石ころ

十分の一が必要なのは人である(申命記14章)

 

あなたの町囲みの中にいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼は、あなたと同じようには相続地を割り当てられないからである。(27)

 

主に仕えて自力での豊かさを得られない、レビ人を豊かにするのは彼を通して主の恵みを、受けている人々のささげ物である。

神には如何なる不自由もない。神は与えられる方ではなく与える方であり、天の下にあるものはすべて神のものである。

それゆえささげ物は人への祝福として何倍にもして返される。

 

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。
──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。(マラキ3:10)

 

聖書で唯一神を試すことが許されている箇所である。確かに捧げ切った者には生きて働く神の御約束を、困難な日に必要なだけの金利を付けて返してくださることを知っている。

 

三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みの中に置いておかなければならない。
そうすれば、あなたと同じようには相続地を割り当てられないレビ人や、あなたの町囲みの中にいる寄留者や、孤児や、やもめが来て食べ、満ち足りるであろう。それはあなたの神、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。(28~29)

 

ささげ物は人に必要なのである。それゆえ神にささげた物の、心は神に届き金銀は人の必要のために用いられる。主に仕える人や貧しく弱い者を養うために・・。


時が迫っている今は、特に霊的な貧しさにある人々のために用いられる必要がある。彼らもキリストが十字架で贖われた人だからである。


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