あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。(12)
父と母を敬うことは主のみことばを敬うことである。父と母がどのようであるか、そのような理由は問われておらず、平安はみことばに聴き従う中に在り、それこそがすべての理屈を越えた所に在る神の祝福である。
みことばに拠って生きる私たちの命は、みことばの保証の中にあって健やかであり、此処に長生きすると書いてある。主が与える長生きは無意味な日々とはならず、老いても一日一日が主の御計画を成就して行くための時間となる。
見よ子どもたちは主の賜物胎の実は報酬 (詩127:3)
子は神の祝福であり、父であること母であることは神よりたまわった恵みである。良き方が良き計画をもって産み出してくださったことに子も感謝して、みことばを通して親を敬うのである。
「敬われる親になる」なんぞと考えての子育ては拷問のようであろう。生まれつき親の資質を持っている者なんか居ないので、何もわからない者が、すぐにも死んでしまいそうに見える命を育てる日々は、ほとんど無我夢中のうちに在る。
自分の弱さも欲求も、また自分自身のもろもろの傷や痛みもあるままに、世の嵐に振り回されながら父と母はそれぞれの役割を担う、誰彼に比べてのことではないが未熟なままに果すのである。そう、子育ては若く未熟なうちに成さねばならないのである。子育ては人間を学ぶことだからである。
赤ちゃんは可愛い天使ではなく、時も場所もわきまえず我が儘で、そのくせとても弱くすぐにも死にそうになる。初めての子なら、父母はこれほどやっかいなものに出会ったことはないのだ。
泣き声は心をかき乱すほど強烈で、夜泣きする子を抱いた母も途方に暮れて泣くのである。子を育てるということは寝顔だけでも幸せに満たされる一方、行き届かぬ自分自身の後悔と心身の疲労など忍耐の連続でもある。
大きくなってくれば否応なく本人の能力や、家庭の経済など社会的な問題と真正面から向き合うこととなる。どんなに愛していても叶えられないことがあり、それらを親子で許し合い、事実を認めて未来を模索し開拓して行くこととなる。
父であり母であることによって自分の無力にも気づかされ、いつの間にか子に許され庇われていたことも経験する中で、一緒に成長することになるのだ。だから親になるのは未熟なうちから始まり、命の大半を用いて完成する大事業なのである。
子が親を敬うのはそのような未熟な成長過程に在ってであり、思い出の片鱗による愛もあり、同じような欠点を持った人間に対しての同情もあり、血の繋がりによる無条件の憐みも混じる。
みことばに従って親を敬うことで、その素直さは、神の祝福によって産み出された自分の命を喜び、良い方である神の良きご計画に望みが在り、どんな時も力強く生きる基礎となる。
父なる神と御子イエス・キリストの愛を知った時、人間の弱さから来る罪の傷跡はきよめられて、良くも悪くも自分が味わった事柄とはまったく違った次元で、この世に生を受けた父母に素直な敬意を払うことが出来るのである。
主を恐れる人は誰か
主はその人に選ぶべき道をお教えになる。
その人のたましいは幸せの中に宿り
その子孫は地を受け継ぐ。(詩篇25:12~13)