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カタツムリの歩み

社会復帰と教会復帰を模索する、引きこもりな猫族のつぶやき

聖母マリアの誕生日に向けてのノヴェナ(最終日)

2012-09-08 17:40:27 | 日記

9月8日。聖母マリア様の誕生日です。

マリア様、お誕生日おめでとうございます。お喜び申し上げます。(*'▽'*)♪

12月8日は無原罪のおんやどりの祭日。

マリア様のお母様が、マリア様を身ごもられた日。

つまり、マリア様が被造物として存在した最初の日です。

誕生日である9月8日は、懐胎からちょうど9ヶ月後。

教会の暦は、こうした実際の時間の経過によっても、救いのみわざを記念するように招くのです。

 

今日の記念に、小さなお話をしたいと思います。

その昔、・・・聖マリアに捧げられた小聖堂に通い、私は毎晩祈っていました。

世間知らずだった私は、新卒で入社した職場を非常につらく感じ、

毎日逃げ出したい思いと戦っていました。

マリア様に、自分の苦しさを打ち明け、ご聖体の前で祈り、そこから力を汲み取っていました。

数ヶ月をそのように過ごした後、・・・職場はある日突然、倒産しました。

そののち私は、ちょうど折り良く募集のあった、キリスト教関連の職場に応募し、

そこに務めるようになったのです。

 

私は辞めたいと祈ったわけでも、よもや会社を倒産させてくれなどと願ったわけでも

ありませんでした。 むしろ、自分の都合では辞めたくなかったのです。

カトリックに入信したばかりということもあって、教会の雰囲気から離れなくてもすむような

職場に行きたいと心の望みはあったものの、・・・

それをマリア様に願ったわけではありませんでした。

しかし、まるで私にあつらえたかのような職場が、突然与えられたのです。

 

「マリア様、つらいです、自分ではどうしていいかわかりません、私を助けてください」

毎日そう祈っていた私でした。それなのに、マリア様は、私の心の奥にある望みを

汲み取ってくださり、思いもよらない形で、それを叶えてくださったのでした。

 

倒産した会社の、最後の出社になったのは、9月8日。

マリア様の誕生日でした。

それ以来、この祝日を、特別な気持ちで迎えるようになりました。

 

長い間忘れていたこの思い出を、今日思い起こして、もう一度感謝したいと思います。

この祝日を、たどたどしい、おぼつかないノヴェナで迎えました。

マリア様、ありがとうございます。

この祈りを思いつかせてくださって、一緒に歩ませてくださったのは、ほかならぬマリア様でした。

自分の力が及ばないことを悟り、このノヴェナを共に祈り、共に歩んでくださいとお願いした、

かけがえのない3人の友に、心から感謝を申し上げます。

この恩人がたに、マリア様が豊かに報いてくださいますように。

そして、これから本当に、歩み出していくことができますように。


聖母マリアの誕生日にむけてのノヴェナ(8日目)

2012-09-07 08:53:06 | 日記

マリア様の誕生日(9月8日)にむけての9日間のお祈り(ノヴェナ)も、

残すところ、わずかになりました。早いものですね・・・

今日はマリア様にちなんで、お告げの祈りについて、思い出してみたいと思います。

お告げの祈りで、私が最初に思い出すのは、四ツ谷にある、聖イグナチオ教会です。

朝昼晩に街に鳴り響く鐘の音と、それとともに始められるミサ・・・

必ず、お告げの祈りを皆で唱えてからミサが始まるというこの教会の習慣が、

とても美しいのです。

 

■□お告げの祈り■□ (現在では口語の祈りが唱えられています)

(朝、昼、晩、ひざまずいて唱える。ただし、日曜はその前晩から立って唱える。)

 

 主の御使いの告げありければ、マリアは聖霊によりて懐胎し給えり。

(天使祝詞1回)

 われは主のつかいめなり。仰せの如くわれになれかし。

(天使祝詞1回)

 しかして御言葉は人となり給い、われらのうちに住み給えり。

(天使祝詞1回)

