金や宝石、織物や毛皮や材木など、世の最も優れたものを用いて、びっしりと書かれている神の命令に従い完璧に作られた幕屋で、大祭司によって罪のあがないのために、繰り返し動物の血が捧げられても、
それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。(9)
しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(11~12)
神の聖さがどれほどのものであるのか、神の義はどれほどの完全を要求するものなのか、人には理解出来ない。生まれながらに罪を持っている人間には悟り得ないことである。
神の聖さにあり神の義にあるイエス・キリストが、人となって世に来てくださったことが、どれほどあり得ないことか・・、
キリストはどれほどの忍耐をもって愛してくださったか・・、キリストが通られた幕屋の厳しさを漠然と思うことがある。
それも的外れなことかもしれないけれど・・。
もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(13~14)
神さまが「わたしの愛する子」であるイエス・キリストを、罪人の世に送り、罪を負わせて十字架に掛けなければならないほどの、神の義を悟ることが出来るなら、十字架のあがないが、どれほど完全であるかを知ることが出来るだろう・・。
しかし、私たちを告白を導いてくださった聖霊は、みことばを生きることを助けて、主に在る望みに満たしてくださっている。その平安の中で、もう世に引き回される者ではなく、主への感謝によって生きるようになっている。すべてが新しくされたのだ。
こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。(15)
たまわった「永遠の資産」をリアルに経験する日には、神さまを本当に知ることになるのだろう。
少し怖いことだけれど、罪は完全にキリストによってあがなわれていて責めも罰もなく、ただ、主を仰ぎ見て素直に喜び感謝に溢れる賛美を捧げるだろう。何時までも・・いつまでも・・永久までも。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)
キリストは御自身のいのちをもって、御父の「愛」を届けてくださり、十字架の血潮で洗って「聖」としてくださり、罪をあがなって「義」としてくださった。ハレルヤ!