金沢文庫蔵の真言立川流聖教の和訳紹介

皆さんは立川流に関する通説が全く間違っている事をご存知ですか?鎌倉時代の史料を使ってその事を明らかにします。柴田賢龍

「光明潅頂印信」の事

2013-09-07 10:49:15 | Weblog
「光明潅頂印信」の事

金沢文庫保管称名寺聖教中に存する慈猛(本名空阿。1215―95)が称名寺審海に授けた一連の立川流(醍醐仁寛流)印信の中から、今までに「一心潅頂印信相承」「瑜祇潅頂密印(瑜伽瑜祇理潅頂)」「潅頂最秘密印(理智冥合)」に付いて、成立の由来や近似する他流相伝の印信等を見て来ました。本章に於いては和訳紹介分の第8として示したNo.6235「光明潅頂印信」に関して、これらの事を考えてみます。

(1)三輪上人慶円相伝の「光明汀(潅頂)印信」
「光明汀(潅頂)」と題された印信は、三輪山平等寺(三輪別所)の中興開山として知られる三輪上人慶円(常観房。1140―1223)相伝の印信類の中にも見出す事が出来ます。しかも同血脈に依って、これが蓮念(仁寛)方の所伝である事も知られます。この慶円相承の印信は、『神道大系 論説編 真言神道(下)』に収載する『諸流水丁(かんじょう)部類聚集』なる書物の中にあります。本書は慶円上人が授受した潅頂印信を類集したもので、奥書に依れば文政三年(1820)四月に金資(金剛佛子)憲誉が右筆の頼誉に書写させて、自ら校訂を加えた写本を原本としています。憲誉奥書の一つ前に、
右、慶円上人御自筆の本なり。而して之を写す。
元文三戊午(1738)七月朔日(ついたち)に伝受す。(同四年)乙未九月廿二日、長老御自筆の御本を以って書写すること了んぬ。
       文性自賢〔行年三十四〕
と記されていますが、果たして写本の文言が慶円自筆本をそのまま正確に伝えているのか確認するのは困難です。それでも内容から判断して、特に偽撰を疑う必要も無いと考えられ、本書は鎌倉初期の諸流伝授の実態を伺う上で非常に貴重な典籍であると言えます。

(2)慈猛相伝と慶円相伝の両印信の同異
慈猛相伝の「光明潅頂印信」は既に和訳紹介を済ませていますが、比較の為にここに転載する事にします。
「光明潅頂印信〔又た阿字潅頂トモ云うなり。又た金色泥塔トモ云うなり。〕
 印は口伝
 明 ア(原梵字)
  建長七年二月三日、之を示す。
伝燈大法師位慈猛、資審海大法師に授け了んぬ。
  秘中の深秘なり。他見すべからざる者なり。「慈猛」(花押)
月輪観に云く、印を結べば我身は月輪と成る。月輪とは光にて有るなり。体相は無し。口に阿とは本不生の理をヨブナリ。意に本不生の理を思う。本不生の理とは、我が念念の心は常に発るとも色形はなし。来ること無く、去ること無し。不思議の心性の妙理なり。身口意の三業にカク思えば妄想の止むを菩提心と云うなり。身は光と成って空なり。口に空の名(阿字)をヨベバ其の語は空なり。意に亦た空の理を思う。サレバ我が三業は共に空なり。罪障は、妄想顛倒の諸法の実に有ると思うに有るなり。サレバ此の如く思いに静かなる時、無量無辺の罪は滅するなり。能々観想すべし〔云々〕。 」
此の印信に於いては印を秘して「口伝」とのみ記していますが、慶円の印信は口伝に付いて詳しく記しています。以下に慶円相伝の印信を和訳掲載しますが、簡便の為に図入りの観想等を説く部分は省略します。
「光明汀印信〔又たア(梵字:a)字汀と云うなり。又た金色泥塔法とも云うなり。〕
印は口伝。 明はア(梵字:a)。
口伝に云く、
先ず内縛印〔台(胎蔵)〕。 真言に云く、
オン・ア・ソワカ(梵字:om a svaha)
次に外縛印〔金(金剛界)〕。 真言に云く、
オン・ア・ソワカ(梵字:om a svaha)
次に二手、互いに指首(指先)を指股に指し入れて(非内非外縛印)、二大指を並べ立てて、月輪(がちりん)印〔蘇(蘇悉地)〕とす。真言(に云く)、オン・ア・ソワカ(梵字:omm a svaha)。次に同印にて、左大を以って上に置く。台大日と名づく。真言は前に同じ。次に同印にて、右大を以って上に置く。金大日と名づく。真言は前に同じ。次に同印にて、二大を並べて月(掌中)に入る。真言は前に同じ。不二大日と名づく。口伝に云く、二大を月輪に入ることは両部大日の理智不二と成る義なり〔云云〕。次に虚円月輪之印〔我心は是なり〕とす。真言は前に同じ。ア(梵字:a)字を観ぜよ。指端に各五佛ありて五智光を放つ。掌内には本尊のア(梵字:a)字、掌背に吾がア(梵字:a)あり。
(中略:虚円月輪印らしき図があり、中に大きく梵字のアを書く。その他、浄土変の真言(オン・ボク・ケン)と法報応三身、佛蓮金三部との対応を記す等の事あり。)
我覚本不生(我は本不生を覚れり) 出過語言道(語言の道を出過して) 諸過得解脱(諸過より解脱することを得たり) 遠離於因縁(因縁を遠離して) 知空等虚空(空の虚空に等しきを知る) 如実相智生(如実相智生じて) 以離一切暗(以って一切暗を離る) 第一実無垢(第一実無垢なり)
 建保五年(1217)四月八日、之を示す。
  伝燈大法師位慶円、資性心に授け了んぬ。 」
両印信を較べると、先ず印信の短い本体部は全く同じと云えます。
次いで口伝の印に付いては慈猛の印信には何も記されていませんから、一応慶円の印信に依る外はありません。慶円の印信に於いては、両部の印言と蘇悉地印言より以下の部分では書き様が異なり、蘇悉地以下は改行せずに続けて書いていますから、恐らく此の部分は両部印言より後に成立した口伝であると考えられます。
これらの事から推測して「光明潅頂」なる法門の肝要は、虚円合掌、即ち非内非外縛印か虚円月輪印を結び、その中に光明を放つ金色の阿字を置いて、阿字本不生の空理を観想する事であったと思われます。要するに光明潅頂とは、阿字観に関わる一種の口伝を潅頂印信の型式を用いて伝授したものでしょう。「瑜祇潅頂密印(瑜伽瑜祇理潅頂)」の印言は、虚円合掌(非内非外縛印)にバン(梵字:vam)明、或いはア(梵字:a)でしたから、「光明潅頂」と「瑜祇理潅頂」とは印言に関しては同類であると言う事が出来ます。
猶慶円の印信の最後に記された「我覚本不生」以下八句の偈頌は、『大日経』巻第二「入漫荼羅具縁真言品第二の余」の冒頭部に於いて、毘盧遮那佛が執金剛菩薩に告勅する部分から引用しています。

