Call and Response

より気持ちを表現するために、博多弁を使って書いたりします。思ったこと色々書いていきます。

『父親の命日その2』

2005-11-24 23:43:18 | Weblog
17日の日曜日、見舞いには行かなかった。18日に行くし、元気そうだしって事で、なかなか見舞いに行けなかった妹だけ見舞いに行った。会社の人達も見舞いに来ていたそうで、わりと元気だったらしい。

同じ病室の方々から聞いた話だと、その日の夜10時頃、腰の痛みを訴え始めた父親。看護婦が様子を見に来ていたらしい。ひょっとしたら大動脈が…って、この時点で気付くのが普通だと思う。医療のこと分からない私が『その時には腹部で出血してたんだな』って分かったのに。腰の痛みを訴え始めて、夜中の2時頃に気分が悪そうな感じで、とても辛そうだったから同じ病室の方々が心配して看護婦を呼びに行ってくれたそうで、それから、しばらく看護婦が付き添っていたと言う。

午前3時過ぎ、父親は大量に吐血した。1階の処置室に運ぶのに、台車みたいなの(患者が手術室に運ばれる時に使うアレ)を看護婦が持ってきて、同じ病室の方々が『台車に乗せるのを手伝いましょうか?』と言ったら、父親は自分でベッドから台車に移ったらしい。その後に気を失って1階へ運ばれた。

自宅に電話が入ったのは午前4時半頃だったか『お父様の容態が、かんばしくないんですよ。なのでスグに病院に来て下さい』と。家族に電話するまでの間の約1時間半、この時に何が?誰が何をしたのか?疑問に思うこととなる。

病院へ駆け付けたら、手術室じゃなく診察室に行くよう言われ、ドアを開けたら…… 瞳孔が開いて目の焦点が合ってない、まるで死んだ魚のような目をしていて、だらし無く口を開けたままで口の回りが血だらけの父親の顔が私の目に飛び込んできた。『何コレ?もう死んでるやん…』院長がドアの方に向いてる父の顔を反対側に向けた。母は放心状態。この空気感、何か怪しい。そう直感した私は院長の顔や態度を観察した『何か、やらかした』そう感じた。院長から説明を受けてる間もヤツの目の表情を、言動を観察しながら聞いた。『実は検査でガン細胞が見つかりまして、そんなに大きくないですが』と言って母にガンだから吐血した、ガンだから今このような状態になってると思いこませようと必死だった。その必死さが、かなりムカついた。ガンだから仕方ないと言いながら、身振り手振りの説明、ものすごく動揺してるのを隠そうとしてるのがバレバレ。『ご主人は血液型がRh-のA型だったんですねぇ…』と言った院長。『!!!』母が『そうですよ。知らなかったんですか?』と聞いたら、慌てて『あ、あぁ知ってましたよ。輸血の準備をするのに血液が合うか
検査してる間に心肺停止になりまして』『え?じゃあ心肺停止してから、どれくらい時間が経ったんですか?』『ご家族に連絡した時には停止後1時間くらい経ってました』キレて暴れ狂いそうになったけど抑えて、どんなことを院長に言ったか覚えてないけど『もう死んどうやん』とか言ったと思う。緊急手術した訳でもないのに『肝臓は立派ですキレイなモンです』とか言いやがった。診察室の片隅に、ほったらかしにされた父。夜が明けて来た頃、親戚も来て説明を聞いていた。

『父親の命日』

2005-11-18 00:45:28 | Weblog
今日は父親の命日。平成14年11月18日に57歳で亡くなった。死因は出血性ショック死、原因は医療ミス。いつかはブログに書くつもりだったし、これから書いていこうと思う。

思い出しながら書くのは、かなり脳が疲れるけど。精神的にも。辛い体験をした人が、体験談として話さなきゃいけない時や、事件だったら捜査の為に思い出しながら話すのは、こんなに辛いことなんだって分かった。狂いそうになるほど。でも、父親の為にはブログに書いて事実を知ってもらうしかない。『もし自分だったら…家族だったら…』と考えて欲しいから。

医療ミスとは言え、手術はしていない。やってはイケナイ事を、やった為に。

平成14年11月8日、父と母は同じ勤務先で、昼休みに近くの銀行に車で行った。銀行の駐車場で停めてる車内で父は吐血した。救急車で搬送される時、かかりつけの病院がないならA病院に搬送すると言われた母は拒否した。他の病院に搬送して欲しいと懇願したが、A病院でダメだったら搬送すると言われ仕方なくA病院へ。悪い噂があるA病院へ搬送された。もちろん、病院側は入院患者が欲しいから多少手に負えなくても引き受ける。そこは、そんな病院。救急隊員を早々と帰していたと母が言ってた。親戚が博多の大きな病院で看護婦長をしているから、後日病院を移ろうと考えてた。

かなりの吐血量。3日間だけ絶食で点滴のみ。この3日間で内視鏡などの検査を受けていた。次の日から、ナント食事をしていた!胃潰瘍で吐血した場合、最低1か月は絶食だと言うのに、お粥と牛乳と里芋の煮物とバンバンジーを食べてた!!バンバンジー!肉だよ!何リットルも吐血した患者が吐血後4日で肉だっ! 父親は『病院が食事を出しよーとやけん良かろーもん』『ただの胃潰瘍やし』いやいや父ちゃん、素人でも分かるよ、これはヤバイって!博多の病院に移ろうって言うと『そしたらオマエ達、毎日見舞いに来んやろ?』『はぁ?寂しいとぉ?』『そうじゃなかっ!』そんな会話をした。父の隣のベッドの患者さんは親の知り合いだった。足を引きずるように歩いてたから『足をケガしたと?』と聞いたら『脱腸の手術が失敗して院長がミスを認めたけん入院費タダで何ヶ月も入院しとうと。歩けんごとなった』って言うわけ! マジでヤバイ! こんな病院、早く出らんと!

入院6日目頃だったか、風邪ひいたと言って電話してきた。見舞いには1日おきで行ってた。見舞いに行くと、内服薬が。胃潰瘍の薬は分かる…ん?風邪薬!まさか…『飲みよーと?』『うん』普通、点滴に入れるんじゃ?他の病院の看護婦に、父の胃潰瘍の治療の現状を話したら『それ絶対やったらダメな事よ!お父さん死んでしまうよっ!』と叫んだ。18日の午後6時半に、院長から話しがあるから病院に来るように父親から言われた。16日土曜日、仕事が終わって母と見舞いに行って『博多の病院に移るって言おう』と話し合って、正面入口まで父は私達を送ってくれた。『じゃあ18日ね!』バイバイと手を振った。

この日から、バイバイと手を振るのが恐くなった。手を振ると、もう、その人とは会えなくなるんじゃないかって思ってしまう。できれば、バイバイと手を振らずに『またね』と握手したい。相手に手を振られたら『やめて~っ!』と心の中で叫んでしまうほど。

次の日、父親の容態は急変した。