石ころ

折々のささげ物(民数記28章~29章)

 

主はモーセに告げられた。
「イスラエルの子らに命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしのための食物、わたしへのささげ物を、わたしへの食物のささげ物、芳ばしい香りとして、定められた時に確実にわたしに献げなければならない。(1~2)

 

此処には、主へのささげ物が詳細に命じられている。
イスラエルの民が神の恵みによって生きていることを忘れないように、共にいて下さる主に聞き従う従順のささげ物によって、歴史に在る主が助けてくださった日々を、意識に刻み込み平安に生きるためである。

 

創造主が人から食物を準備される必要があるだろうか、それは神と民の交わりの食卓の様である。共に居てくださる神を喜んで、その祝福とお守りを味わい安らぐ時のようである。いつも主が民の食べ物を準備してくださる、今は民が主に応答して捧げさせていただくのだ。それは張り切ることであろう。

 

 漫然と世のことにかまけていると、いつの間にか主の存在が希薄になって、魅力的な装いを凝らした世の繁栄に心を奪われてしまう。みことばのお導きを聴く時が持ち去られ、親しいお交わりを失って行くのである。

 

わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。(ホセア6:6)

 

朝毎にみことばを通して主を礼拝するのは、一日一日が主に在って生かされている記念の日だからである。子としてくださった父なる神を喜び、キリストの十字架に感謝と賛美を捧げ、聖霊の助けによってみこころを成させてくださいと願う日なのである。

 

それはイスラエルの歴史に働かれた主を覚えてのささげ物と比べる時、時計の秒針のようにもっと親密な絶え間のない交わりによるささげ物である。

 

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
御霊を消してはいけません。(Ⅰテサロニケ5:16~19)

 

順境の時も逆境のときも、健やかでも病んでいても、誉められていても罵られていても、また何も起こらない単調な日々の中でも、絶えることなく主を喜び恵みを数えて御名を呼ぶことを可能にするのは、聖霊のによるお守りである。


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