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カタツムリの歩み

社会復帰と教会復帰を模索する、引きこもりな猫族のつぶやき

聖母マリアの誕生日に向けてのノヴェナ(3日目)

2012-09-02 00:53:42 | 日記

聖母マリアの誕生日に向けての、ノヴェナ。

そうしようと思いたって、いつも心にノヴェナのことがあります。

もう長いこと開くことさえなかった聖書を開き、書棚にはいったままだった霊的書物を手に取り、

いつも見るような動画はちょっと控えめににして、修道女たちの生活を紹介した動画や、

聖歌を聴いたり、口ずさんでみたり。

ちょっと書物から書き写してみたり、ほんのわずかな時間、祈ってみたり。

その程度のことしか、できません。

 

「良くなりたいのか。」

ベトサダの池のほとりの回廊に横たわっている長患いの婦人に、イエスは声をかけた。

この池は鉱泉の一種だったらしく、水が動くとき病気を癒す効果があったようだが、

婦人には自分で池に降りていく力も、わずかしかなかった。

 

今の私も、彼女と同じような状態なのかもしれない。

癒しを与えてくれる場の前で、ただ横たわっていることしかできない病人。

弱い立場の人間に話しかけるイエスのまなざしは、いつもあたたかくて、やさしい。

「良くなりたいのか。」

まっすぐな瞳を向けて、主は私にも、そうお尋ねになる。

 

はい。 何とかこの状況から、抜け出したいのです。

良くなりたいのです。

でも、自分を治すために、自分をどこかへ運んでいくこともできないのです。

こうしたい。こうしよう。と、ときとしてよい考えが浮かんでも、

それを実行に移すことが、私にはできないのです。

 

あなたが良い方で、私の状態いかんによらず、私を助けることができるということを、

知識として、知っています。

でも、長い間、あなたを忘れていたし、おぼろげな知識でしかないのです。

私は自己否定の牢獄に囚われていて、そこで生きるのが当たり前になってしまいました。

どんなに嫌な人間であっても、周囲から忌み嫌われる存在であっても、

あなただけは私を肯定してくださる(はず。)

知識として持っているだけで、私はわかっていないのです。

 

あなたは、癒す力を持っておられる。

でも、あなたはまず、ひとにぎりの、「良くなりたい」という私からの貧しい願いを

お求めになる。

 

永遠に乾くことのないいのちの水の与え主であるはずのあなたは、

井戸で出会うサマリアの女性に、「水を飲ませてください」とおっしゃる。

あなたは、何に、乾いておられたのでしょうか。

 

自己不信に苦しみ、他人の批判に怯え、ありのままの自分を受け止めてくれる存在と

出会いたいと切望する人は、きっと、世界中にたくさんいると思います。

自分の価値判断から抜け出すことになるので、神に無条件の信頼を抱くことは、

とても難しいのです。

全能の神ではあるけれども、神は自由意思を与えるほど人間を尊重なさったので、

神の無条件の愛を、受け入れることも、拒むことも、私にはできるのです。

神は、本当は、、その自由意思で、神を受け入れて欲しいと思っておられると

思います。

「無条件の愛を、信じてほしい。あなたを愛し、あなたを癒やし、

あなたをあふれるいのちで満たしたい。あなたのうちで、私に好きなだけ、

愛のわざを行わせてほしい。

愛したいという私の望みを、何一つ拒まないで、受け入れて欲しい。」

イエスは、愛を受け入れられることに、飢えておいでだったのではないか。

そう思います。

 

愛を信じきれずに苦しんでいる同胞と共に、私も、イエスを信じることができるように、

イエスのなまざしを探しに行ってまいります。


無条件に愛するという、神の流儀

2012-08-31 15:07:04 | 日記
ー私は、これこれの犠牲を払います、だから、これこれの願いを聞き届けてください。ー

宗教のいかんによらず、こういう必死な祈りを捧げる姿は古今東西に
見受けられる。身近な例でいえば、御百度詣りなども、そうだと思う。
出征した息子の無事を祈る母親しかり。

