昨夜はどうにも眠くて起きていられず、お風呂に入ることもなく歯磨きだけで床にはいってしまった。
朝食の後で「お風呂に入ろう」と思い立ち、バブを放り込んで朝風呂に入った。「なんて贅沢・・」と感謝しつつ明るさの中で湯船に身を浸し、ゆっくり体を洗い髪を洗う。
祖父は朝風呂派で開けたばかりの銭湯に通い、それから嘱託としての務めに出かけていた。湯船で久しぶりに祖父の姿を思い出した。夕闇の部屋で背を丸くして祈っていてくれた人であった。主はご真実ゆえに、祖父の祈りを受け入れてくださり私は救われた。
風呂上がりの火照った体で表に出ると、洗いたての髪を吹き抜ける爽やかな風に、温泉にでも来たかのような新鮮さを感じた。なんと安上がりな贅沢よ・・。
老いることで、それまで不可能なことが色々と出来るようになった。立場にある日々の配慮に追われ追われて、叶わなかった事々から解き放たれた今、老いと言う時が与えてくれた自由を喜び、このような者を生かしていて下さる主の恵みに、私の霊と魂は平伏している。
罪をあがなう十字架の死からよみがえられたキリスト。聖霊によってこの復活のキリストの恵みに出会った時から、罪の脅しや世の習いにがんじがらめであった魂は悪魔の鎖をパラリと解かれて、キリストの平安に住むようになった。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
たとえ世の嵐を見て恐れる時があっても、キリストの御手は私が叫ぶより先に私を掴んでいてくださる。繰り返しこの事実を経験する度に「まことに主は生きておられます。」と感嘆の声をあげて賛美し礼拝するばかりである。
「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
その恵みはとこしえまで。」
飢えと渇きによって
彼らのたましいは衰え果てた。
この苦しみのときに 彼らが主に向かって叫ぶと
主は苦悩から救い出された。
彼らをまっすぐに道に導き
人が住む町へと向かわせた。
主に感謝せよ。その恵みのゆえに。
人の子らへの奇しいみわざのゆえに。
まことに主は 渇いたたましいを満ちたらせ
飢えたたましいを良いもので満たされた。(107:1.5~9)