主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。
六日間は仕事をする。しかし、七日目は全き休みのための安息日、聖なる会合の日である。あなたがたは、いかなる仕事もしてはならない。この日は、あなたがたがどこに住んでいても主の安息日である(1~3)
神は人に従順による聖さを教えて、関係を繋ぐためにご自分の民に律法を与えられた。人は与えられた律法を行うことによって、神の好意を得て神の民であることを確認し平安を得ようとした。
神は世の初めから終わりまで少しも変わることのない方である。しかし今はその律法のすべてが、初めの通りに行われているわけではない。
命じられた永遠の掟は、御子キリストがすべてを成し遂げて完了された。律法は、一部だけを守って神に受け入れられることはなく、神の聖さは比較ではないので、完全でなければ通用しないのである。
今キリスト者は信仰によって、人が関わらなかったキリストの完全な聖さのなかに置かれてあり、律法の物差しによって、神との関係を計ることはないのである。
イエス・キリストが十字架で流された血が神の要求をすべて満たして、キリストの平安をたまわっているのである。
キリストのみわざによる神の子であることを、世で生きて働く間も自他に証明していてくださるのは、聖霊なる神である。
39年前、イエス・キリストを信じて教会の交わりに加えられ、聖日礼拝毎に聴くみことばは驚きに満ちていた。聖書の言葉を知ることが嬉しくて、賛美が楽しくて、すべてが無我夢中の喜びであった。
みことばであるイエスさまを語りあう楽しさは、世では経験したことがない喜びであり、神の祝福や恵みを聞くことほど、わくわくすることはかって無く、すべてが新鮮であった。
それは聴いたみことばが自分の中に実現して行っていることを、聖霊が知らせてくださっていたからである。
キリストは信じる者に永遠の安息を準備してくださった。それは、私たちが戒めを守ることに拠る安息日ではなく、キリストの十字架のあがないにより一方的にたまわる、永久の希望による安らかな居場所である。
主に在る者の死は、裁かれることの無いいのちの入り口であり、行いにはよらず、キリストに身を避けた者が恵みによって入る、愛の神が住まう御国の望みである。
それは生きている間に、キリストを信じることによってのみたまわる救いであり、今すぐに求めるべき唯一無二のものであって、生まれて来た者に与えられた最大の課題である。今というのは、誰も一寸先を知らないからである。
あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。(コロサイ3:1~2)
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。(コロサイ3:16)