祈祷会では、ぶどう園のたとえが開かれた。
「ぶどう園の主人の熱心・・」その言葉を聞いた瞬間、私の霊が恵みをキャッチした。
今まで幾度も読んでいた箇所から、新しいことを知るのは嬉しい・・。
ぶどう園の主人が神さまなら、そこはすばらしい所ではないか!そこは天の御国だと・・。
人生の朝早くから主のぶどう園、神さまの備えの中にあることは最高の幸いだ。人生の夕方まで造り主なる神さまを知らずに、不安のなかで彷徨うこととの違いはどれほどだろう。
しかし、神さまの備えの中にあっても、
「私たちは1日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」(マタイ20:12)
このような告白しか出てこないなら、それはなんとも悲しい。
それは放蕩息子の兄のようだ。父と共に居ても、彼はその豊かさにも愛にも気付いていなかった。
彼には、その1デナリは使えば無くなるただの金に過ぎない。
主に賜った1デナリは完全ですべての必要を満たしている。もう、それ以上に付け加えるものがなにもないほどに、完全な1デナリは十字架、主の溢れるばかりの愛によって評価され、賜ったもの。
主は人の評価に任される。このことは厳粛である。
そう、主に賜ったものをどのように評価するかは私たちに任されている。そうしてその評価が事実となる。
焼け付く陽射しから覆って守る主の羽にも、とうごまの影にも気付かず、1日中側で守られていたことにも気付いていないことは悲しいことだ・・。
夕に雇われたものは、招かれただけでずっと主人を喜んでいただろう。権利のない1デナリを受けたときどれほど喜んだだろう。そうして、彼の喜びは主人をも喜ばせたことだろう。
受ける権利がないことを知って居るから、受けた1デナリは深い感謝の内に、恵みを知って救いとなるだろう。
だから、後の者の救いはすぐに来る。しかし、先の者が主の恵みに気付くには、なんと時間のかかることだろう・・。
忍耐の主が待って居てくださる望みはあるけれど、なんとまあ・・勿体ない時間だ。
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