「沈黙」に対してなんか生煮えだと感じていた時、「宗教の時間」で語られる事を知って何か発見があるかも知れないとテレビを見た。
裏切られたロドリゴが、キチジロウに語る画面に「ニワトリが鳴いた」という文字を見た時、イエスさまを裏切ったペテロによって、教会が建てられたことを思い出した。
真っ直ぐに殉教出来る者は祝福だ。でも、転ぶ者の弱さにある神の備えは深いと思った。「日本的な理解の母なる神」と話して居られたけれど、人は初めから神の慈しみの故にひとり子を賜ったのだ。
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。
そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。(ピリピ3:12)
今朝読んだパウロの言葉は、弱さ故に転んでしまった者にとっても同じであると思った。
人は幾度も神様を疑ったり身をかわしたりするものであるが、それでも望みがあるのは人の成り立ちを知っていてくださることにある。
キリストに知られているゆえに捕らえていてくださり、キリストに出会った者は弱さの中にあっても、追求することを止められないのだ。
ただ、聖霊を否むことは赦されない。人の挫折の中にある主の導きを否んで、心を頑なにするなら御許には戻れない。
イエスさまが捕らえられた時、ご自分を売ったユダに「友よ。」と呼びかけられた。あの時ユダが御前で崩れひれ伏したなら滅びることはなかっただろうに。
神様であっても頑なさには救いの手を伸べることはできない。でも弱さには救いが備えられている。
主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)
人が、「神はなぜ彼を助けないのか」と悩むことは僭越に過ぎる。彼への神様の愛をどれほど分かっていると言うのか、人は初めから終わりまで知ることはないのだ。
神はすでに御子によってその愛を余すことなく現された。私たちはこの事実を歴史に見ているのだ。
信仰は神様と本人以外だれも立ち入れない深みを持っている。そこで何が語られているのかどのような慰めや希望があるのか他人が知ることはない。
組織の枠という目に見える所からはみ出した者にある神の救いを、「沈黙」によって語っておられたのが私には発見だった。
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ムベ
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