」となっていて、例文に「明治の文豪」とある。広辞苑の定義だと、大正の文豪も、昭和の文豪もありそうで、私の文豪のイメージとは違ってくる。
 実は、私は谷崎は「美食倶楽部」等という短編位しか読んだことがないし、川端は全く読んでいない。森鴎外も「高瀬舟」「ヰタ・セクスアリス」等の短編のみだ。
 従って、自分の読書量で文豪云々するのは、口幅ったい。それでも、書きたかったのは定年後、少なくとも文豪と呼ばれる「漱石の作品は一通り読んでおかなければ」と思って前期、後期三部作を通読したときの感想である。
 手始めに「草枕」を読んだ。なるほど、これは漱石の芸術論だ。「三四郎」、これも若き漱石の瑞々しさが感じられる。さて、「それから」「門」以下の作品は、読後既に10数年が経ち、ストーリーもほとんど忘れてしまったが、暗い思索の中での諦観だけが印象として残っており、そこから押さえても押さえきれないもの、わき出して来るものがない。

 同じ頃、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んだ。この印象は強烈であった。4兄弟の生き様もさることながら、「キリストが中世に現れたときに、教皇がキリストに対して言った言葉」の逸話には愕然とした。ドストエフスキーの怒りが伝わってきた。「白痴」にも同様の凄みがあった。
 
 三島にも、彼の「押さえきれない主張」を感じることが出来る。「美意識」等と言われ、その行動もやや常軌を逸してはいたが、「豊饒の海」4部作では、「結局、人間は輪廻転生の中で浮き沈みしていく存在だ」(それをどう生きていくかは、個々人の問題だ)と言われているような気がした。

 追記 マーガレット・ミッチェルが文豪か否かは別にして、あの「勧善懲悪的*な、しかし単なる大衆小説とは言い切れない作品」の中に、彼女の想いの丈が込められていたことだけは間違いない。史実の中での「南部礼賛」である。 (2015/2/17)
  *登場人物の性格に全くぶれがない。

「草枕」と「三四郎」

2022-05-07 16:28:52 | 随想
 小学生の頃読んだ本について触れたついでに。
 漱石の「草枕」を50年ほど経ってから読み直したときの感想である。この雑文を書いてからも、すでに十年以上が経っている。

「草枕」と「三四郎」

 「カラマーゾフの兄弟」を読んで大変ショックを受けた。ドストエフスキーの人生は如何なるものだったのか? どんな体験をし、どのような考察からこれだけの作品を書き上げることが出来たのか。

 もし仮に、これだけの思索を物理学の最先端分野に振り向けるとする。すると、少なくとも3つ以上のノーベル賞が取れる。そう思わせる位に深く、かつ凄い人生に対する洞察がある。

 文学については小学生の頃、ある先生から「我が輩は猫である」を薦められて以来、漱石、藤村、有島武郎、太宰、鴎外などを片っ端から、一方では宮沢賢治の全集を買い込んで虱潰しに、読んだ。
 次第に量も減り、総体として自慢出来るほどの読書量でもない。
 それでも、高校くらいまでに「戦争と平和」やその他のトルストイの小品、ツルゲーネフなどロシア文学、ドイツ教養小説(ゲーテ「ウィルヘルムマイスター」、ケラー「緑のハインリッヒ」等)、「デビッドコパーフィールド」、「白鯨」等の英米文学等々、外国文学にも手を伸ばした。

 「ファウスト」などは当時全く訳が分からず、ただ字面だけを目で追った。しかし、これでは読んだことにならない。いずれ読み返さなければならない…。

  カラマーゾフ・ショックに誘発されて、正月のおとそ気分のまま、「草枕」を読み直した。これにもびっくりした。
 小学生の頃は、「粋な女性のでてくる、紀行文風の短編」程度に思っていた。とんでもない。漱石の芸術論ではないか!「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。これを逃がれて、行き着く先が芸術」だと言うわけだ。
 この主題が、作品の中で、手を換え品を変えて繰り返される(これは、音楽作品の手法に似ている。モチーフがあってバリエーションが続いていく。そんなスタイルなのだ)。そして最後に、どことなく不可解なお那美さんの姿に、愁いを含む表情を一筆描き加えて漱石の芸術作品「草枕」が完成するという仕組みになっている(主人公は画家だが、一筆添えたのは漱石で、自分の作品「草枕」の方に加えたところがミソである。バルザックの短編「知られざる傑作」にどこか通ずるところがある。こちらは芸術作品が未完成のまま終わってしまうのだが…)。

冒頭の部分を諳んじ…読んだつもりになっていたが、漢語がちりばめられてこれだけ深い内容のあるものを、小学生が理解出来ていよう筈がない。
 あわてて今、「三四郎」を読み直している。これの方が(今のところは)よっぽど内容がわかりやすい。
 「三四郎」、「それから」、「門」と続く三部作は「哲学的な内容を含んでいて、難しい」と観念的に思っていた。しかしこれは、「彼岸過迄」「行人」「こころ」の後期三部作の方にあてはまるようだ。
 早く、「三四郎」以下を読み終えて「こころ」まで行き着かなければならない。
 そのあとに、ドストエフスキーの続きが待ちかまえている。  (2009・1・28)