石ころ

安息日の祝福  ①(レビ記23章)

 

 

 主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。
六日間は仕事をする。しかし、七日目は全き休みのための安息日、聖なる会合の日である。あなたがたは、いかなる仕事もしてはならない。この日は、あなたがたがどこに住んでいても主の安息日である(1~3)

 

神は人に従順による聖さを教えて、関係を繋ぐためにご自分の民に律法を与えられた。人は与えられた律法を行うことによって、神の好意を得て神の民であることを確認し平安を得ようとした。

神は世の初めから終わりまで少しも変わることのない方である。しかし今はその律法のすべてが、初めの通りに行われているわけではない。

命じられた永遠の掟は、御子キリストがすべてを成し遂げて完了された。律法は、一部だけを守って神に受け入れられることはなく、神の聖さは比較ではないので、完全でなければ通用しないのである。

 

 今キリスト者は信仰によって、人が関わらなかったキリストの完全な聖さのなかに置かれてあり、律法の物差しによって、神との関係を計ることはないのである。
イエス・キリストが十字架で流された血が神の要求をすべて満たして、キリストの平安をたまわっているのである。

キリストのみわざによる神の子であることを、世で生きて働く間も自他に証明していてくださるのは、聖霊なる神である。

 

 39年前、イエス・キリストを信じて教会の交わりに加えられ、聖日礼拝毎に聴くみことばは驚きに満ちていた。聖書の言葉を知ることが嬉しくて、賛美が楽しくて、すべてが無我夢中の喜びであった。

みことばであるイエスさまを語りあう楽しさは、世では経験したことがない喜びであり、神の祝福や恵みを聞くことほど、わくわくすることはかって無く、すべてが新鮮であった。
それは聴いたみことばが自分の中に実現して行っていることを、聖霊が知らせてくださっていたからである。

 

 キリストは信じる者に永遠の安息を準備してくださった。それは、私たちが戒めを守ることに拠る安息日ではなく、キリストの十字架のあがないにより一方的にたまわる、永久の希望による安らかな居場所である。

主に在る者の死は、裁かれることの無いいのちの入り口であり、行いにはよらず、キリストに身を避けた者が恵みによって入る、愛の神が住まう御国の望みである。

それは生きている間に、キリストを信じることによってのみたまわる救いであり、今すぐに求めるべき唯一無二のものであって、生まれて来た者に与えられた最大の課題である。今というのは、誰も一寸先を知らないからである。

 

あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。(コロサイ3:1~2)

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。(コロサイ3:16)


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コメント一覧

アザラシ
クリスチャンの知り合いに幻が見え、神の声が聞こえる人がいます。私も神の声が聞こえるようになるようにと異言と日本語で祈られました。神の声が聞こえると言っていた方は、聞こえるようにと祈ってもらってから2週間した後から聞こえ始めて「あれ、今のって神の声?」と思ったそうです。祈られたから自分も聞こえるようになるのかなとも思いますが、求めれば賜物だから与えられる、求めないから受け取れない、と言われたこともあり、普通に考えて理解できない話をするその方に腹が立ちます。
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