 天主の聖母われらのために祈り給え、キリストの御約束にわれらを適わしめ給え。

 (祈願) 主よ、われら天使の告げを以て、御子キリストの御託身を知りたれば、

願わくはその御苦難と十字架と によりて、ついに御復活の栄えに達するを得んため、

われらの心に聖寵を注ぎ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。アー メン。

 

神さまはマリア様を通して、おんひとり子を世に遣わし、救いの計画を実現された、

そのことを思い起こし、感謝し、私たちが目指すべき方向、キリストの復活にあずかる

という目標をあらたにし、実現できるように助けを願う祈りです。

単純素朴なうちにも、キリスト者として生きるうえで大事なことが全部詰まっているので、

毎日3度祈るにふさわしい祈りだと思います。

 

昔、とある活動修道会の晩の祈りに参加したとき、お告げの祈りにも

あずかったことがあります。

その会では、交唱ごとに天使祝詞を唱えず、交唱の部分3つをまとめて唱えてから、

天使祝詞を1回だけ唱えていました。

3度唱える天使祝詞は、それぞれの交唱句を黙想するためにあてられているはずであり、

同じ祈りだからまとめて1回で・・・、というのは意味がわかりませんでした。

 

もしかすると、使徒職が忙しくて、共同の祈りの時間をあまり避けないのかもしれません。

たぶん私の知らない部分で、別のところで何か、その修道会で大事にされているものが

あるのかもしれません。

神様は、いろいろな手段・いろいろな方法で、人を招くことがおできになります。

この出来事を通して、神様は、最も基本的で単純な祈りを大事にする道に、

私を招いてくださったのだと感じ、感謝したことを、思い出しました・・・

 

何しろ、ノヴェナをしてきた今まで、この祈りのことをすっかり忘れ、

一度も唱えていなかった私なのです・・・orz

でも、私は、たどたどしいノヴェナを続けながら、

それは、私自身が、マリア様を、神様を、少しずつ思い出そうとする歩みであると思うのです。

 

神を思い出すために、神と生きる時間を少しでも取り戻すために、

こうして、基本的なお祈りの一つずつを思い出すことから、ゆるゆると取り掛かるしか

ないのかな、と思います。

 

ミレーの「晩鐘」という有名な絵は、私も幼い頃から親しんでいましたが、

あの光景の本当の意味を知っている日本人は、そう多くないのではないでしょうか?

あれは、お告げの祈りをしている姿なのだと気がついたのも、この祈りを知ってからでした。

 

田園に響きわたる、教会の鐘の音・・・・

それに合わせて、農夫たちが一斉に作業の手を休め、手を合わせて共に祈る。

なんと美しい光景だろうかと思います。

それは、神の現存への、招きの瞬間でもあります。

神さまは、いつでも、私たちのうちにおられるけれども、

四六時中、それを意識できるわけではありません。

日に3度、教会の鐘が鳴ったら、お告げの祈りをとなえて、、

キリスト者としての本分を思い起こす。

神様が私たちのうちにおられることに心を向け、しばし神と共に過ごす。

そういう、小さな習慣の積み重ねが、私たちを変えていくのだと思います。

聖母よ、この美しい単純な祈りが、わたしの日常にも組み込まれていきますように、

あなたと出逢う機会を、少しずつ、増やしていくことができますように。


聖母マリアの誕生日に向けてのノヴェナ(7日目)

2012-09-06 07:24:46 | 日記

「マリア様に祈って聞き入れられなかった人の話は昔から今まで聞いたことがない、

どうかそれを思い出してくださいっていう、大胆なお祈りがあるんだよ。」

その昔、そう言って神父さまが紹介してくれた祈りがこれです。

 

慈悲深き童貞マリア、

御保護によりすがりて御助けを求め、あえて御取次を願える者、

一人として棄てられしこと、いにしえより今にいたるまで、世に聞えざるを思い給え。

ああ童貞中の童貞なる御母、われこれによりて頼もしく思いて走せ来たり、

罪人の身をもつて、 御前になげき奉る。ああ御言葉の御母、

わが祈りを軽んじ給わず、御あわれみをたれて、これを聴き給え、

これを聴き容れ給え。アーメン。

(聖ベルナルド、聖母のご保護を求める祈り 「公教会祈祷文」より)