(三)相承血脈の事
慈猛が審海に授けた仁寛流の印信類には両種の相承血脈が含まれている事は、既に「和訳紹介」篇に掲出して示した通りです。両種とは言っても、小野僧正仁海の次に覚源―定賢―勝覚と成尊―範俊―勝覚という相承の違いがあるだけで、
勝覚―蓮念(仁寛)―見蓮―覚印―覚秀―浄月―空阿(慈猛)―審海
なる血脈に相違はありません(No. 6227、6239)。
是に対して慶円相承の「光明汀血脈」は、
(前略)成尊 範俊 勝覚 蓮念 観蓮 覚印 覚秀 慶円 性心〔改名心海〕
であり、慶円は慈猛の師浄月上人と同じく覚秀から相伝しています。血脈の「観」蓮は「見」蓮と同じ人でしょう。猶血脈授与の年時に付いて慶円は、
建保五年四月八日、之を(性心に)示す。〔三輪山に於いて伝授すること了んぬ。〕
と記しています。
このように慶円は立川流の光明潅頂を相伝したのですが、慶円の在世時に他流に於いても光明潅頂なる印信乃至口伝は相承されていたのでしょうか。現在伝わっている諸流の潅頂印信類はほとんどが近世の写本であるのみならず、その多くは近世になって互いに諸流の印信を参照して新しく編集したものですから、慶円当時の事はなかなか知るのが困難であると言えます。慶円相承の印信集である『諸流水丁(かんじょう)部類聚集』にしても江戸時代後期の写本であり、果たしてその内容が原本に忠実なものであるかどうか確かな事は分からないと前述しました。
当HP『柴田賢龍密教文庫』の子ブログ『真言立川流の相伝者浄月上人の史料紹介』の記事「三輪上人慶円の立川流相伝の事(其の一)(其の二)」に於いて、慶円が十余人の師から小野流を中心に数十通に及ぶ諸流の諸種潅頂印信を受けていた事を記しました。そして慶円は別して仁寛/蓮念方の光明潅頂受法に付いて詳しく記しています。その事と鎌倉中期の一次史料である慈猛相伝の立川流印信類の中に別して光明潅頂印信がある事を考え合わせれば、慶円在世時にあっては、「光明潅頂」は同流にのみ相伝されていた他流に不共(ふぐう)の法門であった事が考えられます。

(以上)

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