神の御子であるイエス・キリストによって、罪の結果である死から救われた者は、約束のみことばに留まる信仰によって永遠に生きるいのちとされた。
キリストの御救いに与ることなく永遠に生き続けるとしたら、それは終わりのない刑罰である。罪から発するあらゆる問題の中で、最後の逃げ道を閉ざされるのだから。
それゆえ神は罪を知ったアダムたちが、「いのちの木の実」を食べることがないように、園から追い出された。
キリストの十字架によって罪をあがなわれ神の子とされた者が、世の働きを全うして肉体の死を通過すると、まったく新しい霊のからだを着せられて、主の御許で永遠のいのちを生きるようになる。
彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。(ルカ20:36)
死を経ずに携挙の恵みに与ることもあり、主を愛する者はキリストの再臨のラッパの音と共に、その身を縛っていた肉を脱ぎ捨てて、解き放たれた魂はキリストの元に上げられ、朽ることのないいのちを永遠に生きるいのちとなる。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」(Ⅰコリント15:52~54)
永遠に主の御許で生きることを切に待ち望むには、聖霊に拠って主を経験することが必須である。永遠という終わりのない時を、完全に義なる神の御許に安息していることは、肉を纏っている者が想像することは不可能だからである。
今地に生きている者には苦痛としか思えないのは、神の栄光の中ではすべてが丸見であって、何一つ隠し事など出来ず、一切の罪が存在出来ないことを知るからである。
この地に生きる間に、キリストの十字架の御救いがどれほどに完全なものであるかを、聖霊によって日々に味わい、赦しの御恵みに浸されて生きる経験を重ねると、完全なキリストの平安に留まる喜びによって、神と共にある永遠を求める勇気を賜る。
聖霊はキリストという宥めの捧げものが、神の御前にどれほどに高価で完全な捧げものであったかを、キリスト者の完全な赦しを通して教えてくださる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。(黙21:4)
聖霊は天にある祝福を地にある今も折々に神の豊かな御恵みを味合わせ、みことばの真実なことを教えて、永遠への望みを満たしていてくださる。
死の先にある祝福を知る者は、地に在る出来事に一喜一憂することのない平安にあり、驚くような永遠の望みに歓喜しているのである。