 

実はおぼろげにしか、このお祈りを憶えていませんでしたが、

ずっと使っていなかったカトリックの祈祷書が部屋のどこにあるのか、すぐに出てきません。

幸いにも、カトリックの主要な祈りをネットに載せてくださる方がいました。

おかげで、この祈りの全文を思い出すことができました。

作ってくださった方、本当にありがとうございます

http://hosanna.romaaeterna.jp/koukyoukai/index.html

 

私が起き上がること、神にたち帰ることを、

聖母は望んでおられるはずだから、必ず助けてくださるでしょう。

信頼と、希望と、忍耐とを、今はまず願いましょう。


聖母マリアの誕生日に向けてのノヴェナ(5日目)

2012-09-04 12:34:56 | 日記

ー神よ、わたしを力づけ、

 急いで助けに来てください。

 

神を思い出すことなく長い年月を過ごした後で、ふと、神を思い出し、

神の助けを得ようと思ったとき、最初に浮かんだのは、この言葉でした。

もともとは、詩篇のどこかにある聖句なのですが、

これは教会の祈り(聖務日課)で、祈りを始めるときの、最初の言葉です。

 

「教会の祈り」は、世界中のカトリック司祭・修道者が毎日の祈りの義務としているもので、

しばしば一般信者もこれを共に祈っています。

朝昼晩、寝る前と読書、観想修道会であればさらに祈りの回数が増えますが、

詩篇と福音書、使徒書、・・・聖書の言葉が実に見事に編まれていて、

もうこれだけで他の本はいらないくらいに豊かな祈りの宝庫となっています。

 

とはいえ、今わたしが「教会の祈り」をしているわけではありません・・・

これは何気ない、祈りへの招きの言葉にすぎないのですが、

私が神を思い出し、神の助けを乞い、神とともにこの時を過ごそう、と思うときに、

とても助けになる開始のことばだと気がつきました。

 

私の日常の活動が、本当に本当に低下しているため・・・・

ようやく食料の調達に外出したとき、そのおぼつかない足取りの歩みで、、、

散らかった台所を片付けるために立ち上がり、水道の蛇口をひねったとき、、、

私は、この言葉が、しばしば口にのぼるようになりました。

 

ー思念がすべてを悪くする。何か思念の起こった時、それが、自分の今していること、

あるいはたすかりのために必要でないときづいたならば、ただちに捨て去り、

平和と満足とを味わっていた神との語らいに、また戻るように心すべきである。

(ご復活のラウレンシオ修士、「神の現存の体験」)

 

これは私のために言われたような言葉です。

むしろ、ほとんどすべての時間の思念が悪い状態にある私ですが、

思い立ったときだけでも、神を思い出し、神に心を上げること。

わずかな時間であっても、神とともに過ごす機会を増やすこと。

今は、これに尽きるのかな、、、と思います。

 

実は、、ノヴェナを始めて、生活のなかで意識を高めたことで、

以前にもまして、自分の暗闇に気づいてしまった部分があるのです。

悪い思念に捕らわれていると気がつきながら、悪化してしまった知人との関わりを

どうすることもできなかったり・・・・。

今まで以上に、牢獄に住むことに辛さを自覚したり・・・。

 

目が見えてくるようになれば、現実の酷さも、一緒に見えてくる。

麻酔が切れれば、意識は戻るけれども、強烈な痛みも戻ってくるのと似ています。

意識は戻ったほうがいいのですから、今は辛抱するしかないのですよね><。

 

そうです。霊的生活を取り戻すには、忍耐が必要です。

どっちみち、私はいつもいつも、辛抱していました・・・

自ら招いた牢獄に住み続けるには、どれだけの忍耐が必要だったか!

