イエスさまに救われた私たちは、主のために働きます。何処で?主が居られる所でです。主を離れては何も出来ないからです。
救われた者は皆キリストの弟子となるべきです。すべての救われた者には弟子として働く責任があります。
まず、私たちは家庭や会社や地域においてイエスさまを伝えます。その方法はイエスさまが教えられます。
イエスさまに従って居れば、私たちの中からキリストの香りが立ちます。それが主の方法です。そうして救いが広がって行くのです。
イエスさまがご自分の天での支配を捨てて、地に下って十字架で死んで下さったそのいのちを受けたのですから、私たちもイエスさまのように自分の権利を捨てて、身近な人のために命(自分の計画や方法、頭の中にある手段など)を捨てます。身近に居られる方の救いの為です。
イエスさまがお弟子を集められる時、
「すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」とあります。
網も舟も父さえも置いて、すぐにイエスさまに従って行ったのです。この世で食べて行くための仕事も、肉親も即座に捨ててイエスさまに従いました。
でも、父、残された家族は、イエスさまにちゃんと覚えられていることを知っています。
なぜそう言えるのかというと、私が家族を捨ててひとりイエスさまに従った時、家族がイエスさまから見捨てられることは無かったからです。
これが、神の御子の救いに応答する態度です。この時は永遠のいのちを得るためのチャンスです。このチャンスを逃がしては、人は永遠に滅びるのです。
「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」このみことばは真実です。
でも、ひとつの条件は、「あなたが、その時すぐにイエスさまについて行くなら・・」です。
イエスさまは、すべての人が救われることを望んで居られますが、人が救いに漏れるのは、「また何時か・・」「今はまだ・・」という軽い気持ちで、イエスさまを後回しにするからです。
奇跡を見ると、人々はイエスさまに神の権威を見て驚きました。その噂は広がりました。でも、その人達は弟子ではありません。
驚いたり、噂をしている傍観者です。最後には「十字架につけろ」と叫ぶ群衆です。
弟子は働く者です。信じてたイエスさまのお言葉に犠牲を払って従います。すべてを捨ててすぐに従います。このことがイエスさまの喜びです。
イエスさまは「わたしは、彼らによって栄光を受けました。」と最後に父に祈られました。
実は失敗ばかりの弟子だったのですが、彼らがイエスさまを唯一従うべきお方、第一の方にしたことを喜ばれたのです。
イエスさまを救い主と知っても人の反応を様々です。
イエスさまは傍観者になったからと言って、罰することはなさいません。十字架の上で、「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです。」と取りなしをしておられます。
しかし、彼らが自から従順しない限り、彼らの救いは実現しないし、イエスさまの喜びにもならないのです。
厳しいことは、そのことが私たちひとり一人の、選択に任されていると言うことです。
従って行くときの、私たちの弱さからの失敗を責められることはありません。イエスさまは私たちが何を願っているのかを初めからご存じで、必要はすでに準備していてくださいます。でも、失敗の願いをしても、忍耐を持って覆って下さるお方です。
私たちの生まれながらに持っているすべての強さは、イエスさまを知ったことで弱くされ、ただ、ただイエスさまの助けによって生きるようになるのです。
このことがイエスさまの喜びです。
なぜなら、そうするときイエスさまは、永遠のいのちという最上のプレゼントを私たちに渡すことが出来るからです。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。Ⅰコリント1:27
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。Ⅱコリント12:10
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