美しい場面である。だが、こちらの犠牲と、聞き届けられる願いとが
対になっているとき、ときに考えさせられることがある。

ギブアンドテイクという暗黙のルールは、日頃のお付き合いにも
社会常識としても登場する。助けてもらったら、相応のお礼をする。
贈り物をもらったら、お礼の品を返す。それらはときとして
楽しい友情の交換であり、別のときは義理立てに使われることもあるだろう。

ところで、神のいつくしみを見つめるときに、
ぶれてはいけないと思う点がある。

神の価値観は、人間のそれとは明らかに違う。
朝から働いている人にも、夕方のこのこやってきた雇われ人にも、
同じように好待遇で報酬を払う、気前の良い雇用主なのである。
別の見方をすれば、わざに応じて報いるような正当報酬を与える方では
ないということである。

神のなさり方を、人間は自力で理解することはできない。
相手の度量は、どうしても自分の推量とモノサシでしか測れない。

愛する価値のない人間が、無条件で愛されることは、
人間の尺度では、ありえない。
だから、神がそうなさっていると言われても、なかなか受け入れることが
できない。

愛されることには、何か根拠があるはずであり、
何かのお礼をしなければならないーたとえ一度信じても、すぐにそれが
信じられなくなって、そういう理屈を持ち出してしまう。

カトリックの修道生活の修練をしていた頃、私が辛く感じた一つはそれだった。
たくさんの聖人伝を読んだ。驚くべき偉業をなしとげた聖人達がいた。
だがその多くは、上流階級の出身で、優れたキリスト者の家庭で育ったサラブレッドだった。
彼らの多くは、最初から優れた素質を持っていた。

もちろん、素質を持っている人なら誰でも開花できるとは限らないのだろう。
オリンピックのメダリストを思えば、才能と努力、精神力のすべてで秀でていなければ、
表彰台には登れないことがわかる。

しかし、恵まれた環境と素質がなければ、聖人にはなれないとでも
言いそうな聖人伝は、私を鼓舞するよりは、むしろ失望させた。

「幼児洗礼の賜物は本当に大きい。」
修練女たちを前にして、院長はたびたびそう言った。
一年先輩の二人は、揃って名門カトリックの家柄だった。
院長があまりにもそう繰り返すので、二人は幼児洗礼でない私を気遣って、
当惑した顔を浮かべていたのを、今でも憶えている。

生来のひがみやすい性格もあって、そういう言葉は当時、
私に何の良い効果も生まなかった。しかし、今ならその意味がわかる。

ただ、こつこつとした精進を積む生活をしていると、
自分のしたことに応じて、神さまから認められるのだと思い込む誘惑が
あるのである。
そうではない。私には、何の価値もない。
何かをしたから、愛される価値があるのではなく、
何もできないままだから、愛される価値がないわけでもない。

私の状態いかんにかかわらず、神のあわれみは無限であり、一方的であり、
つまづいても、かがみこんでも、いわんや拒絶し、その手を振り払ったとしても、
両手を広げて迎え入れる姿勢をけして崩さないお方なのである。

ぶれずに、神のいつくしみを信じ、それを無条件に受け入れる。
神がなさりたいように、神が愛したいとなさるがままに、身をまかせる。
神は無条件で愛したいのに、あまりにもあちこちで、その愛を拒まれてしまうから、
無条件で受け入れてくれる相手に、飢えておられるのである。

自分の不信感、喪失感を投げ出して、神のなさりたいことを、私のうちに
実現する。すなわち、無条件に私を愛そうとなさる神の御手をどこまでも拒まないこと、
神の慈しみを無条件で信じきることである。

実はこれが難しい。もとより愛のない自分なので、なおさら難しい。
今、それができて書いているのではない。
昔読んだ良書を読み返し、昔の知識を思い出し、
こうだったのでないか・・・と思いながら書いているにすぎない。