なぜ好き好んで、このような忍耐を続けてきたのかと思うほど、

たくさんの忍耐をしています・・・まったく無意味なことなのですが・・・

今度は、その忍耐を、良くなるためにすればいいのです・・・

 

残念なことに、不毛な苦しみもあれば、よき実りを生む苦しみもある。

時間によって、癒される痛手もあれば、

時が止まったままになっている痛みもある。

不幸にも、変容して、すっかり別物になってしまう痛みもあります・・・

 

どちらにせよ・・・この傷だらけの私を、主よ、あなたにお見せしましょう。

私には、自分をどうすることもできないのです。

「良くなりたいのか。」

はい、そうです。良くなりたいのです。

そう望みますから、主よ。急いで助けに来てください・・・・

 

罪人のよりどころ、憂き人の慰めである聖母マリア様、

私が御ひとり子に立ち戻れるように、私の手を引いてください。

私は、一人では満足に歩けない子どもに過ぎないのです・・・・

 

マリア様。いつか、いつか、、、あなたの足元で、

その貴いマントに隠れてちょこんと座り、ごろごろと喉をならして休みたい・・・

それが、猫である私の憧れなのです

今はまだ、そんな大胆なことができるほど、親しくしていないのですが、

そのおゆるしをいただけるくらいに、いつかあなたと親しくなりたいと願っています・・・


聖母マリアの誕生日に向けてのノヴェナ(4日目)

2012-09-03 09:55:55 | 日記

生来の性格のため、「人のことを気にしすぎる」と、いつも言われます。

私が抱える内心の不安の多くは、確かに、人からどう思われるかを気にしすぎることから来ているだろうと思います。

しかし、そこまで分かったとしても、何の解決にもならないのです。

「考えすぎ」「気にしすぎ」 確かに。けれど、、、不安で一杯になっている心は、

どうしたら、「気にしすぎ」ることをやめ、「考えすぎ」ることをやめられるのでしょう?

 

哀しくなるくらい、多くの人から繰り返し、気にしすぎだと言われました。

けれど、「どうしたらやめられるのか」という問い返しをしたとき、

満足のいく返事をもらったことは、ほとんど記憶にありません・・・

私にも、それはわかっています・・・でも、これが私の気質なのです。

直せるものなら、直したい。心がけたい。でも、「考えすぎ」の一言で終わりになると、

このままの自分では、受け入れてもらないのか。失格なのか。とがっかりします。

確かに、不安ばかり口にしている人とは、付き合いたくなくなる気持ちもわかりますので、

結局、人の重荷になることしかできないんだな・・・と思い、寂しい気持ちを抱えつつ、

人との接触にも遠ざかるようになっていきます。

 

こんな自分の現状が一つはっきりしたので、マリア様の誕生日のノヴェナとして、祈ることにしました。

おぼろげながら、私が気がついたこと・・・

気にしていることを、気にしないようにと思っても、それは逆効果なのです。

毛糸にからまった猫が、解こうとして毛糸に飛び込んで、ますますからまっていくようなものです。

気にしなくなるための一番いい方法は、たぶん、別の、もっといいことに心を向けることです。

「我を忘れる」「没頭する」という表現があります。

接戦を繰り返すスポーツの試合観戦でもいいし、ハラハラドキドキのドラマでもいい。

心にしみわたる音楽を聞き惚れてもいい。

でもたぶん、一番いいのは、神を思い起こし、神に私のまなざしを向けることです。

神様を見つめて、神様にとらわれてしまえたなら・・・!

 

それに、神様になら、いくら愚痴っても、嫌がられることはないのです。

周りを気にしすぎる私・・・・ささいな言葉で、転覆してしまう私・・・・

それは人を気にしすぎるからだ、と言われて、さらに凹む私・・・

いつも不安なことしか口にできない私・・・迷惑な存在にしかならない私。

 

神よ、あなたを見つめる修行を、もう一度やり直させてください。

いつ駆け込んでも、私がどんな状態でも、あなたには、ぶれることがない。

あなたのまなざしだけに生きて、私のすべてが溶けてしまえばよい。

 

人を気にするのではなくて、、、神よ、あなたをいつも気にする私でありますように。

吹いたら飛ぶような塵よりも軽い、人の言動に振り回されるのではなくて、、、

いつまでも変わることのない、真理であるあなたの言葉を、基準にすえられますように。

 

マリア様、どうか私を御ひとり子の元へ導いてください。

あなたは、御子によって、すべての人が救われることを何よりも望まれます。

どうやって立ち返ればいいのかさえ分からない私を、助けに来てください・・・・