ベル・カントを求めて

ベル・カント唱法の追求。「私の声」を探して一人稽古に励む日々を綴ります。

2007-11-08 18:04:53 | Weblog
挨拶をする、話をする、電話をかける等、声を出す場面は日常生活に色々とあります。
それは普通、私たちが何気なくやっていることです。

しかし、「歌う」という事になると、心に何らかのモーションが必要です。
ふと鼻歌を歌う時、おそらく上機嫌なのでしょう。
カラオケで歌う時、自分の好きな、またはその日その場の気分に合わせた歌を選曲しているでしょう。
では、歌を稽古しよう、と第一声を出す時・・・一体何が心を動かしているのでしょうか。

数年前のある日、さあ練習しましょう、と立ち上がった時、何も感じられず心が真っ白になってしまった瞬間がありました。
思えばその少し前から「練習しなくては。練習しなくては。」という強迫観念に追い回されていました。
そしてその日、とうとう歌うことに何の感慨も持たず、いつもの習慣で声を出そうとしていた自分に、はっと気付いたのです。
ショックでした。
人の心が動き、特別な時間と空間が現れる事が嬉しく、歌をうたっていた自分はどこへいったのだろうと。
それからしばらくして、人前で歌うこと、教えることをやめました。

歌うためには心のエネルギーを必要とします。
エネルギーが充ち満ちているからこそ人前に立てるのです。


あれから数年経ち、ようやく私の心に歌うためのエネルギーが舞い戻ってきました。
キーワードは「耳」でした。
耳をすます。
少し極端に言うと「自分の声を診断する」のです。

よく言われている、歌うための「ああする・こうする」があります。
例えば
“のどの奥を開けて”
“腹筋を利用して”
“~へ声を当てて”
等。

しかし、それらは全て後付けで生まれた方法だ、と私は感じるようになったのです。
素晴らしい声をしている人に歌唱法についてインタビューしたところ、
“のどの奥が開いているようだ”
“腹筋の支えは重要です”
“額のあたりに音が当たっている感覚があります”
等とお答えがあり、それが語り継がれて指導法として定着したのではないでしょうか。
生まれながらに美声を持つ人が歌手になるケースが多い昨今においては、本人がそう学んだわけではなくて「(もともと)そう感じる」という事を若い声楽家の卵たちに伝授していたのではないかと考えられます。

「方法」が先にあってはいけないのです。
「耳」が先でなければ。

いくらのどが開いていても、腹筋の動きが見事でも、顔面に音が当たっているように感じても、肝心の出てきた音が心地よいものでなかったら全く無意味な事です。
明確でわかりやすい指導が求められる中、それに流されて本質を見失ってはならないと思います。

自分の声がどんな風に出ているのか・・・
“ア・イ・ウ・エ・オは歪まず純粋か”
“響きは聴き苦しくないか”
“音程は正しいか”
等々、自分自身の耳で確かめる。
有り難いことに現在は録音の機材に事欠きません。
様々な手段で自らの声を聴くことが出来ます。


「自分の耳を信じよう」
そう決心した時、歌うための心のエネルギーが帰ってきてくれました。