クリスマスの喜びに対する違和感があった。今朝その根拠がなにであったかイザヤ53章を読んでいて気付かされた。
救いはクリスマスから始まって十字架に至ることで完成する。クリスマスを、キリストの来臨と喜んで終わっている事に苛立っていたのだ。それでは救いは未完成である。
サタンはクリスマスを妨げることはない。盛り上げることさえある。此処で終わっていることに彼にとってはなんの問題もないからである。
でも、クリスマスと合わせて十字架を語ることは妨げられる。人の感情に訴えて顔を背けさせるものがある。しかし、イエスさまの誕生は十字架に至るためである。
クリスマスは人の罪のための生け贄の誕生である。このことの知識と信仰の必要がクリスマスで宣伝されることはない。
イエスさまの誕生を知って、礼拝するために来た東方の博士たちが捧げたのは、黄金と乳香と没薬であった。没薬は死者に塗るものである。生まれる前から準備されていた十字架の死であった。
イエスさまの十字架のあがないによって、彼の子孫としてキリスト者が生まれる。それがクリスマスの計画である。
イエスの喜びは誕生ではなく十字架にある。
今私たちも共に十字架を通って大いなる喜びに与っている。
メリー・クリスマス!
彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。(イザヤ53:9~11)
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