ベル・カントを求めて

ベル・カント唱法の追求。「私の声」を探して一人稽古に励む日々を綴ります。

声区

2007-11-07 13:53:52 | Weblog
「胸声」という言葉があります。

「胸の声」とは何かというと「胸から出ている(ように感じられる)声」のことです。
私は幼少より合唱団にいくつか所属しましたが、女声の胸声はたいへん嫌われます。
(自己紹介していませんでしたが私は女性です)
胸声は、ポピュラーソングではむしろ歓迎されているようです。
またジャズソングでは欠かせないものです。
それらのジャンルの歌において胸声は「地声」とほとんど同じ感覚で用いられているような気がします。
マイクを使わないことを原則とするクラシックの声楽では、胸声として地声を素の状態のまま使うことは無理です。
胸声を排除するのではなく、鍛えなければなりません。


どこの合唱団の指導者も「高い音を出すのと同じやり方で低い音も歌いなさい」という意味の事を折りに触れてはおっしゃいました。
この言葉が「高い音も低い音も同じように均質に歌えるように訓練しなさい」と頭の中で変換できれば、非常に正しい指導だと私は思います。
ですが、実情は学ぶ側にその様な言葉の翻訳は出来ないことが多いわけです。
私ももれなく翻訳できず、高い音を出すやり方で低い音を歌おうと心がけました。
ところが、高い音から低い音へ順次下降する発声練習で、あるポイントにさしかかると声がひっくりかえる感覚が生まれ、響きは非常に薄く頼りなく、下手をすると音程もふらふらになることに気が付きました。
しかし、そこを乗り切らないといけません。
必死にごまかそうとします。
・・・結果、現在の私の悪癖となりました。

何の分野の勉強や練習でもそうだと思うのですが、わけもわからず中途半端な状態でごまかして続けていくと、いくら長い年月重ねても手元に何も残りません。
その反対にやり方の正解、不正解にかかわらず、何かを信じて、何かを成そうとして、目的を持って努力した場合、成果や結果が生まれ、体の中に何かが残っていくものです。
実は私は合唱団の指導にも携わったことがあるのですが、皆さんに何を積み重ねて欲しいのか、答えを出せないままでした。
ただひとつ、心からの喜びを感じて歌っていただきたい、という事だけはいつも念頭においていました。
しかし、歌声が自由にならなければ本当の喜びは生まれないということも知っていました。
今なら言えそうです。
「胸声を探し、鍛えましょう」と。

・・・ここで注意ですが、個人差があるのでもともと胸声が立派な方もいらっしゃいます。
そういう方は「頭声(頭から出ている[ように感じられる]声)」を鍛えます。
どちらも立派な方はそれぞれがさらに生き生きとするように。・・・



胸声・頭声の話は長くなります。
2つを分けているポイント「ブレイク」の話も必要です。
次回にまた別の角度から書いてみます。

現在、私は合唱の活動はしていません。
どうしても一人で歌う独唱がやりたいのです。
大勢で声を合わせ、厚い響きとメッセージを創りあげる、という事より、一本の声の線が生み出す流れ、響き、表現、に惹かれています。
でももしも将来、「私の声」を見つけ自由に歌えるようになったら、心からの喜びがふくらんだら、また多くの方々と声を重ね合わせてみたい、と感じるのかもしれません。