そのために私はノベナを始めた。
神よ、あなたをもう一度見出すために、私に光を与えてください。
聖母よ、あなたの子供であることを、私が思い出せるように、
私を導いてください。
自分の惨めさにかがみこむのではなく、神のいつくしみに心を開くことが
できるように、歩ませてください。

聖母マリアの誕生日に向けてのノベナ(9日間の祈り)1日め

2012-08-31 13:36:42 | 日記

今日、8月31日。
今日から始めれば、9月8日の聖母マリアの誕生日まで、
ノヴェナ=9日間の祈りができることに、昨晩気がついたので、今日始めます。

カトリック教会では、聖書に語られる主の昇天から聖霊降臨までの9日間を、
教会で一丸となって祈り続けていたエピソードにちなみ、大きな祝日までの9日間を、
一つの意向で祈り続ける習慣があります。これがノベナです。
特別に何か実現したい意向が、個人的にある時にも行われます。

私の願いは・・・身動きの取れない、追い詰められた現状から抜け出して、
一歩踏み出すことです。

うつ病と社交不安障害で、仕事を休職し、会社の規定期間を過ぎても復帰できず
そのまま退職。通院して傷病手当をもらうも、手続きや外出が苦手で、
保険の切り替えのために外出できなかったことから、社会保険を失効し、
国保の申請にいけないことから、病院にも行けなくなり、、、
手続きも全部とまり、税金も申告も全部止まり、、、
減る一方の貯金に怯える生活をしています。

若い頃は、、、修道女になることが夢でした。
実際、修道生活も体験しましたが、そこに留まることはできませんでした。
年を重ね、、、そもそも自分には適していなかったことに気がつき、
もうその夢は追わなくなりました。

でも、半生をそれだけに費やしてしまった後で、今さら普通の生活を
しようと思っても、もう手に入れることはできなくなっていました。

挫折感と、それを埋める道が見つけられないまま、ぷかぷかと
水際に浮くような生活をしたのち、今の病状に突入したのです。

長いこと、信仰からも教会からも遠ざかっていました。
自分が抱いていたものが、すべて幻想の産物だと気がついたからです。

「あなたには(霊的生活を理解する)優れた知性がある。 しかしそれだけです。
この生活をするための基礎がない。」
私に退会を命じた、修道院長の言葉でした。
その言葉の意味を悟ったのは、それから10数年も経ってからでした。

そんな私が、ノベナの祈りをしようと思い立ったのは、何の偶然なのか・・・

私が、思い立ったのは、次のことでした。

確かに、私は多くの思い違いをしていた。私は多くの点で、自分は
持っていない素養を、既に獲得しているものと思い込んでいた。
わずかな努力で、自分の欠点や痛手は直せるものと思っていた。
しかし、祈りと恵みの力をもってしても、根源的な魂の傷や致命的な欠陥は、
簡単に癒すことはできない。そこに私が失望した理由があった。

私が多くの思い違いをしていたのは事実。
私の信仰は、あまりにも悲愴的でお粗末なものだった。それも事実。

けれど、それでも、神ご自身には偽りがない。
私の認識は間違っていただろうが、神がいつくしみの存在であり、与える存在であり、
迎え入れる方であることに、変わりはない。

おそらく、私は残りの人生を賭けても、私の欠陥をただの一つも直すことはできないのかもしれない。
けれども、それでも、神に向かうことだけが私に残された救いの道。

私の惨めさを見つめていても、何一つ改善することはできない。

さあ、神に立ち返ろう。
でも、私の力では、起き上がることも、神に目を上げることも、
信仰を回復することもできないのだ。

罪人のよりどころである聖母の元へ行こう。
マリア様。私を、御一人子の元へ、立ち戻らせてください。
私はすっかりすべてを忘れてしまって、どうやって立ち返っていいのか
わからないのです。道を示してください。